01.ハロウィンの夜 | |
「ねぇ、退屈なんだ…。ボクを楽しませてよ、人間」 「………楽しませる、って」 「キミの願い、何でも叶えてあげる」 圧し掛かったシルエットが俺の耳元に唇を寄せて甘く囁く。耳に掛かる生温い吐息にゾクゾクしていると、悪魔はそれを見て妖艶に笑った。 重い。何だか胸が息苦しい。寝返りを打とうとも体が思うように動かなくて、俺は明け方に鬱蒼と目を覚ました。 「………な、んだ?」 俺は自分の目を疑った。布団の上に誰かが乗っかっていたのだ。何回瞬きをしてもその光景は変わらない。真っ黒い大きな塊が俺の上にいる。しかも何か唸り声みたいなのも聞こえる。もしかして野良犬か!? いや、ありえない…。ここは2階だ。何だ、誰だ? 泥棒か? それとも殺人鬼!? 相手は声を発しないし、危害を加えようとする雰囲気もない。 「…だ、誰だ? 泥棒…なのか?」 「キミの願いを叶えてあげる」 独り言のような俺の呟きが聞こえたのか相手から返事が返ってきた。カーテンの隙間から射した僅かな光がユラリと揺れたかと思うと、その声の主は歪んだ空間から姿を現す。野良犬とは違う雄雄しい毛並み、獰猛な目付き、ギラギラと光を跳ね返す牙。…白銀の狼がそこにいた。 「!!!」 俺は思わず息を飲む。喉がカラカラで叫ぶことが出来なかった。ただヒクリって喉仏が動いただけだ。人間本当に驚いた時って声が出ないんだな。でもさすがに本能は働くらしい。枕で身を守るようにしながら、じりじりと後ずさる。 「こっち来んな! お、俺なんか食っても美味しくないぞ!?」 「やれやれ…」 「!? しゃ、喋った!!?」 狼か犬か分からないが、明らかに動物だ。しかしそれが人の言葉を話したのだ。俺には訳が分からなかった。これが現実にありえることなのか? 俺がテンパって声が出ないことを察知したのか、狼は空中に浮き、クルンと一回転した。 「は?」 今目の前で一体何が起きたのか? 原理も何も分かったもんじゃないが、その瞬間、…狼は人間に変わった。パッと見た感じ、年は俺とそう変わらなさそうだ。男か女か分からない。だけど一般人とは決定的に違うところがあった。頭にはとぐろを巻いた象牙色の角、そして背中に紫色の蝙蝠の翼が生えていたのだ。 「もしかして…」 「そう、ボクは悪、」 「コスプレか?」 「!! っそれは違うよ…! ちゃんと良く見て?」 言う通り、良く見てみた。ふわふわと柔らかそうな髪の色はグラデーションがかった白。キラリと暗闇に光る瞳は淡い緑灰色。睫毛は長く、鼻筋も通っている。微笑んだ薄い唇は綺麗なピンク色で何だか色っぽい。胸まで切れ込みが入った服の隙間から白い肌がチラリと覗く。括れた細い腰。闇に浮かび上がるその妖艶な容姿は、この世の者とは思えないほどの絶世の美人だった。 「ほ、本当に誰だ…?」 絶体絶命かと思った時とは違う心臓の高鳴りが胸を支配している。その、何だ…。一見すると近寄りがたい綺麗系って感じなのに、良く良く見るとあどけない顔立ちをしてて。……すごく、好みだった。 「ふふっ、ビックリした? 悪魔には実体がないんだよ! 相手好みに姿形を変えることが出来るのさ」 「…悪魔なんだ。なるほどな。………ええっ!?」 「とにかく! キミの願いを叶えてあげるから、とりあえず何か言って?」 不敵な笑みを浮かべながら小首を傾げてきた。どうやら本当に悪魔らしい。これは、夢か? そうだ…、夢だよな。夜にいきなり可愛い悪魔が現れて、願いを叶えてくれるだなんておいしい話はきっと俺の妄想だ。それにしても何でもと言われてもなぁ…。 完全に目が冴えてしまった俺は起き上がって、腕組みをした。考えがてら傍にいる悪魔の頭に付いた角を突いてみると、確かに作り物ではない質感が伝わってくる。感心してベタベタ触っていたら、不機嫌そうな顔で睨みつつ、パシッと平手で叩かれた。意外と短気な悪魔らしい。 「もちろんタダって訳にはいかないよ。キミからは精気を頂く」 「俺…こ、殺されるのか…!?」 「ううん、別に死にやしないよ。ちょっと元気がなくなるだけ。どう? 悪くないでしょ?」 そう言って悪魔は擦り寄ってくる。そして白く綺麗な手で俺の内股をゆっくりと撫でた。ゾクゾクした。甘い香りを漂わせながらうっとりと微笑んでいる。俺は改めて考えた。そうだ、悪魔なんている訳がない。夢で妄想であるならば、何でも言って良いってことだよな。 「ねぇ、早くしてくれる? ボク急いでるんだ…。何でも良いからさっさと契約してよ」 相手は呆れたような顔で言葉をぶつけてきた。何だか投げ遣りな悪魔だな。叶えたい、願いか…。すぐには思い浮かばないな。 俺は自分で言うのも難だけど、それなりに裕福な家庭に生まれている。だから欲しい物は大体手に入ったし、なりふり構わず勉強と運動に力を注いできたから成績だって悪くない。寧ろ良い方だ。親の前では良い子を演じて、先生には媚を売って…。少し疲れることはあるけど、別に不満に思ったりはしていない。ただ恋愛とかはからっきしで、未だに女の子と付き合ったことがない…もとい童貞なのがちょっとコンプレックスだ。 …夢くらい、俺の好きにしたっていいよな? どうせ夢なんだ。使い切れないほどのお金だとか、誰にも負けない才能とか、順風満帆な人生をってのも良いけど。俺は…。 「あのっ…だったら…その、俺と……付き合ってくれないか?」 思い切って言ってしまった。正直、一目惚れだったんだ。悪魔って言ってたけど、話した感じもそんなに悪い奴には見えなかったし。こんなに綺麗で可愛い悪魔なら、性別は男だろうと誰だって好きになりそうな気がする。手を差し出した俺に悪魔は盛大に溜息を吐いた。うっ、何でもって言ったじゃないか…。 「うーん、世界征服よりかはマシかなぁ。良いよ、キミの恋人になってあげる。右手を…」 言われた通りにおずおずと右手を差し出すと、薬指の根元に軽くキスされた。これが契約ってやつなのだろうか。ドキドキして様子を窺っていると、悪魔は服を脱ぎ出した。黒いローブみたいなものを取ると、そこには透き通るような白い肌が垣間見える。 「お、おい! いきなり何脱いでんだよ!?」 「え? だってもうお願い決まったでしょ。これからが本番さ…」 「本番って、まさか…!」 脱いだ服の下から薄い胸元にツンと尖った2つの突起が覗いて、混乱からギクシャクする。そんな俺を見て、上半身裸になった彼は「あはっ」と軽快な笑い声を立てた。 「キミの精気を頂くからね。当然Hなことをするんだよ」 「あ、あの……ちょっ、と…待ってくれ」 「ん? もしかして、やる気なくなっちゃったのかな?」 「そうじゃない。…やる気は、あるんだけど、…その」 歯切れが悪い俺に彼はそっと体を寄せて、下から覗き込んでくる。 「キミが初めてなのは知ってるよ。そこは嗅ぎ分けてたから。安心して、全部ボクに任せて…?」 悪魔は全裸になった。彫刻のように完璧な肉体。思っていたよりも華奢じゃない。筋肉が綺麗についている無駄のない作り。下には俺と同じ物がついている。だけど嫌悪感は微塵も湧かない。女の子のように柔らかくも小さくもない、ちゃんとした男の体だ。しかも悪魔。でも何だか興奮する。 「ようこそ…、ボクの内側へ。人間では味わうことの出来ない最高の快楽、教えてあげる…」 ニヤリと厭らしく微笑まれ、舐めるようなキスをされた。同時に服を脱がされ、口では言えないような所を弄られる。悪魔の指先が体を撫でる度、俺はビクビクと魚のように跳ね上がった。こんな快感初めてだ。そして、俺は正気を失った。 あの後はもう、すごかった。いや、何かこう…。とても言葉に言い表せないくらい。うん…とにかく、すごかった。セックスするのは初めてだった俺でも今回が相当すごいのが良く分かった。AVなんかの比じゃない。頭に血が上って、ただただ悪魔に腰を打ちつけていたことしか覚えていない。 朝日が射す頃に意識が段々ハッキリしてきた。全身から力が抜けて、起き上がることさえ出来ない。薄く目を開けると、隣にベッドに寝そべって微笑んでいる悪魔が視界に入った。白い肌を申し訳程度の布で隠して、楽しそうに俺の首筋から胸元までを優しく撫でている。 「ありがとう、キミのお陰で力が戻ったよ」 「……? 何の、ことだ?」 「こんなに簡単に騙されてくれるなんて…。ふふっ、キミってば…素直過ぎるよ」 ニタニタと笑って「可愛いね」と目を細める悪魔に俺は一抹の不安を覚えた。え、騙されたって…。どういうことだ? 悪魔が俺の願いを叶えてくれて、恋人になってくれるって…。混乱状態の俺に、悪魔は恍惚とした表情で涎を垂らしている。 「ああ、今思い出しても体がゾクゾクしちゃうね。あんなに激しく深く求められて、久しぶりにボクも本気出しちゃったよ。キミ本当に童貞だったの?」 「ど、童貞…だけど。いや、そんなことより今のはっ」 「それにしてもすごく美味しかったな、キミの精気…。今まで味わった誰よりも美味で極上だった。今回きりだなんて、勿体ないなぁ」 「今回きりって…!? じゃ、じゃあ…俺の恋人には……?」 「なる訳ないさ。だってキミ、人間じゃないか。悪魔と人が恋に落ちるなんて話、ボクは聞いたことがないんだけど?」 「……っ!! 嘘…だったのか?」 「………」 悪魔は俺の言葉に表情を曇らせて、俯いてしまった。長い睫毛を瞬かせてから、戸惑ったようにもごもごと口を動かしている。さっきまでのふてぶてしい態度とは180度真逆の可愛らしい仕草に、俺はドキッとした。灰色の潤んだ瞳が俺をじっと見つめ、おずおずとその持ち主が言葉を発した。 「ねぇ、さっきのは本当…?」 「え?」 「これは夢じゃないんだよ? それでもキミは、本当にボクみたいな悪魔の傍にいてくれるの?」 夢じゃないとしたら、本当に目の前の悪魔が実在したとしたら。俺は彼の恋人になる覚悟があるのか? 悪魔は俺の言葉を大人しく待っていた。怯えるように身を縮ませている彼を憐れに思って、俺はそっとその華奢な白い体を抱き寄せる。同じくらい身長があるので腕の中にすっぽりとまではいかないが、彼は抵抗することなく俺にしな垂れかかってくれた。 俺の選択は間違っているかもしれない。ただ…今俺は紛れもなく、こいつの傍にいたいって思った。だからその気持ちを信じて、従う。彼が約束通り俺の傍にいてくれるのなら、きっと後悔はしない。 「俺は、お前の傍にいたい…」 「………。その言葉に、偽りはないかな?」 「ああ。心の底からそう思ってるよ」 想定したよりも冷静な声色に少しおかしいとは感じたものの、自分の正直な気持ちを伝える。すると腕の中の悪魔の体がふるふると震えた。 「あはっ。あははははは! …まさか本当にそう言ってくれるとはね」 「!? 今のも嘘か?」 「ボクもそこまで性格悪くないよ。今はキミのことを信じる。……だから」 「? だから?」 「キミを魔界に連れていく」 魔界。…魔界!? 決して穏やかではない単語が悪魔の口から飛び出て来て、俺は反射的に彼の体を突き飛ばす。悪魔はクスクス笑いながらベッドに倒れ込んだ。何だか部屋の様子がおかしい。瞬きの間に空間が歪んでノイズが走るかのような奇妙な現象が起こり、ぶわりと鳥肌が立つ。これはヤバい…! 異常さに本能的に逃げ出したくなった俺はベッドから転がり落ちるが、そこにあるはずの床は真っ黒な空間が広がっていた。 「逃げられないよ」 「!!!??」 悪魔の声が脳裏に響く。俺は声を上げることも敵わず、そこから伸びてくる闇に体を飲み込まれ、奥へ奥へとどんどん引き摺りこまれていった。 | |
02.目覚めた場所は | |
目が覚めたら、そこは知らない所だった。眩暈がするほど鮮やかなオレンジと黒のチェック柄の部屋。寝かされていたベッドからゆらりと起き上がって、ボーっとした頭でキョロキョロ辺りを見回す。どう見ても俺の部屋じゃない。何だか異常な雰囲気に思わず膝を抱えてしまう。天井からは蝙蝠がぶら下がり、痙攣のような微妙な動きを繰り返している。何処かから叫び声が響き、人形は俺の視界の外でゴソゴソと動き回っている。 「…何だ、ここ」 蝋燭の照明があるお陰で、若干薄暗いけど視界は悪くなさそうだ。でも室内が不気味過ぎる。何かさっきから絵の中の女の人と目があっているような…。いや、気の所為だろう。というかそう思いたい。壁に染み付いた蜘蛛型の影が少しずつ動いている。怖い、怖過ぎるぞ…この部屋!! 覚えていることと言ったら、部屋の床が真っ黒になってそこから落ちたということだけだ。悪魔との会話を考えるに、ここは所謂『魔界』ってやつなのかもしれない。とにかくこの部屋を出た方が良いのか? しかしベッドから降りようとして、右手の違和感に気付いた。怪我をした覚えがないのに、包帯を巻かれている。一体何なんだろう? 疑問に思って外してみると、指の先にほんの少しだけ刃物で切ったような微かな傷跡があった。見覚えがない。これ、いつ出来た傷だ? 「別に痛くないよね? 一応消毒はしたから。盟約書の署名にキミの血、ちょっと貰ったよ」 聞き覚えのある声に顔を上げると、そこには夜に部屋で会った悪魔が微笑みを携え立っていた。モデルのようなスラリとした体型で、小さな顔がてっぺんに乗っている。 「……メイヤクって何だよ。俺、気絶してただろ? 知らない間に約束事はナシだぞ」 睨みつけて反論すると、悪魔は目を細めて肩を竦めた。…そういえば俺、こいつの名前を知らない。こいつだって俺の名前を知らないはずだ。 「あのさ…名前、教えてなかったよな。俺は日向 創っていうんだ。お前の名前は?」 「ボクの名前? うーん、どうしようかなぁ」 「? 何だよ、教えてくれないのか?」 「安易に名前を教えると、呪術に使われちゃうから教えられないんだよね。そうだなぁ、コマエダって呼んでよ」 「こまえだ…? 随分悪魔っぽくない名前だな。というか日本人みたいな名前だぞ…」 「人間に化けてる時は狛枝 凪斗って名乗ってるんだよ」 「へぇ…」 俺は生返事を返した。人間で呪術に精通している訳でもない俺に対してまで警戒するとは、もしかしたらこいつは今までに色々と嫌な想いをしてきたのかもしれない。それは置いといて、俺の名前を知らないのに何で盟約書にサインが出来たんだ? 「血液とキミが署名した事実があれば問題ないよ。芸能人のサインとかさ、読めないの多いだろ?」 「言ってることは尤もだけど。…それってそういう問題なのか?」 「うん、そういう問題だよ。どう足掻いても盟約は破れない。これを魔王に届ければキミも悪魔の仲間入りって訳さ」 一瞬、思考が停止した。今…何て言った? 悪魔の仲間入り? 俺、人間なのに? マジで、冗談だろ…。 「え…っ、おい! ちょっと待てよ、狛枝! 盟約の内容って何なんだよ! 俺を悪魔にするつもりか!?」 「ふふっ、ご名答だよ…日向クン。魔界には邪悪な者しか住めないからね。キミがボクの恋人って本気で言うのなら、そこまでしないと意味がないでしょ?」 狛枝はビックリし過ぎて動きを止めている俺に甘いキスをしてきた。そしてヒラヒラと俺に手を振りながら、部屋を出て行く。反対の手には盟約書。…俺はこれからどうなるんだろう。ここから逃げるにしても、どこから元の世界に戻ったら良いのかも分からないし。…逃げる? 俺が『傍にいたい』って言ったから、狛枝はその願いを叶えるために魔界に連れて来たんだ。あいつは悪くない。今更何ビビってるんだよ。 「悪魔にだって何だってなってやる…!」 悪魔になって、ここに住めば…狛枝は一緒にいてくれるんだし。故郷を捨てることになるかもしれないけど、未練なんてない! …多分。考えが纏まった所で、狛枝がひょこっと部屋を覗き込んできた。手にはほくほくと湯気が立っている皿がある。 「ご飯作ったから、これ食べたら一緒に出発しようね」 「え、俺も一緒に行くのか? 魔王って奴に会いに?」 「……ちょっと、色々あるんだよ。何でも良いから黙ってボクに従って?」 「わ、分かった」 コトリと皿をテーブルの上に乗せて、狛枝はイスに座るように促してくる。少しイライラしてるみたいだ。彼は向かいのイスに腰掛けて、さっき見せた盟約書をじーっと見つめていた。どうやら2枚あるようで、それらを見比べて「んぅううう…」と悩ましげに唸っている。作ってくれたパイを頬張りながら、俺は聞いてみた。 「お前は食べないのか?」 「ん? キミから散々吸い取ったから必要ないんだ。しばらく保つよ」 「ふぅん」 「あれ、もう食べ終わっちゃったの? …じゃあ、行こうか。これに着替えてね」 渡された服はYシャツにズボンだったから割と普通でホッとしたけど、黒いマントを羽織らなければ目立つと言われて、改めてここは魔界なのかと実感してしまう俺だった。 「魔界には夜と夕方しかないんだよ。視界が悪いから気を付けてね」 城から外に出ると、ロンドンの蒸気街のように辺りには霧が立ち込めている。『いつもこんな感じなのか?』と聞くと、狛枝は笑って、『墓地が近いから』と答えた。墓地、あるんだ。どうやら方角的には墓地を通って行くらしい。実は誰にも内緒にしていたけど、俺はこういうホラーっぽい雰囲気が苦手なんだ。墓石が並ぶ砂利道を歩きながら、若干泣きたくなった。 「狛枝…? おい、狛枝?」 10歩も進まない内に狛枝の後ろ姿を見失う。もしかして置いてかれたのか? いや、霧が濃い所為だ。少し歩いたら待っててくれてるはずだ。だけど歩いても歩いても、狛枝の姿は見つけられない。途方に暮れながら足だけ動かしていると、霧の中に人影がチラリと見えた。もしかしてと思って、そこへ走っていくと、心配そうな顔をした狛枝が俺を探すように辺りをキョロキョロと窺っていた。 「狛枝!」 「…!? 日向クン! …ごめんね、先に行っちゃって」 「いや、良いんだ。気にしてないぞ」 「……何で怒らないの? 『俺を置いていきやがって!』って怒っても良いんだよ?」 「何でだよ? こうして俺を待っててくれたじゃないか」 「………日向、クン。ボクは悪魔なんだよ?」 「知ってるよ、そんなの」 分かり切ったことを聞いてくるなんて変な奴だな。俺の言葉に唇を噛み締めた彼は何故か頬を赤らめている。そして踵を返して、さっさと先へと進もうとした。俺は目下で揺れる白い腕をパッと取った。 「ちょっと待ってくれよ」 「あっ」 「あ、悪い…。また逸れたら心細いから、手…繋いでくれないか?」 言われた狛枝はぽかんとして、俺の顔と掴まれた腕を交互に見やった。 「日向クン、本当に良いの? ボクは、悪魔…なのに」 「お前さっきからしつこいぞ。そんな分かり切ったこと聞いてきて一体何のつもりなんだよ!?」 「だ、だって…」 「俺はもう決めたんだからな。狛枝が悪魔だろうと何だろうと、恋人として傍にいるって。そりゃ魔界に連れてこられたって聞いた時はビックリはしたけど、住めば都って言うし。現にお前が生まれて育ってきた土地なんだ。そう悪い所じゃないんだろ?」 「………」 「行こう、狛枝。…早くお前と一緒になりたい」 「うん…」 きゅっと握り返した手に何だかほっこりしながら、俺と狛枝は先を進んだ。1人の時に感じていた心細さは今は微塵も感じない。 | |
03.悪魔のしっぽ | |
墓地を抜けて、少し歩くと賑やかな通りに出た。黒とオレンジの旗が吊り下げられた賑やかな通り。レンガを敷き詰めたメルヘンチックな町並みに、オモチャのような家や店が両側に並んでいる。どこもカボチャを飾っている。 「今日は年に一度のハロウィンなんだ。悪魔も死神も蝙蝠も黒猫も魔女も人狼も吸血鬼もゾンビもみ〜んな休暇!」 狛枝は歩きながら説明してくれた。通りは動物とか人外とか…化け物みたいな変なのが徘徊してて、何だか狛枝がとてもマトモに見える。 「ハロウィンって『トリック・オア・トリート』ってやつだよな、確か。でも何で休みになるんだ?」 「ハロウィンは聖なるお祭りなんだよ。魔に属する物はハロウィンからクリスマスまで人間界に近付けない。人間で言う盆休みみたいなものかな」 魔界にもあるのか、盆休み…。何だか妙な組み合わせだ。通りは楽しそうな出店も並んでいて、香ばしい料理や甘いお菓子の香りが漂っている。ちょっと覗いてみたい気もするけど、狛枝は寄るつもりはないらしく颯爽と歩いている。頭には羊のような角。背中には紫色の蝙蝠の羽。しりには槍みたいな悪魔のしっぽがついている。それが歩く度に可愛らしくふりふりと揺れていた。俺は何の気なしに、そのしっぽを掴んでみた。 「ひゃんっ」 「!? 狛枝…? わ、悪い。つい触ってみたくなって…」 狛枝は声を上げて、その場に崩れ落ちた。俺はその様子に慌てて彼と視線を合わせるように膝を突く。狛枝の体はカタカタと小刻みに震えていた。顔を覗き込むと、白い肌が桃色に染まっているのが分かる。汗が頬を伝って、地面に流れ落ちた。 「お、おい! 狛枝! 大丈夫か? 気持ち悪いのか?」 俺はあたふたと狛枝の背中を擦った。しかし撫でる度にビクッビクンと大袈裟に体が反応している。はぁはぁ…と息も荒く熱っぽくなってきた。何だかヤバいのは分かる。しかしながら何がヤバいのかは俺にはさっぱりだった。 「ひ、日向クン…。こっち、ついてきて…。ここに…っ」 苦しそうな狛枝に手首を捕まれ、傍にあったベンチの前に連れてかれた。頭にクエスチョンマークが浮んだまま、俺は誘われるがままに手を引かれる。ベンチに押し付けられるように座らされ、狛枝が俺の上に息を切らしながら乗っかった。一体どうしたっていうんだよ。 「日向クゥン…」 「な、何だ…?」 「今すぐシたい。早く挿れて…いっぱい突いて…?」 「……っ? いや、待て! 待て待て待て!! 落ち着け、狛枝!!」 返事を聞く前に狛枝は赤い顔のまま、俺のボトムに手を掛ける。 「ハァ…、ァア…もう、ダメ…我慢……っ 出来ない、よぉ…!」 揺ら揺ら光る狛枝の灰色の瞳に目を奪われ…かけたけど、そこで俺は正気に戻った。このまま放っといたら狛枝はここで始めてしまう。それだけはダメだ! 俺は必死だった。狛枝を俺から引き剥がして、宿屋っぽい所へ駆け込んだ。ガタガタと震える狛枝を抱えて、『1部屋お願いします!』と思いっ切り叫んだ。 「もうちょっとだからな、狛枝。頑張れ、頑張れ…!」 「ふぁ…、部屋、に、…着いたら、…ひぁたクン、いっぱいシてくれる?」 「するから!」 俺はその日、悪魔のしっぽは性感帯ということを学んだ。宿屋のおばさんに部屋に案内される。ちなみにおばさんは目が3つあってすごく不気味だったけど、狛枝が緊急事態なので背に腹は代えられなかった。部屋に着くまでの間に仮装した黒猫や蝙蝠がゾロゾロ歩いていた。魔女やオバケや狼男なんかの格好をしていて、何だか可愛い。どうやら聞く所によるとここの宿屋で祭りのようにお菓子を貰うイベントがあるらしい。 「じゃあゆっくりしていきなよ。ノック不要の札は掛けとくからね」 そう言って、おばさんは下の階へと戻っていった。室内は綺麗だった。優しいベージュの色合いの落ち着いた部屋だ。ハロウィンの装飾がされていて、思わず見入ってしまう。みんながみんな、狛枝のような家に住んでいる訳じゃないのか。あいつだけが変なんだな。 「日向クン! ねぇ、早く、早くぅ…。ボクの中に、挿れてよぉ…!」 狛枝は限界らしく、服を脱ぎだして下半身を弄っている。ひっひっとしゃくり上げながら泣いていた。何というエロさ。狛枝に近付くといきなり敏感な所をまさぐられ、ズボンをパンツごと一気に下ろされた。ペロペロと厭らしい舌遣いで直接舐めてくる。相変わらずすごいぞ。気絶しそうなくらい、気持ち良い…! 「ん、んんぅ。いひほう? ぷはっ…。もう良いよね? ね?」 早く1つになりたくて堪らないらしい。白く細い指によって拡げられた入口に熱を宛がって、そのまま中に… トン、トン、トン ノックが3回。それが妙に響いて、俺の挿入は見送りとなった。狛枝を見るとあからさまに不機嫌だ。無視してしまおうかとも思ったが、何だか気になる。宿屋の人かもしれない。しばらくしてまたノックが聞こえた。 「狛枝…。ちょっと待っててくれな? すぐ戻るから」 「………」 チャックを上げ、ドアを開けると誰も居なかった。………? いや、居た。目線下の方に吸血鬼に仮装した小さな黒猫が立っていたのだ。黒いマントを羽織り、片手にはお菓子が入っているカボチャのカゴを持っている。 「トリックオアトリート! お菓子をくれなきゃ、悪戯するニャ!」 無邪気に『ニャ!』と笑う子猫。…悪気はないんだと思う。まだこの子は子供なんだと自分に言い聞かせ、キャンディーの包みをピンク色の肉球の上に乗せてあげた。黒猫は『ありがとニャ』とペコリと頭を下げた。やれやれと戻ると、狛枝に泣きそうな顔で睨まれた。途中で止められたら辛いよな。狛枝の機嫌を取るために、俺は彼の白い体を丹念に嘗め回した。すぐに顔を蕩けさせた彼はあん…あん…と甘い声を上げ、厭らしく身をくねらせる。段々俺も興奮してきた。扇情的なムードに流され、熱くなる2人。 コツ、コツ、コツ またもノックが3回。俺は狛枝に送っていたキスを一旦止めて、体を起こした。嫌な予感がして、狛枝を見るとニコニコと不気味な笑みを浮かべていた。笑顔と笑顔の間にキラリと光る猫のような鋭い瞳。何も言わないってことは出ても良いんだよな? 俺はとりあえずパンツだけ履いて、扉を開けた。 「キキッ! ハッピ〜ハロウィ〜ン。イタズラしないからお菓子ちょ〜うだい!」 頭に天使の輪を付けた白い蝙蝠が、クルクル旋回しながら飛んでいた。…この子も悪気はないはずだ。後ろからの視線が怖かった俺は、さっさとキャンディーを蝙蝠に咥えさせると扉を閉めた。足早に戻り、また行為を再開しようと狛枝の乳首を突っつく。 「あっ……ん、んぅ…。もっと、して…、日向クン…」 「狛枝…!」 トン、トン、…コツン……カリカリカリ、カリ、…カリリ 「ボクの快楽を邪魔する者は…、何人たりとも…許さない…っ!!!」 ユラリと起き上がった狛枝はひくりひくりと片頬を上げながら、裸のままズンズンとドアに向かっていった。そして戸棚にあったお菓子の入ったカゴを取ると、ドアをバンッと乱暴に開けて思いっ切りカゴを放り投げる。にゃあにゃあと慌てふためく猫の鳴き声とザラザラとお菓子が床に散らばる音が聴こえたけど、狛枝がドアを閉めてしまったのですぐに音は止んでしまった。 「………」 「さ、日向クン…邪魔者は消えたよ! …いっぱいシようね」 「……あ、ああ」 「トリック・オア・トリート! ………犯してくれなきゃ、悪戯するよ?」 「!? わっ、狛枝…」 「ふふっ。ボク、満足するまで離さないからね!」 はしたなく涎を垂らしながら、ぎゅっと抱き着いてくる狛枝。背中の羽は嬉しいのかパタパタと羽ばたいていて、しっぽもふりふりとリズミカルに揺れている。白い頬をほんのり染めて甘えてくる姿は、それはもう堪らなく可愛らしい。だがさっき見た冷徹な…もしかしたら殺意が籠っていたかもしれないあの表情は、しばらく忘れられないだろうなと思った。 「あっあぁ…! やっ、すごい、アッ、ダメぇ…! そこ、すごいぃ〜…」 「ちょ、…っ、あ……っ、〜〜〜っ!!」 「んぅ…? あはっ、いっぱい出たねぇ。まだまだ大丈夫そうかな? 日向クン、腰動かして!」 「こ、狛枝! ストップストップ…! 少し休ませ…ああ……っ…」 「やだ。もっともっと欲しいよ、日向クゥン…。こんなんじゃボク足りないもん…っふぁあ…!」 「!! あ……こま、えだ…、いい加減…に、はぁ、ハァ……うぁ…っ! バカ…」 その日は朝まで寝かせてもらえなかった。 | |
04.ハッピーハロウィン誘拐事件 | |
賑やかなハロウィンの街を抜けた先は薄暗い森だった。周りの木々に話し掛けられたり、服を引っ張られたりしてすごく歩き辛かったが、狛枝が俺の手を引いて導いてくれたので、大した苦労もせず抜けることが出来た。繋いでいた手を離そうとする狛枝だったが、俺がぎゅっと握ったままなのに気付いて瞳を揺らす。 「日向クン…、離してよ」 「何でだよ。俺はお前とずっと手を繋いでいたい」 「………。どうしてそんなにボクに優しくしてくれるの?」 狛枝は手を振り解くのを止めてはくれたが、相変わらず怪訝そうな表情をしている。何でそんな顔するんだよ。俺のことが好きだから信じてくれたから、ここに連れて来てくれたんじゃないのか? 「まだ自分が悪魔だの何だのってグダグダ言うのかよ」 「グダグダって…。あのね、これは大事なことなんだ。キミの一生を決める大切な、」 「俺はもう決めてる。好きなんだ、狛枝。迷ってるのはお前の方だろ…」 「……っ! ………う、ん…。そうかも、しれないね」 淡い緑灰の目に涙が溜まっているのが一瞬見えたが、狛枝が俯いた所為で目元はふわふわの前髪に遮られてしまう。彼は繋いだ俺の手の感触を確かめるようにぎゅっぎゅと握りながら、ぽつりぽつりと話を始めた。 「ずーっと昔、もう100年以上前かな。ボクのことを今みたいに好きって言ってくれた人間がいたんだ。魔界ではボクの身分は高かったから、対等の立場の存在は近くにはいなかった。みんなからは"変わり者"って言われて遠巻きにされてたよ。だから、すごく嬉しかった…」 「………」 「恋だったのか良く分からないけど、ボクはその人に何度も会いに行って、時間を忘れて話をした。初めて誰かとずっと一緒にいたいと思ったんだ。だから魔界に連れてったのさ。きっと喜んでくれるだろうって勝手に期待して…」 「それで、どうなったんだ?」 「後の話は想像つくと思うけど、その人は魔界に着いた途端、『こんな所嫌だ! 家に返せ!』って怒って掴みかかってきたんだ。ボクは聞いた。どうして? どうしてボクのこと好きって言ってくれたのに、そんなこと言うの?って。そしたらその人は『悪魔なんか好きになるもんか。あの時はお前の見た目が良かったから好きだと言ったんだ』って喚いた」 俯いた目元から透明な光の粒が落ちていく。狛枝の涙だ。俺は何だか無性にイライラしてきた。こんなにいじらしい狛枝を傷付けるなんて、絶対に許せない。目の前にそいつがいたら、殴りつけてやりたい衝動に駆られた。 「自分の能力を呪ったのは生まれて初めてだったよ。色欲を司るっていうのも良いことばかりじゃないんだって、その時ハッキリ自覚した。………。その人は記憶を消して、元の世界に返してあげたよ」 「……そう、か」 「ボクが人間嫌いになったのはそれからだね。適当に摘み食いして、面白そうな人間は騙して魔界に連れ去った。みんな同じ反応。『魔界なんていたくない!』って口を揃えて言うんだよ。あははっ、知ってて連れてきてるのにね」 「もしかして俺のことも…?」 「まぁね。そのつもりだったよ。……でも案外落ち着いてるから拍子抜けしちゃったよ」 狛枝は笑った。いつものようにのほほんとした笑みとは違う、悲しそうな笑顔だった。そこで話は終わりになったのか、狛枝は乾燥した冷たい風がヒューヒュー吹いている荒れた山肌を進んでいく。ゴツゴツと足裏に突き刺さる大小の石を踏み締めながら、俺も狛枝の後に続いて山を登っていた。手は振り払われてはいない。 「魔王の城ってのはもうすぐなのか?」 「うん。あの山の頂上に建ってるんだけど見えるかな?」 「……んー。確かに何か城っぽいのがあるな」 山の麓から狛枝が山頂を指差した。狛枝の話したことは多分本当のことなんだろう。俺は自分の意思で狛枝と一緒にいたいと伝えた。だから今までの人間みたいに元の世界に返されることはない。何事もなく上手くいけば、めでたく悪魔の仲間入り。 聳え立つ大きな黒い城。ここが魔王の居城らしい。狛枝は俺をチラリと見ると1人で歩いていってしまった。このまま…狛枝が盟約書を渡せば契約が受理され、俺はこの世界の人間になる。"魔界"という凶悪な字面からは想像がつかないほど、悪くない所だと思う。狛枝は見た目も性格も可愛くて厭らしいし、ここで出会った人たちはみんな面白くて良い人ばかりだ。 「魔王は最上階だよ。階段上るから、しっかりついて来てね…」 でも、と俺は考えてしまう。今までの人生を過ごしてきた元の世界を俺は捨てることが出来るのだろうかと。直前になって心が揺れるなんて、浅はかな証拠だ。 「狛枝、俺って何になるんだ? 悪魔になるの? 羽根が生えたり、角が生えたりするのか?」 「キミはキミのままだよ。ただ、魂を闇に浸すだけ。それがこの世界に住むルール。…着いたね」 一際大きな両開きの扉の前に立つ。俺はそっと狛枝の横顔を窺った。彼は魔王の城に近付くにつれ、無口になっていった。時折何かを考えるような仕草をしたり、ボーっとして俺の話を聞いてない時もあった。出掛ける前に見ていた2枚の紙切れを悩ましげに見比べたりもしている。 「日向クン、最後に聞きたいんだけど。……ボクのこと、…好き?」 「好きだよ…。大好きだ。恋人になってくれるんだろ?」 優しく問い返すと、狛枝は顔を真っ赤にして俯いてしまった。彼を途轍もなく愛しく感じた。…今なら分かる。恋人になってくれと言ったあの言葉が間違いではなかったことを。狛枝は嬉しそうに微笑むと扉を開けた。 「来たよ、魔王」 暗闇に向かって狛枝は声を発する。音は吸い込まれ、反響することはなかった。光が届かない真っ暗な空間は何処まで広がっているのかまるで分からない。でも何か居る気配はする。俺は緊張しながら見守った。 『アレ? 狛枝センパイじゃん。何でいんの? ねぇねぇ何しに来たの〜?』 姿は見えないが、声は聞こえる。女の人の声みたいだ。というか何か魔王、女子高生みたいな喋り方してないか? しかもギャル系の。訳が分からない。しかも狛枝の方が先輩らしい。俺は思考停止状態のまま、2人の会話を聞いていた。 「分かってるクセにしつこいよ。今日は書類提出しに来ただけ。サインしてくれるかな」 狛枝は盟約書を暗闇に投げた。ヒラリと飛んだ紙切れが闇に吸い込まれ、魔王が『うぷぷぷぷ…』と不気味な笑い声を零す。 『OK〜。受理したよん。…対象はそっちの人間でいーの?』 「そうだよ。方陣の用意をしてね。人間だから負担の少ない物をお願い」 方陣って魔法か何かか? 魔法掛けられたら、俺は狛枝と同じ存在になるんだ。狛枝に促されて魔王の間から出ると、既に目の前に方陣が敷かれてあった。闇に青白く浮かび上がる紋章がとても綺麗だ。 「この中に入れば良いんだよな? そしたら…狛枝と、恋人同士ってやつになれるのか」 「………」 そこまで長い旅路じゃなかったけど、それなりな時間が経過しているから何だか感慨深い。狛枝に笑い掛けると、彼は俺から目を逸らして俯いた。何で嬉しそうじゃないんだよ…。ひょっとして俺の一方的な片想いなのか? 「初めは騙すつもりだった」 「え…?」 「魔界に帰るための魔力が不足していて、ハロウィンが始まる前に何とかしようと思ってたんだ。…誰でも良かった」 「……狛枝?」 「誰でも良いから魔力を補充して、トンズラするつもりだった。『好きだ』って言われるなんて思ってなかったから。変なの…。もう2度と傷付きたくないのに、どうしてもキミから離れられなかった」 ポロッと狛枝の目から涙が零れてきた。やがて彼は唇を震わせてしゃくり上げる。嗚咽を漏らしながら泣きじゃくるのにそう時間は掛からなかった。 「な、泣くなよ。…これからはさ、一緒にいられるんだ。楽しいこともいくらだってあるぞ! …多分」 「ごめん、ごめんね…日向クン。体の良い奴隷として連れ帰ろうとしたんだ、最初は。でも一緒にいる内に段々気になって、好きになって…。それから考えたんだ。キミの本当に望むことは何なのかって」 「…望むことはお前と一緒にいることだよ、狛枝。正直初めは迷ったけど今は後悔してない。この中に入ったら俺もここに居られるんだろ? それで良いんだ。俺、狛枝の傍にいたいんだ…!」 この気持ちは本当なんだ。俺は狛枝を抱き寄せて口付ける。狛枝は「んぅ…」と声を漏らすが、大人しくされるがままになってくれた。しょっぱい味のする唇を啄ばんで、舌を絡ませる。彼も一生懸命俺に応えるようにキスを返してくれた。どちらからともなく唇を離し、俺達は向かい合った。 「…ありがとう、日向クン。………じゃあね」 「は?」 『じゃあね』って何だよ! 体を押され、よろけながら方陣の中に入ると、すぐに俺を囲むように魔方陣の光が輝き出す。 『はぁい! 転移陣、使用許可発動しちゃうよ〜。対象を人間界に!』 これは魔王の声だ。転移陣使用許可? 人間界って、もしかしてさっきの書は…。俺を元の世界に返すための物だったのか!? 嫌だ、俺はここにいたいんだ。狛枝の傍に…。慌てて魔方陣から出ようとするも時既に遅し。気付いた時には狛枝諸共周囲は光に包まれ、真っ白に掻き消えていた。 … …… ……… 朝だ。紛れもない俺の部屋での朝。右手の薬指に残る微かな痣をじっと見た。…夢、なのか? 日付は10月31日。特にイベントもない平日だ。強いて言うならハロウィンだけど、日本じゃまだまだ馴染みが薄い。制服に着替え、朝食を食べ、いつものように家を出る。狛枝、って何だっけ? 友達の名前だっけ? いや、クラスメイトか? …違う気がする。 「思い出せそうで思い出せない…」 昨日は何もなかったはずだ。なのに何でこんなに胸がモヤモヤするんだろう。俺はブツブツ言いながら、学校までの道程をノンビリ歩いていた。すると後ろから誰かに腕を捕まれ、思いっ切り引っ張られた! 「なっ、誰だ…!?」 何だ、誘拐か!? 犯人は俺と同じ制服を着ていた。ふわふわとわたあめのような髪、俺を掴む華奢な白い指。僅かに振り向いた彼は俺を見て、綺麗に微笑んだ。その姿には見覚えがあった。頭の中で夢の出来事が蘇り、スパークする。全部思い出した。これは幸せな誘拐だ。緑灰色の瞳に俺の驚く顔が映っている。桜色の唇が嬉しそうに形を変えた。 「…来ちゃった」 漸く立ち止まった愛しい白い悪魔を、俺は力一杯抱き締めた。 | |