// Short //

01.ずっと一緒 逃げた先
呼ばなければ良かった…。頭の中にはその言葉だけが巡っている。そう自分達があんなことをしなければ、この『学校』も大人しくしていたのに。でもそうすると、俺はあいつに会うこともなかったんだろうか。



「大丈夫か? 日向…」
学校の図書室。いつもの見慣れた場所も夜というだけで、得体の知れない気味の悪い空間に早変わりしてしまう。頭の上から降ってきた左右田の声にゆっくりと伏せていた顔を上げると、そこには憔悴し切った顔があった。
「悪い、左右田…。もう平気だ」
「そっか。無理はすんなよ。…オレ、入口見張ってっからさァ、図書室の本調べてくんね? 何か包丁さんについて書いてあるかもしんねぇしよ」
「分かった」
ふらりと立ち上がり、図書室の蔵書の中でも町の古い歴史に関する本棚に足を動かす。何故、こんなことになったのか…。それは俺達が面白半分に『包丁さん』を呼び出してしまったからだ。

昔からこの町に伝わる古いカミサマ・包丁さん。誰かを殺してほしいと願うと本当に殺してくれる。この町にはそんな都市伝説が根付いていた。俺達4人は放課後の教室で包丁さんのおまじないをやったんだ。
「うっ…」
真っ赤な光景を思い出し、吐き気が込み上げる。ターゲットなんて誰でも良かった。ムカつく先生を何の気なしに紙に書いて、手順を踏んで。ほら、何も起こらない! それで終わるはずだったのに。ただのストレス発散だったのに。いつの間にか教室に包丁を持った謎の少女が現れて、先生は…職員室で血塗れになっていた。
そして田中が殺され、再会して一緒に逃げていた九頭龍が殺され…。残ったのは俺と左右田だけになった。

「感傷に浸ってる場合じゃないか…。包丁さんの手掛かりを探さないと」
自分を無理矢理奮い立たせて、本棚から関係ありそうな本を片っ端から探す。一通り見てみたが、目新しい情報は何もない。探すのは無駄かも。そう思った時、ふと本の間に挟まっている薄い背表紙に目を奪われた。
「何だ、これ…。ノート?」
かなり古くなったヨレヨレのノートだった。紙は乾燥してカサカサと音を立てる。薄汚れた表紙にはマジックで大きく『七不思議』と書かれていた。…そうだ、包丁さんも七不思議の1つ。もしかしたら何か書いてあるかも!
微かな希望を見出した俺は慌ててそのノートを開いた。もう何でもいい、何かヒントになるものが欲しい。無我夢中でページを捲っていく。トイレの花子さん、音楽室の人食いピアノ、理科室の骸骨、保健室の少年、パソコン室に閉じ込められた子。そして、廊下の包丁さん。大したことは書いてなかった。

「7つ目はないのか。というかうちの学校、普通に七不思議あったんだな。怖…」
連鎖する怪奇現象。思わず身震いがした。ここに書いてある七不思議はどれも残酷で恐ろしいものばかりだったが、1つだけ不思議と怖いと感じないものがあった。
「保健室の少年…」
病弱な少年がずっと保健室登校をしていた。その少年は亡くなって、幽霊になった今もずっと通い続けている。1人で誰もいない保健室のベッドに寝ていて、その子に起こされると2度とこの世界には戻れない。
「どんな思いで、保健室にいんだろうな」
ポツリと呟いて、そのノートを本棚に戻した。そして今自分が置かれている状況を思い出し、ハッと我に返る。こんなゆったりと探索している場合じゃない。図書室には何も手掛かりがなかったんだ。それならまた別の方法を探さなければ! 俺は静かに本棚を後にした。



図書室から出て、しばらく左右田と外に出れないか探し回った。いや…探し回ったというより、彷徨ったという方が正しいかもしれない。教室を1つ1つ見て回る。途中に倒れている九頭龍も目を瞑りながら避けて通った。
「何もないな…」
左右田からは返事すら聞こえない。この極限状態じゃ、何も喋れなくなるのも無理はないよな。途方に暮れながらも教室を出る。そして廊下に出た瞬間、何か良く分からないけどひんやりとした空気が肌を撫でた気がした。
「見ーつけた」
「!! …日向! 走れ!!」
「左右田!?」
姿を確認する前に左右田が絶叫して、俺の手を取り、走り出す。背後からは楽しそうな笑い声が聞こえてきた。ペタペタと廊下を素足で駆ける音。あの子がくる。包丁を持って無邪気な笑顔を浮かべた小さな殺人鬼が…! ただ足を動かす。捕まったら、殺される! 薄暗い夜の廊下を風を切って、走り抜ける。
「わっ!」
足を取られ、体がガクンと崩れ落ちた。振り向いた左右田が慌てて俺を助け起こそうとする。あの時と…逆だ。俺はあの時転んでしまった九頭龍を置いていったんだ。そして九頭龍は赤く…。
「危ねっ!!」
ひゅっという空を切る音。放心して動けなくなった俺を左右田が力ずくで引っ張り、背中の後ろに庇った。左右田の肩からパッと赤い液体が噴き出す。血だ…。赤い血。真っ赤になった先生、田中、九頭龍。
「わあああああああああ!!」
俺は訳も分からず悲鳴を上げた。左右田は声を詰まらせ 体勢を崩したが、目の前の包丁さんに体当たりを仕掛けた。そのまま体にしがみ付き、離れようとしない。どうすれば、俺はどうすればいい!?
「逃げろ!! 日向…。オレが押さえてる内に…、早く!!!」
「そう、だ…!」
包丁さんは無表情のまま、しがみ付く左右田を見下げる。左右田は顔を苦痛に歪ませながら「逃げろ…」と声を絞り出す。俺は泣きながらもヨロヨロと立ち上がり、階段目掛けて走り出す。何で、何で、何でだ!?
階上から何かがぶつかるような音と、左右田の怒鳴り声が聞こえる。そうだ、そうだ…、左右田…! ダラダラと涙だけが目から流れ落ちる。走り続けている最中、学校は左右田らしき叫び声を最後にまた静寂を取り戻した。

「う…うぅ…」
左右田は…多分、死んだ。走る気力も失い、俺は廊下にペタリと座り込む。俺があそこで転ばなければ、左右田は死なずに済んだんだ…。言いようのない後悔と悲壮感がじわじわと身に染みる。夜の学校はどこからも物音が聞こえてこない。包丁さんが追ってくる気配も感じられない。
「はっ、く、う…ごめん…! みんな、ごめん…!」
ボタボタと汚く涙と鼻水を廊下に零して、俺は泣いた。怖い怖い怖い…。死ねば、この恐怖から逃れられる? …でも、まだ死にたくない。俺は友達を見捨てて逃げた最低な人間だ。だとしても、絶対に生き残りたい。
「…、誰か…助けて…」
無意識に口に出た言葉に、俺は自嘲した。人を犠牲にして生き延びたのに、誰か助けてだって? 愚かだ。
俺は這い蹲りながら、近くの教室のドアを静かに開けた。廊下にいれば、すぐに包丁さんに見つかってしまう。どこかに隠れなきゃ…。僅かに残された醜い本能だけが、俺の体を動かしていた。



その教室に入ってから、俺は「ああ、ここは保健室だったんだ」とぼんやりと考えた。気休めにもならないけど、保健室の鍵を閉めた。辺りを見回す。カーテンに囲まれたベッドが2つ。保健医がいつも使っている事務机。体重計に救急の薬品棚。観葉植物の鉢植え。壁のコルクボードには保健室からのお知らせが貼ってある。
ここも何度か左右田と調べた。でも特に変わった物はなかったと思う。顔にこびり付いた涙を腕で乱暴に拭いて、保健室の窓へと近付いた。カーテンを引くと、暗い保健室に柔らかい光が差した。
「…月、出てるんだな」
空には満月が明るく輝いている。ガラスを隔てた向こう側の世界。こんなに恋しい日常がすぐ傍にあるのに、俺はこの学校から出られない。窓を壊そうとしても、びくともしなかったんだっけ。だったらもうやるだけ無駄だ。大きな音を立てれば、包丁さんがここに来るかもしれないし。俺は溜息を吐いて、備え付けのベッドに腰掛けた。
「つかれた…」
そう言葉にすると、何だかドッと疲れが体に圧し掛かってきた。逃げっ放しで、ずっと神経が張り詰めていたんだ。緊張の糸が切れた体は吸い込まれるようにベッドに倒れ込んだ。もちろん、音を立てないように静かに。
「夢、だったらいいのに…」
もしかしてこれって夢なんじゃないか? ここで眠って、起きてみたら…いつもの学校に戻ってて、友達と笑い合う。本当はそうなんじゃないのかな。俺は寝返りを打って、瞼を閉じる。あ、寝ちまいそうだ。でも良いよな? 少しくらい。だってすごく眠いんだ。10分…。いや、5分でいい。ほんの少しだけ目を閉じたい。目を開けたら頑張るから。包丁さんから逃げる方法、頑張って探すから。それまでは休ませて…。俺はゆっくりと目を閉じた。







「お…て、」
真っ暗闇に声だけが微かに聞こえる。…誰だ? 何で真っ暗? ああ、真っ暗なのは俺が目を閉じてるからか?
「ねぇ、起きてよ」
「あ!?」
勢い良く飛び起きる。誰かに声掛けられた! ビックリした俺は混乱状態のまま辺りをキョロキョロと見回す。
「あはっ、やっと起きたね。…大丈夫?」
「え? え?」
俺、何してたんだっけ? 何で保健室なんかに…。あ! 包丁さん! ヤバい、俺寝ちまったんだ。
「おはよう」
「!?」
驚いて言葉も出ない。ニッコリと笑って、俺をじっと見つめる人物がそこにいた。見たこともない奴だ。でもこの学校の制服を着てるから、生徒…なんだろう。あれ、俺が保健室に入った時は誰もいなかったはずなのに。
「よく寝てたよ、キミ。そんなに眠かった?」
「え…。あ…、うん」
目の前の奴があまりに普通に話し掛けてきたから、俺も合わせて返事をしてしまった。どうしよう、今更ながら「誰ですか?」なんて聞けないような雰囲気だ。雲に隠れた月が顔を出したのか、保健室にまた淡い光が走る。
「……」
俺と同じか年上くらいの少年だった。うねる白いふわふわの髪と透けるような白い肌。何だか見るからに病弱そうだ。眉目秀麗という言葉がピッタリな浮世離れした美形で、ニコニコと人懐っこそうな表情を浮かべている。見つめられた俺は居心地が悪くなって、ぎこちなく笑ってみせた。
「随分魘されてたね。怖い夢でも見てたのかな?」
「あー…そう、かも?」
少年はそれを聞いて、「大丈夫。もう怖くないよ」と俺の頭にポンと手を乗せた。頭を優しく撫でられて。いつもなら男に、ましてや知らない奴にそんなことされたら「バカにしてんのか?」と怒りそうだけど、何故かこの人物には怒りは湧かなかった。逆にその手に安心してしまう自分がいる。
確かに俺がこの部屋に来た時には誰もいなかった。ということは、こいつは俺の後から来たってことだ。
……もしかして、あれは本当に夢、だったのかもしれない。包丁さんもいない? 誰も死んでない?
「どうしたの? ひょっとしてまだ眠い?」
呆れたように「しょうがないね」と微笑む少年。こいつだって学校にいたんだ。包丁さんに会う可能性だってある。でも俺のそわそわした反応に、彼はきょとんと首を傾げるだけだった。何もなかったような顔をして。


夢、だったんだ…!


「平気。もう眠くない…。悪い、起こしてくれたんだよな」
「ふふっ、どういたしまして」
俺は頭を軽く下げた。それから痺れた手足を動かして、床にあった上履きを履く。随分長いこと寝てたんだな。…夜になるまで。少年は窓際で月を見ていた。光にぼんやりと照らされた顔は少し青白い。
同じ学年だったら見覚えくらいある。でも全く記憶がないということは先輩か後輩なんだろう。背は俺と同じくらいだ。先輩かな? 先輩だったら敬語使わなきゃマズいんだけど、彼には不思議と使おうとは思わなかった。
「ふぁー! うわ、外真っ暗だ。早く帰らねぇと…」
欠伸をして、体をぐーっと反らせる。外では相変わらず月が雲から見えたり隠れたりしていた。今何時だろう? 保健室の時計を見てみると…、あれ? 3時? おかしいな。昼だったらこんなに真っ暗じゃないし、夜だとしても見回りの先生か誰かが起こしてくれるだろ。…時計が壊れてんのか? 多分夜の7時か8時だろうな。
「まぁいいか。俺帰るから! お前も早く帰れよ。起こしてくれてありがとな」
「ん?」
俺は少年に手を振り、ベッドから降りて、保健室の扉へと向かう。ドアノブを下げようとしたが、扉は開かない。……ああ、良く見ると鍵が閉まってたんだ。鍵を開けて、もう1度開けようとするが、やっぱり開かない。
「あれ? 何で…」
何度試してみても、扉は全く開く気配がない。ノブをしばらくガタガタと動かしてみるが、ダメだ。鍵が壊れて開かないというよりかは、扉自体が壁のように固まっているような…。
「開かないよ」
「…は?」
後ろで少年がクスクスと笑いながら言った。何だ? 何を言っているのかさっぱり分からない。
「だって、ここには保健室しかないからさ。保健室しかないのにどこに行くっていうの?」
「何言って、」
「キミはさ、あんまりぐっすり寝てたからボクが連れてきたんだよ。感謝してね? あんな化け物に殺されそうになってるの、助けてあげたんだからさ」
少年は窓際から離れ、俺の方に体を向ける。思わず体を強張らせた俺を見て、彼は肩を竦めてみせた。
「あぁ、キミは知らないんだね。…そうだな、こんな怪談聞いたことはない? 保健室にはずっと保健室登校をしていた病弱な生徒がいました。その生徒の居場所は保健室だけでした。でも1人はとても寂しい。だからその子は誰かに傍にいてほしいと思っていました」
月夜を背にして立ったそいつはそこで言葉を区切った。真剣なその眼差しは嘘を言っているようには見えない。
「それ以来…誰もいない保健室のベッドに1人で寝続け、その子に起こされてしまうと、2度と元の世界には帰ってこれなくなってしまうのです」
「でもそれ、ただの怪談なんじゃ」
「うん、怪談だね。でも本当に起こるんだよ。だからボクがいる」
「嘘だ…!」
「良かったね、キミ。他の怪談だったら…殺されてたよ? ボクで本当に良かった」
「や…」
ゆっくりと近付いてくるそいつに、俺は開かない扉を何とか開けようと試みる。でも、やっぱり開かない!!
「止めろ…っ! こっち来んなぁ!!」
「大丈夫! ボクはキミのこと殺したりなんかしないよ。……ただ、ずっとここにいてもらうだけ」
ここに、ずっと…? 気が付くとすぐ目の前に少年が立っている。抵抗らしい抵抗も出来ず、俺はすっぽりとその腕の中に収まってしまった。ふわっと抱き締められたその体はひんやりと冷たかった。放心したままの俺の顔を、嬉しそうに覗き込む少年。顔を緩ませて、それはそれは無邪気に笑った。
「ずっと、一緒」

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02.ずっと一緒 ふたりきり
「ずっと、一緒」
無邪気な笑顔とは裏腹に、それは懇願するかのような切なげな声色だった。何かしようにも何も考えられない。俺は呆然とした頭のまま、密着した体の間にゆっくりと手を滑り込ませて、相手の体を押し返した。
「やっぱり…嫌?」
悲しそうに歪んだ少年の顔がそこにある。その表情は儚げでどこか危うい色気を漂わせている。
包丁さんに追われていたと思ったら、今度は深夜の保健室。時が経つこともない外にも出られない永遠の空間。俺は相手の問いに答えないまま、真っ直ぐに保健室の事務机に向かった。キュイと音を立てて、ネジが軋む回転イスをそっと持ち上げる。「わっ」と相手が頭を庇う動作をした。それにお構いなしに、俺は大きく振り被る。
「くっ!! ……」
耳が割れるような破壊音が夜の保健室に響いた。確かにイスが窓ガラスに食い込む感触。…やったか!? 慌てて窓ガラスに目をやるが、透明な壁は全くと言って良いほど傷付いていなかった。嘘だ。だって、確かに。
イスを投げ捨て、踵を返して、ドアに縋りつく。力いっぱいドアノブを乱暴に動かす。それこそ頭を振り乱して。
「出せよ、出せ出せ出せ出せっ! ここからっ出せーーーーー!!!」
勢い余って、扉に肩をぶつけた。骨が軋むような痛みに俺は息を飲んだ。痛い。夢じゃないのかよ。怖い…。ここに、居たくない。でももう、帰れない? 夢じゃなかったんだ。…俺、ここから出られない。

「無理だよ…。ここから出て、元の世界にたどり着けた人間はいないんだ」
ポツリと小さく背後から幽霊が声を発した。沈んだような暗い声に俺はイラつきながら振り返る。イスをガンッと乱暴に蹴り上げると、幽霊はビクリと体を震わせ、上目遣いで俺を見つめた。いくら化け物に追い掛けられてたって、無事に生き残ったって、こんな所に閉じ込められて堪るかってんだ! 俺は幽霊を睨み付ける。
「…何で、お前が悲しそうな顔してんだよ。閉じ込めたクセに!!」
「ごめんね。でも死んでほしくなかったんだよ。…ボクみたいに1人で」
幽霊は顔を伏せた。確かにこいつには同情するけど、俺はここから出たいんだ。出て、それから…? それからどうするんだよ。また包丁さんに追い掛けられるのか? 死ぬまで。いや、大丈夫だ。絶対生きて帰ってやる!
そうだ、冷静になろう。………。ここに来たのは俺が初めてじゃないはずだ。出られた奴もいたかもしれない。
「……。今までお前がここに連れてきた奴らはどうしたんだよ?」
落ち着いた素振りを見せる俺に、相手はあからさまに安堵したかのように顔を綻ばせた。
「みんな、出たがったよ。暴れて叫んで…。ボクの言うこと、聞いてもくれなかったな」
「だからどうなったって…!」
「追い出したよ、もちろん。ボクの世界にいてほしくないから」
先ほどとは打って変わって、言い切った彼の顔は無表情だった。ゾッとした。追い出した先。みんながどこに行ったかは、俺にも分からない。元の世界でないのに後から気付く。俺の世界に帰ってきた奴、1人もいないんだっけ。こいつだってさっき言ってた。この夜の保健室から出て、元の世界にたどり着けた人間はいないって。
「ねぇ、お願い。ボクと一緒にいてよ。そばに」
「…嫌だ」
「1人なんだよ、ボク。寂しいんだ。キミだって1人でしょ?」
「俺は1人なんかじゃ! ……っ」
言い返そうとして、脳裏を過ぎったもの。滅多刺しになり、血に塗れた先生の体。田中の首から花火のように吹き出した赤。動かなくなった廊下の九頭龍。校内に響き渡った左右田の断末魔。…1人。1人だ。俺、1人だった。
固まった俺を幽霊は憐れむように目を細めた。恐る恐る近付いて、俺の手をそっと取る。
「辛かったんだね? …可哀想に」
冷たいと思った幽霊の体温。今は少しだけ温かく感じる。今まで押さえられていた涙がまた流れ出てきた。俺、逃げてきたんだ。でも何からだ…? 包丁さん? それとも友達の死?
「みんな…」
「連れてきて、ごめんね。でもボクの力では…、元の世界に返すことが出来ないんだ」
絶望。俺は力が抜けて、床にへたり込んだ。薄暗い保健室にはまた再び雲間から月の光が差し込む。
「俺も…。俺も刺されて死ねば良かった。あはは…っ。逃げてたから1人になったんだな。…なぁ、ここから俺を追い出せるんだろう? やれよ。俺1人生き残ったってさ…」
「それは違うよ…。キミは1人じゃない。ボクがいる。…そう、1人じゃないよ」
そう言って、相手も床に膝を突いた。月に優しく照らされた保健室。幽霊の瞳が一瞬、水晶のように煌めく。
何も聞こえない、耳が痛くなるほどの静寂。その中に最後の言葉だけが妙にハッキリと響いた。俺は彼の目から視線を外すことが出来なかった。吸い込まれる…。言葉では言い表せない何かが俺を惹きつける。
「……1人じゃ、ない」
「そうだよ。ボクは確かにここにいるんだ。キミと向かい合って、目を見つめて、話してる」
1人では顔を見合わせることは出来ない。でも俺は今、こいつの顔を見ている。1人では会話は出来ない。でも俺は今、こいつと言葉を交わしている。現実世界に『ある』のは、包丁さんと4つの死体。
「戻ったらダメだよ。あの子はきっとキミを殺す…。逃げ切るなんて、絶対無理だ」
「……でも、」
「そもそも…ボクがキミをここから出さない」
「………」
「キミはボクとずっと一緒にここにいるんだよ。もう決まってるから」
「…あっ」
力ない俺の体は再び抱き締められた。さっきより力強く苦しいほどに。でもそれが生きている感触。死んでしまっては味わえない、誰かと接するということ。俺は感覚を失いかけた腕を相手の背中に回す。自分以外の誰かが、この世界には、いるんだ。俺を見てくれて、触れてくれて、話をしてくれる誰かが。
「ボク達1人じゃない」
「うん…」
耳元で囁かれて、肌にかかる吐息に心が落ち着いている。俺、1人じゃない。何だ、それで十分じゃないか。
俺は息を殺して、泣いた。ただただ、涙を流す。幽霊は俺を抱き締めたまま、何も言わなかった。



差し出されたガラスのコップには水が入っていた。ベッドに腰掛けた俺はそれを受け取り、一気に飲み干す。確かに水を飲んだはずなのに、胃に重さを感じない。奇妙な感覚に戸惑う俺の隣に奴はそっと腰を下ろした。
「ボクは狛枝 凪斗だよ。キミの名前は?」
「…日向 創」
ぎこちない自己紹介から俺達の世界は始まった。俺と狛枝しかいない世界。2人だけの世界。それは空虚でとても退屈に見えた。でもあんな現実に戻るくらいなら、今の方がマシだ。そう自分に言い聞かせて、俺は狛枝の隣にいる。狛枝は良く喋った。口から先に生まれてきたんだろってくらいに。俺はただ黙って聞いていた。
「ずっと黙ってるね。難しいことはあまり考えない方が良いよ?」
「ああ…」
「あはっ、誰かとこうして話が出来るなんて夢みたいだ! ああもう、最っ高の気分だね!!」
「…ははっ、テンション高いな」
俺だけが置いてけぼり。周囲の空間と見えない壁があるように、狛枝がとても遠い存在に思える。それでも1人よりマシだ。自分に幾重にも呪文をかける。ある意味での暗示だ。2人だけの世界か…。この夢はいつか終わる時が来るんだろうか? そう願いつつ、僅かな希望を抱いたまま、俺は目を閉じた。


……
………

夢は、終わらなかった


俺達はいつまでもこの満月が覗く保健室にいた。いるしかなかった。でも不思議と辛くなかった。だって1人じゃない。狛枝は俺を見てくれる。2人で笑って、色んな話をする。知ってること、知らないこと、たくさんあった。
「いや。俺昭和じゃなくて、平成生まれ」
狛枝は眉に皺を寄せて「へーせー?」と繰り返す。「ケータイは?」と聞いても、狛枝の表情は変わらない。
「ケータイ分かんねぇのか。パソコンもダメ? じゃあ…テレビは?」
狛枝は俺より大人っぽく見えて、ふとした行動がたまに幼い。オーバーリアクション気味に狛枝は両手を広げる。
「馬鹿にしないでくれるかな。それくらい知ってるよ。テレビのない生活なんてありえないよね!」
じゃあ今の生活は何なんだよ!とツッコみたかったけど、ツッコんだところでどうしようもないので、俺は諦めた。
「俺は別にテレビそんな見なかったぞ。ケータイないと生きてけないけど」
「ねぇ、さっきからけーたいって何のこと? 日向クン、教えてよ」
「……。知りたい?」
「うん、すごく知りたいな」
ニコッと笑った狛枝の顔にはハッキリと「気になる」と書いてあった。見え見えで単純。幽霊なんておどろおどろしいものなんて思ってたけど、どう見ても狛枝は俺と同じただの少年だった。俺は何拍か間を置いて、狛枝を焦らす。
「…それは、秘密だ!」
「えっ!? 酷いよ。日向クンの意地悪!!」
まるで放課後の教室でじゃれ合う友達同士。でもここは外に出ることが叶わない異次元。たまに身の毛がよだつことがある。何で俺、ここにいるんだろうって。今更とか言うな。俺はまだ信じているんだ。夢の終わりを。


……
………

早く、目覚めさせて


おかしいおかしいおかしい。ドッキリだろ? これ。そろそろネタばらししても良いんだぞ。でも誰も来ないし、起こしてもくれない。
たまにボーッと月を眺めていると、明る過ぎる輝きに目が眩んでくる。この程度の明るさで眩しいのなら、俺はもう太陽の下を歩けないだろう。染まってきている。同化する。最近はもう帰ることを全く考えなくなった。
「もうちょっとくっついてもいいかな?」
「いいぜ」
狛枝はやたらとスキンシップを好む。例えば、ベッドに横になる時。最初は別々のベッドだったけど、少し前から俺のベッドに乱入してきて、今では一緒に寝ることが当たり前になっていた。1人の時間が死ぬほど長かったから。狛枝はそう言って、俺の肩に掴まるようにして眠る。1人の寂しさは俺も良く分かってるつもりだったから何も言わなかった。好きなようにさせた。今だってそうだ。ぴったりと密着した体が隣にある。
「月…綺麗だな」
「ちょっとおいしそうだよね…」
「何だよ、その感想」
腹は減らない。喉も乾かない。でも食べ物の話はする。暑くもなく寒くもない。でも狛枝の体温は感じることが出来る。はしゃぎ過ぎても疲れない。でもたまに眠くなる。時計がないから時間が分からないけど、それはとてもとても長い時間だった。ベッドに並んで腰掛け、外の景色を眺める。眠くなったらベッドで眠る。その繰り返し。


……
………

どうでもいいの? 本当に?


異常な世界に慣れるには、自分も異常にならざるを得ない。名言だろ? そうじゃない? 今、俺が考えた。
「ねぇ、日向クン。キスしていい?」
「…そんなの、いちいち聞かなくていいって。ほら」
自然な動作で俺達は口付けた。何回目? もう数えてない。どうでもいいんだ。もう俺の頭、おかしいし。
俺は誰かとキスをしたことがなかった。何となく、本当に何となく…そんな話になって。そのことを告げたら「じゃあ、してみようか」と狛枝が言い出した。すぐにした訳じゃない。俺だってホモにはなりたくないしな。
『だって誰が馬鹿にするの? 男同士!って騒ぐの? ここにはボク達しかいないのに』
狛枝は『変なの』とクスクス笑った。何も言い返せない。反論する余地もなかった。だって狛枝の言うことは何から何まで全てが正しい。そうだよな。会話をする度にそんなことを言われて、俺の考えの方がおかしいんじゃないか?って思い始めた。
世界に2人だけなら、相手を好きになるしかないだろ? 嫌いになんてなれない。狛枝も絶対分かってる。ひっついたまま『ボクのこと嫌い?』と可愛らしく小首を傾げられて、なし崩しにそのまま狛枝とキスをしてしまった。
「うん、やっぱり日向クンで良かったな」
「ん?」
「最初にね…ここに連れてこうと思ったのは、日向クンがとっても可愛かったからなんだ」
「はぁ? お前、包丁さんから助けるためって言ってなかったっけ」
「ん…、そっちも正解だけど。まぁ一目惚れってやつかな」
狛枝がそう思わなかったら、俺はここにいなかったのか? 少し前ならこいつに怒りをぶつけてたかもな。お前が連れてきた所為で!って。今はもう何とも思わないけど。狛枝のことは嫌いじゃない。というかむしろ好きだ。大好き。包丁さん云々を置いておいても、ここに来て良かった気がするから。
「マジか。…あー、男だって分かってたんだよな?」
肯定の代わりに、狛枝はまた俺の頬に唇を寄せた。ふわっと肌を掠める感触は今まで味わったことのないものだ。柔らかくて少しだけ温かい。それから堪らなく相手が愛しく思える。俺の目には狛枝しか映らない。


……
………

溺れてしまおうか


この世界は、きっと天国なんだと思う。陶酔してしまうほど静かで薄暗い保健室に、神秘的なまでに白く美しい満月、瑠璃色の空に満天の星。俺の大好きな狛枝がいて、狛枝の大好きな俺がいる。
最高のシチュエーションだろ? ん、出会いはどんなだったって? えっと、何だっけ。知らない、もう忘れちまった。
「ねぇ、日向クン。もしボクがキミを、元の世界に…、…ううん。何でもない」
「?」
元の世界って何だ? 何か思い出せそうな気がしたけど、分からない。俺は狛枝さえいてくれればいい。絶対に離れたくない。こいつの傍にいたいんだ。誰よりも大切な存在だから。
「おやすみ。ってくっつき過ぎだろ!」
「ええ、良いじゃない! 好き同士なんだよ、ボクら。ね?」
「しょうがないな。…ったく」
目が覚めてたらいなくなってる不安はあったけど、手を繋いでいることで隣に狛枝がいることが分かる。狛枝は、俺のことを1人にしなかった。傍にいてくれる。愛されてるよな、俺。幸せ過ぎて涙が出そう。永遠に続く安らぎと癒し。狛枝と俺の2人だけの愛の巣。…何かひっかかるな。何だろう? まぁいいや、下らないことは忘れよう。月がこんなに綺麗なんだからさ。
しばらく寝ていたら、後ろから手が伸びてきて ふわりと抱き込まれる。何されたって平気。俺はずっとここにいるんだから。抵抗らしい抵抗もせず、制服のボタンが外されて、素肌にツッと狛枝の指が触れた。
「!? ちょ、くすぐったいだろ! 馬鹿っ」
「ん? ふふっ、……ねぇ、いいでしょ?」
甘ったるい狛枝の匂いが鼻を掠めた。こいつの声は少し掠れていて、腰に響くような色気がある。更に耳元に湿り気のある吐息が掛かって、俺の肌が粟立った。

裸で抱き合うことも、深く繋がることも、当たり前のことなんだ。顔を見合わせて、笑って、狛枝とキスをする。体が熱くなって、どこかに飛んで行ってしまいそうな感覚。唇が全身に触れて、その気持ち良さにどんどん溺れる。腰を強く押さえつけられて、激しく内側を突かれて。息を乱しながらも、必死に相手にしがみ付く。
「はぁ、日向クン…、くるしい? っきもちい? …あつい?」
「ぜんぶ…っ」
俺の中が狛枝でいっぱいになって、溢れてしまいそう。律動を繰り返して、互いの体で熱の交換が続く。
「なか…、中が…いいっ。こまえだ、」
「ん。分かってる、んん…アっ…。いくよ?」
ドクドクと狛枝から流れてくる熱い衝撃に、俺はただ快感に塗れながら、打ち震えているしかなかった。
白い月明かりの下、保健室のベッドに折り重なる2人。溺れた先に何があるかは分からない。多分何もないと思う。でもこのままでいい。俺は狛枝しかいらない。誰も邪魔をしない俺と狛枝だけの世界。ずっと一緒。ふたりきり。

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