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01.檻の中の幸せ 友達
壇上に上がっていた講師が退出し終わる前に、狛枝はすぐさま机の上に並べられた教科書類を纏め出した。乱暴に鞄の中に突っ込んで、慌ただしく腕時計を見る。今から行けばギリギリだろう。しかし席から立とうという所で、目の前に立っていたらしい人物に真正面からぶつかってしまった。
「あ……っ!」
「っ悪い。そんなすぐ動くとは思ってなくて。狛枝…、今日も忙しいのか?」
心配そうに話し掛けてきたのは同じ学部の日向だった。あるキッカケがあり、彼とは大学で1番言葉を交わす。とはいうものの自分から日向に声を掛けるのも恐れ多いので、会話のスタートは決まって日向からだ。明るく優しい太陽のような人。狛枝にとって、彼は希望に満ち溢れた大事な友達であった。
「うん、日払いのバイトがあって…。その…、期日が明日までなんだ」
彼だけには事情は話してあったものの、大学の教室でおいそれと出せる単語ではなく、狛枝は言葉を濁しつつ今の状況を説明した。それを聞いた日向はすぐに察してくれたようで、更には急いでいるオーラを全身から放っていた狛枝にささっと道を譲ってくれる。軽く頭を下げつつ、狛枝は「それじゃ」と手を振って、教室を出て行った。


借金が、減らない。
狛枝は明細書の束を並べて溜息を吐いた。築25年の安アパートは隙間風が入ってきて、年がら年中寒く感じる。白熱灯を点けるのも電気代が惜しく、蝋燭に火を灯すという徹底した節約っぷりだ。四畳一間の狭い空間に折り畳み式のちゃぶ台1つと煎餅布団があるだけで、他には私服が数点しかない。その私服のほとんども日向が「着なくなったからやる」と無理矢理押し付けてきた物で、彼には感謝してもしきれないくらい世話になっていた。
日向は世話焼きな性分なのか、狛枝の事情を知ってから何かとアパートを訪ねてきた。料理を作り過ぎたとか、貰い物だがいらないからとか尤もらしい理由をつけて、狛枝に食料や生活雑貨を恵んでくれた。「友達から貰うなんて悪いよ」と断っていたが、内心は貰える物なら頂いておきたい気持ちでいっぱいだった。日向はそれすらも見抜いていたのか、「なら代わりにゴミを処分してくれ」と文言を変えて、狛枝が断る理由を取り去ってしまった。
「日向クン…」
狛枝は恩人の名前をぽつりと呟いた。ただそれだけでこの絶望的な状況に光が差してきたように思えるから不思議だ。日向のお陰で自分は生きているようなものだ。彼がいなかったら、今頃借金に押し潰されて命を絶っていたかもしれない。狛枝は穏やかな気持ちで明細書の束を封筒に仕舞った。借金を返したばかりで、財布はすっからかんだ。ありつく夕食などある訳がない。狛枝は水を飲もうと立ち上がった。蝋燭の光だけでは台所まで辿り着くのが精一杯で、蛇口は手探りで探し当てる。冷たい金属質に触れた狛枝は、反時計回りにそれを捻った。が、雫は1滴も落ちてこない。
「あ…。そういえば、水道止められてたんだっけ」
きゅるきゅると鳴る腹を擦りながら、狛枝は硬く薄っぺらい布団を畳の上に敷いた。その中にモゾモゾと潜り込みながら、唾をゴクリと飲み下し、空腹を誤魔化す。明日も借金返済が続くのだが、日向の顔を頭に浮かべれば、何だか乗り越えられそうな気がした。


……
………

『なぁ、お前…。何しようとしてんだ?』
『え……』
靴を脱いで、橋の手摺によじ登ろうとしている狛枝に声を掛ける人物がいた。深夜0時を過ぎた時間帯。駅から離れた住宅地で街灯の明かりも心許なく、人通りは全くないと言っても良い。だからよもや自分を止めようとする人間がいるなどとは夢にも思わなかった。辺りは暗く、相手の顔すらも見えない。通りすがりに興味はないので、狛枝は人影にチラリと視線をやっただけで、すぐに正面に向き直った。
『…何って、見れば分かるでしょ。ここから飛び降りるんだよ』
狛枝は下方に流れる真っ黒い川へと視線を落とした。水量が多いことでも有名な川だ。雨は降ったりしていないが、普段の水の勢いからすぐに溺れることは簡単に予測出来た。現に今まで何人かがここで命を絶っている。先人達は楽に死ねたのだろうかなどとぼんやりと考えながら、狛枝はそろりと足を前に出そうとした。
『ダメだ、止めろ!!』
『うわっ!?』
足を抱えるように掴まれ、狛枝はぐらりとバランスを崩す。ふわっと浮かんだと思ったら、背中に衝撃が走る。だがアスファルトに叩きつけられることなく、狛枝の体はその通行人にしっかりと抱き締められていた。
『死ぬなんて、…絶対ダメだ!』
『……っ、離してよ! このまま生きてたって、絶望しかないんだ!!』
掴まれた腕から逃れようと必死にもがくが、何日も食べ物を口にしておらず、元々非力だった狛枝は力では勝てなかった。がっしりとした温かい腕が体に巻きついている。その時初めて、相手が男であると認識した。身を捩るがいつまで経っても離してくれない。先に待つ絶望と命を救われた安堵感でぐちゃぐちゃになった狛枝は嗚咽混じりに涙を零した。
『お願いだよ…、ボクを死なせて…っ』
『死なせない』
『っ!! キミに何が分かるの!? 初対面だよね? 事情を知らずによくも抜け抜けと…!』
『知らないけど。俺はお前を死なせたくない。生きていてほしい。…それじゃ、ダメなのか?』
言い聞かせるような優しい声色に狛枝はハッとして、振り向きざまに男を見た。男の年齢は狛枝と変わらないくらいで、短い焦げ茶色の髪をした青年だった。彼を見た瞬間、確かに初夏の陽光のような暖かみを感じた。真っ直ぐに向けられる眼光から目を逸らせない。虫の音色が良く聴こえる橋の上で、狛枝は日向と初めて出会った。


……
………

「日向クンの…、夢…」
ゆっくりとまどろみから意識が浮かんでいく。日向との最初の接触は大学ではなく、自殺者が絶たない曰くつきの橋の上であった。あの時のことは今でも鮮明に覚えている。心身ともにボロボロだった狛枝を日向は放っておかず、自分のアパートまで引っ張っていき、温かい食事と一晩の寝床を与えてくれたのだ。神様だと思った。絶望に塗り潰された地獄のような未来に、日向は希望として燦然と輝いていた。
「大丈夫。ボクは今日も頑張れるから…。…日向クン」
祈りを込めて彼の名前を呼ぶのは、毎朝の儀式のようなものだ。狛枝は布団から起き上がると、バイトへ向かうために支度をし始めた。


胸に日向という希望を宿したものの、狛枝の借金はちっとも減らなかった。何というか…返せてはいるのだが、それを上回る金額を借金しているのだ。
借金の入り口は遠縁の親戚だった。事業に失敗したという話を涙ながらに語られては支援せざるを得ない。幸い貯金には余裕があったので、狛枝は無言で万札の入った封筒を差し出した。親戚は狛枝に対し土下座で礼を言うと、小躍りしながら帰っていった。
そこからじわじわと出費が増えた。外に出れば事故や災難に遭い、その弁償は何故か狛枝に強いられる。首を傾げつつも払っていたが、やがて貯金が底を尽いた。そんな感じで私生活がゴタゴタしている内に、金を貸していた遠縁の親戚は音信不通となった。仕方なく学生でもローンが組める消費者金融に手を出したのだ。その時はバイトでもして返せば良いと軽く考えていた。大学は奨学金で通っているので出来るだけ辞めたくはなかった。
狛枝は明細書の金額を浚った。複数から借りている所為で借金は雪だるま式に増えていっている。1つのローンを返し終わったら、また別の金融会社から返済の催促が来る。そんなことを繰り返す内に、契約している金融会社は6つにもなっていた。
「無理だよ…、日向クン。日向クン、ひなたクン…」
ぽたりと明細書に雫が落ちる。自分の目から零れた涙が次々と明細書の数字を濡らしていく。いつになったらこの地獄は終わるのだろうか。もしかしたら永遠に終わらないのかもしれない。必死にバイトして働いても返し終わるのは不可能だ。売れる物は全て売り払った。身1つで他に持ち物なんてない。
「………いや、ある」
狛枝の呟きは小さなものであったが、犬小屋のように狭いアパートには良く響いた。売れる物…、自分自身だ。パソコンも携帯電話もないので調べられないが、そういった仕事もあるはずだ。水商売である。実際に襲われたことは幸いなかったものの、狛枝は日頃から同性に情欲を孕んだ瞳で見られることが多かった。自身に需要があることは自覚している。
「明日…、学校で調べてみるか」
他に手段などない。約束したのだ、日向と。絶対に命を絶ったりしないと。だったら可能なことは全てやる。狛枝の決意は固かった。


次の日の昼休み。狛枝は早速コンピュータ室に向かった。自分のIDでパソコンにログインし、すぐさまインターネットを開く。検索欄にそれらしい単語を入力し、検索を掛けた。1秒も経たない内に画面が切り替わり、狛枝の知りたい情報が雑然と並べられる。狛枝は同性愛者ではない。何をどうするかの知識は朧気ながらあったが、一生関係ないものだと昨日まで信じていた。一先ずやるやらないは置いておいて、どのくらい稼げるものなのかを真剣に読み進めていく。
「結構ピンキリみたいだね…」
「何がピンキリだって?」
「!!?」
背後から突然声を掛けられて、狛枝は勢いよく振り向いた。そこには日向が立っている。いつの間に…。いくらモニタに夢中になってたとはいえ、真後ろの足音を聞き逃すなんて。狛枝はウィンドウを閉じそびれ、おたおたと画面を隠すようにさり気なく立ち上がった。日向は呆れたように腕を組んで、こちらを軽く睨む。
「狛枝、こんな所にいたのか。ちゃんと飯食ってんのか? お前…」
「大丈夫。ちゃんと食べてるから」
「……嘘つけ。食べた形跡全くないぞ」
指し示されて、狛枝は口籠った。パソコンが鎮座している机の周囲には食べ物らしいものは置いていなかった。今日は持ち合わせがなく、水を飲んで飢えを凌ごうと思っていたのだ。黙り込んでしまった狛枝の肩に日向はそっと手を置いた。
「お願いだ。もっと俺を頼ってくれ。昼飯くらいだったらいつでも奢ってやれるからさ」
「でも、ボク…」
「何遠慮してるんだよ、今更。友達だろ? 変に気なんて遣うな」
「………、日向、クン…」
名前を呟くと、反射的に涙が出てきた。驚く日向の顔が涙で歪む。狛枝は情けなくもその場で泣き崩れた。止めようにも涙は後から後から零れてくる。日向は慌ててポケットからハンドタオルを取り出すと、そっと狛枝の目元に当てた。
「お、おい、狛枝…。泣かないでくれよ」
「ひっ…く……っ、ねぇ、日向クン。ボク、苦しいよ…。いつになったら終わるの? う…っ、努力は必ず報われるって言うけど、本当にそんな日が来るのかな。毎日毎日景色が灰色で、楽しいことなんて1つもない! 何もかもがボクを追い立てるんだ。お金、お金、お金…。そんなの…っ、ボクが1番良く分かってる! ……どうすればいい? ボク、このままじゃ生きていけない…」
「…狛枝」
しゃくり上げながら切れ切れの言葉で訴える狛枝に、日向は困ったような顔をした。無関係の彼に何を言っても意味がないと分かっているのに、吐き出さなければやってられなかった。泣いている狛枝を日向はそっと抱き寄せてくれる。頭を優しく撫でられ、狛枝は日向の肩口に顔を埋めた。
「偉いな、狛枝。お前は良く頑張ってるよ…」
「っ…ん……ひ、ぁた、クン……ふっ…」
「……そろそろか」
「え…?」
何か変な言葉を聞いたような気がして顔を上げたが、そこには菩薩のような笑みを携えた日向がいるだけだった。今のは聞き間違いか何かだろう。狛枝は太陽の瞳をじっと見つめる。力強い綺麗な色が大好きだった。日向は狛枝の希望そのものだ。
「とりあえず、腹が減ってるのは良くない! コンビニ行くぞ。弁当奢ってやる」
「日向クン…」
「それから! お前はアパート引き払って、今日から俺の所に泊まれ。それで家賃分、借金返せるだろ?」
「でも…っ」
「生活費のことは気にするな。1人増えたって変わらない。俺が心配なんだ」
日向はビシッと指を突き付け、「俺の胃に穴開けたくなかったら言うこと聞け」と冗談っぽい口調で言い放った。何て、人だろうか。ここまで自分を気遣ってくれる人がこの先現れるとは思えない。さっきとは違う思いが胸に込み上げ、狛枝はまた目頭が熱くなった。
「狛枝は泣いてばかりだな。大丈夫、俺がいるから。俺は…お前の味方だから…」
「うん…、うん…。ありがとう、日向クン。…ありがとう」
何度礼を言っても足りない。どうやって恩返しをすればいいのか分からない。彼が友達になってくれて良かった。あの時橋の上で会った幸運に心から感謝をする。涙でぐずぐずの狛枝に柔らかい笑みを向けながら、日向はコンピュータ室の扉を指し示した。


……
………

狛枝が安アパートを引き払い、日向のアパートに居候するようになって1週間が過ぎた。相変わらず借金はあったが、返済出来る額は以前と比べて確実に増えた。日向が一緒にいることで心の平穏を取り戻せたのが大きい。朝・昼・晩、寝食を共にし、規則正しい生活をすることで体の調子も良くなった。休めそうな講義の出席やレポートも日向に助けてもらっている。水商売をすることもなかった。というか日向と四六時中一緒にいるので、如何わしいバイトなど出来るはずもなかった。少しずつだが借金は減っている。金融会社の数はやっと4つになった。闇の中に一筋の光が見えてきたのだ。しかし僅かに見えたその希望の光も、ある一瞬の出来事で呆気なく打ち砕かれてしまった。


その日の狛枝は美術館の清掃員のバイトをしていた。掃除は元々得意であったし、数多くの美しい絵画や芸術品が展示されている美術館は狛枝の心を癒した。落ち着いた空間で仕事に取り組めることを嬉しく思いつつ、美術品の壺が置いてある展示台を丁寧に拭いていた時のことだった。突然、壺が割れたのだ。何の前触れもなく、粉々に。狛枝は壺に触れてはいない。そもそもそれはガラスケースに入っていて、傷付けられる状況ではなかった。誰も壺を割ってはいない。最初の内は怪我はないかなどと心配していた美術館の館長であったが、手違いでこの壺が保険に入っていなかったことが分かると鬼の形相に変わった。狛枝をヒステリックに責め立て、1番近くにいたのは狛枝ということで莫大な賠償金を請求してきたのだ。
「こんなの、払えない…」
狛枝はアパートのフローリングに膝を突き、館長に手渡された請求書に視線を落とした。今までの借金より0が1つ多い。とてもじゃないが、バイトをして払えるような額ではない。どうして自分ばかりこんな目に遭うのだろうか。日向と生活していた日々が幸せ過ぎて、怒った神様が自分に不運を送りつけたのかもしれない。遣る瀬無さで胸がいっぱいになって、ぶつけようもない虚しさで狛枝は啜り泣いた。だがいくら目を擦っても、請求書の金額は変わることはない。それが狛枝に残酷な現実を突き付ける。何もする気が起きず、しばらくそのままボーっと座り込んでいた狛枝の耳に、玄関からガタガタと物音が飛び込んできた。キーロックがガチリと縦に回り、その向こう側から同居人が「ただいま〜」と言いながら顔を見せる。
「日向、クン……。おかえり…」
「おー、ただいま。あれ? 今日の晩飯、お前の当番だったよな?」
いつもこの時間に香ってくる夕食の匂いがなく、日向はそれについて問いかけてくるが、狛枝には返す言葉がなかった。そういえば今日は自分が夕食の支度をする日であった。「ごめん」と口の中で謝った言葉は小さ過ぎて、日向には届かない。
声を出そうにも唇が動いてくれない。また借金を増やしてしまった。世話になっている日向にどう釈明すれば良いのか全く分からない。頭はズキズキと痛み出し、視界がぐわんぐわんと大きく揺れる。気分は最悪だ。みしりみしりと木製の廊下が軋み、リビングに日向が現れた。のろのろと狛枝は視線を上げる。2人の視線が克ち合った途端、日向の顔は見る見る内に驚嘆に染まっていった。
「…っ狛枝、泣いてるのか!?」
泣き腫らした狛枝の顔に日向はすぐに気付いたようだ。乱暴にショルダーバッグをリビングに投げ捨て、一目散に狛枝の傍へと駆けていく。そして悲痛な面持ちのまま、狛枝の目線に合わせるように膝を突いた。
「どうしたんだよ、狛枝! 何があったんだ? もしかして…っ、借金が原因で危ない目に遭ったんじゃ…」
「………。日向クン、それは違うよ…」
何をどう説明すればいいのか分からなかったが、とりあえず彼の質問には首を振って否定する。しかしその後に言葉が続かない。黙って床を見つめるだけの狛枝に痺れを切らしたらしい日向はキョロキョロと辺りを見回す。そして床に落ちている紙に気付き、それを拾い上げた。
「何だよ、これ……っ! 壺…? 壺が、こんな値段すんのか!?」
請求書に書かれた金額に、さすがの日向も驚いたようだ。肩は小刻みに震えていた。琥珀の瞳はカッと開き、紙のある1点を穴の開くほど見ている。無理もない。その価値は600万円を超えていた。狛枝が割ったと因縁をつけられた壺は著名な芸術家が手掛けた、世界に2つとない逸品だった。一般人に名前を知られているほど有名ではなかったが、美術分野に関して学のある人間ならすぐに分かるそうだ。
「ごめんね、…日向クン。ボク、もうここには居られないよ。今すぐ出てくから…」
「っ! ダメだ! 借金が増えたくらい何だよっ。あんなに頑張ってきたのに、ここで諦めるのか!?」
日向は鬼気迫る表情で狛枝の肩を揺さぶる。狛枝の1番近くで支えてた彼だからこそ言えるセリフだ。狛枝が日向のアパートに転がり込んで、1ヶ月が過ぎていた。バイトのスケジュールを把握し、私生活の面はもちろん大学の講義まで手を回してくれた。朝早く出ていく狛枝のために夜の内に食事を準備し、夜は疲れて帰ってきた狛枝を温かく迎い入れる。バイトを無理に増やそうとしようものなら「もっと自分を大事にしろ」と叱咤を飛ばし、狛枝の給料日にはまるで自分のことのように喜んでくれる。毎日極限まで体を動かしていたが、彼がいてくれたお陰で挫けずに済んだ。だが、今は…。
「でも…、日向クン。これでボクの借金は1000万円を超えたよ。今までとは違うんだ…! キミに迷惑は掛けられない」
「…行かせないぞ、絶対に!! 俺は狛枝を見捨てない。いつか来るから…。借金返し終わってさ、こんなこともあったなって笑って話せる日がいつかきっと来る。それまでは意地でも離れない」
心に響く力強い言葉。狛枝を貫く太陽の瞳。日向に見つめられ、ドキドキと狛枝の胸が高鳴る。どうしてだろう? 何故彼はこうまでして、自分を助けてくれるのだろうか? 疑問に思った狛枝は日向におずおずと問いかけた。
「ねぇ、日向クン。キミはどうして、ここまでボクを助けてくれるの? 何の取り柄もない、ボクなんかのことを…」
「……どうしてって、言われても…。放っておけないからとしか。俺、狛枝のこと…好きだし」
「え…っ」
日向の口から零れた『好き』という言葉にドキッとする。狛枝が硬直したのを見た彼は慌てて首を振った。
「いや、いやいやいやっ、違う違う。その…変な意味じゃなくて。友達だからさ、困ってたら何とかして助けたいんだ」
顔を紅潮させながら、日向は早口で捲し立てた。恐らく恥ずかしいのだろう。狛枝からさっと視線を外し、モジモジと居心地悪そうにしている。何て美しい心の持ち主だろう。狛枝は日向の清廉さに胸を打たれた。天使か何かが人間に姿を変えているのではないだろうか? 日向から溢れ出る眩しさを目の前にして、狛枝は自分の醜さを強く感じた。自分のような汚らしい人間が彼の傍にいて許されるのか。心の中で自問自答を続ける。
「狛枝。今日はとにかく飯食って寝ろ。難しいことは明日にしよう。俺も一緒に考えるから…」
「ごめんね…、日向クン。ごめん……。ありがとう…!」
涙を拭って、狛枝は立ち上がる。狛枝の足元がふらついているのを見た日向は「今日は俺が飯作るから待ってろ」と肩を押して座らせた。狛枝は何とかして希望を蘇らせようと、台所へと背中を向ける日向を見つめるのだった。


……
………

借金が増えても、結局やるべきことは変わらない。毎日あくせく働いて金を稼ぐだけだ。しかし狛枝は以前よりも日向のことを強く意識するようになった。日向も狛枝も男であるのだから、恋愛関係になれるなどとは微塵も考えていない。そもそも抱いている気持ちが恋愛感情なのかも疑わしい。今はただ彼の傍にいられるだけで十分だった。日向が自分と一緒にいてくれるのは借金があるからだ。憎らしい明細書達もそれを考えれば多少は心が和らぐ。
夜も11時を越えた頃、業務から解放された狛枝は日向のアパートにやっとの思いで辿り着いた。渡された合鍵で玄関を開けると、いつも出迎えてくれる同居人が姿を現さない。しかし靴はあるし、電気は点いているから室内にはいるようだ。
「あれ? …日向クン」
ダイニングテーブルの上にはラップを被せた夕食が並んでいるだけだ。リビングの隅に荷物を置き、洗面所で手を洗おうとすると、隣の風呂場から水を叩くような音が断続的に聴こえた。シャワーに入っているのかと狛枝はホッと息を吐く。さっさと夕食を食べようと考えて、ダイニングの席に着いた。
「日向クン、こんな所に鞄置いちゃって…」
何故かテーブルの下に日向が愛用しているショルダーバッグが置いてある。足で蹴ってしまいそうなので、ソファに避難させようと狛枝はそれを手に取った。ファスナーが開いていて、何やらパンフレットのような物が飛び出している。プライバシーに関わるのなら、視線を逸らしてなるべく見ないようにするのが同居人としてのルールだと狛枝は思っている。だがチラリと見えた『学生ローン』というゴシック体に反射的に二度見をした。
「何、これ…」
明るい黄色で彩られたパンフレットからはおどろおどろしい雰囲気など感じられない。だが狛枝は消費者金融に関しては、自慢ではないがそれなりに知っている。彼らは初心者でも足を踏み入れやすいように、プラスイメージだけを表面に散らす。安心です、信頼出来ます、負担は軽いです。気安さを押し出して、それを撒き餌に獲物を釣り上げるのだ。

『おひさまローン。
初めての方、女性のお客様、学生さんも大歓迎!
お客様のご都合に合わせて、返済期限を決められます。
返済スケジュールは専属スタッフがきっちり管理!
まずは電話・インターネットからお問い合わせを』

忌々しい常套句に狛枝はチッと舌打ちした。消費者金融のクセに綺麗事を抜かすなど反吐が出る。しかしそんなことはどうだっていい。重要なのはこのパンフレットが日向の鞄から出てきたこと。
「まさか……っ、日向クン…!」
多額の借金を抱える狛枝を見兼ねて、自らも消費者金融に手を出したのではないか。わなわなと手を振るわせ、狛枝はパンフレットを凝視する。混乱で動けなくなっていると、やがてシャワーの水音が止み、リビングのドアからパジャマ姿の日向が顔を見せた。
「狛枝、帰ってきてたのか。おかえり。…狛枝?」
「ひ、日向クン…、これって」
「えっ、あ、いや…それは…っ、誤解だ! 俺は別に…」
狛枝の手にある消費者金融のパンフレットを見て、日向は顔面蒼白になった。血相を変える日向に狛枝の心臓がドクンと大きな音を立てる。まさか…、まさか…。
「……日向クン、ここでローンとか組んでないよね!?」
「あ。…何だ、そっちか。それは駅前のビラ配りのやつで、お前とは何も関係ないから」
「本当に? お金借りたりとかしてない?」
「ああ。借りてないぞ」
狛枝の念押しに日向は頷く。嘘を吐いているようには見えない。安堵から狛枝は腰が抜けてしまい、その場に座り込んだ。
「はぁ…、良かった。ボクの所為でキミまで借金地獄に陥ったら、どう責任を取れば良いんだろうって考えちゃったよ」
「鞄に突っ込んだままで捨ててなかったってだけだ。驚かせちまったみたいだな。すまなかった…」
一方的に勘違いしてしまった狛枝が悪いはずなのに、日向はしょんぼりと肩を落としている。自分は少々神経過敏になっていたのかもしれない。狛枝は「ボクの方こそごめんね」と日向に声を掛けた。


その夜。1人リビングで床に就いた狛枝はぼんやりと思考を巡らせていた。今日見つけたパンフレットのことだ。狛枝の心配は杞憂に終わったが、もしかしたらこの先日向が狛枝の借金をどうにかしようと金策に走るかもしれない。自分のことで日向に迷惑を掛けることだけは避けたかった。
「うっ……、ごめん…、ひなたクン…、日向クン、日向クン…」
布団で頭を覆い隠して、狛枝は枕を涙で濡らす。自分はここにいるべきではない。前々から分かっていたけど、日向の優しさに甘えてついつい長居をしてしまった。潮時だ。明日になったら出て行こう。大好きな日向と別れるのは辛いことだが、自分の所為で彼を苦しめる方がもっと嫌だ。大して荷物もないし、出て行くだけならすぐ出来る。どこかの公園で野宿をして過ごそう。ゴミムシである自分にはその生活の方が似合っている。狛枝は涙を零しながら、自嘲した。

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02.檻の中の幸せ 所有
日向が大学から戻ってくる前に出て行く。朝からそう決めていた。立つ鳥跡を濁さず。自分の物だけを鞄に詰め込み、借りていた物などは丁寧にテーブルの上に並べる。もう2度とここには戻れない。1ヶ月ほどの共同生活だったが、思い出は楽しいものばかりだった。このままここにいたら、きっと自分はダメになる。それではいけないのだ。1000万円もの借金を1人で返さなくてはならないのだから、なりふり構っていられない。大学も辞める。最後まで手を出すか迷っていた水商売に身を窶す覚悟も決めた。
「日向クン、今までありがとう」
本当は直接言いたかったが、会えば必ず日向は自分を止めるはずだ。彼に懇願されたら、決意が揺らいでしまう。
狛枝は借金の明細書を1枚1枚確認しながら、封筒に入れていった。しかしあの日割った美術館の壺の請求書を見た時、その手の動きは止まる。
「………あれ?」
その請求書には作者名、作品タイトル、金額しか書かれていなかった。そのことについて違和感はないが、別のことが狛枝の心に引っ掛かった。

『何だよ、これ……っ! 壺…? 壺が、こんな値段すんのか!?』

日向は確かにそう言った。ハッキリと『壺』と口にしていた。だけど…。
「請求書には『壺』なんて単語、どこにも書かれてない」
何故? どうして彼はこの作品が壺であることを知っていたのだろうか? 日向も狛枝も所属している学部は美術系ではなく、日向がその分野に興味があるようには思えなかった。モヤモヤとした霧が胸を塞いで息苦しい。妙な違和感を覚えた狛枝は請求書に隅から隅まで目を通したが、答えは見つからなかった。何かがおかしい。狛枝が腕を組んで、壺を割った日のことを思い出そうとしていると…。

ピンポーン♪

タイミングが良いのか悪いのかインターフォンが鳴った。今は夕方4時頃だ。日向はまだ講義を終えていない。宅配便か何かだろうと思った狛枝は請求書をテーブルの上に置いた。配達物を受け取って、ハンコを押すことくらい自分にも出来る。そんな軽い気持ちで狛枝はスコープを覗かずに、玄関の鍵に手を掛けた。
「おう、テメーが狛枝か!?」
「あ……っ」
ドアを開いた先には中年の男が3人並んでいた。どの人物も狛枝とは面識がない。だが屈強な体躯と殺伐とした顔立ちから、堅気のものではないことは明白だった。狛枝はすぐにピンと来た。返済の期日を待ってもらっている会社が1つあったのを思い出す。彼らは借金取りだ。借金を返さない狛枝の元へ取り立てに来たのだ。消費者金融はバックに裏社会の人間がついているなどと聞いた覚えがある。噂に過ぎないと思っていたが、本当のことだったのかと狛枝は震え上がった。
「おい、何黙ってんだ。テメーは狛枝 凪斗なのか?」
「え…、と……あ、の……」
ドスの利いた声に狛枝の体がビクリと跳ねた。相手は凄んでいる訳ではないようだが、その鋭い眼光は狛枝を射殺すには十分だった。恐怖に動けなくなった狛枝にイライラと男の1人が玄関に足を踏み入れる。
「質問してんだ、さっさと答えろ。簡単だろ? イエスかノーだよ、ほら」
「は、はい…」
「そうか、やっぱりお前か。もう分かってるよな? カードローン会社・マネーキングの人間だ」
「………っ!」
予想が的中してしまい、狛枝は恐ろしさから歯の根も合わない。
「登録が前の住所のままだった。テメー、とんずらこくつもりだったんだろ」
「ち、ちがっ…違い、ます…!」
「まぁ、んなことはどーでもいいか。居場所が分かったんなら無意味だ。さて…テメーが30万円借りたのが、2ヶ月前だったな。返すのは手数料と利息を合わせて53万円。期日はとっくに過ぎてんだ。とっとと返しな」
男はそう言って、掌をヒラヒラさせてくる。返せるものならとっくに返している。別の消費者金融からの督促が先日来たばかりで、それを返済してしまったので財布は空だ。給料日は後1週間ほど先で、貰える金額も53万から程遠い雀の涙ほどの金額。どう考えても返せない。
「す、すみません…。今日は無理…です」
「知ってるぜ」
男がそう言うと、周囲の2人がゲラゲラと笑い出す。日向クン、日向クン…。怖いよ、助けて…! 狛枝はひたすら心の中で日向の名前を呼んだ。だけど彼がやってくるはずもない。
「払えないってんなら、体で払ってもらうしかねぇな。精々親に感謝しろよ? 綺麗な顔して生まれてきたことを…」
下卑た笑みを浮かべた男が狛枝のおとがいをスッと持ち上げる。怖い。怖い怖い怖い…! 男が示唆している自分の未来に身の毛がよだった。誰とも分からない好きでもない人間に体を自由にされる。絶望的な未来に、狛枝の額から冷や汗が吹き出してきた。
「こんなに震えちゃって、可哀想にな。だが借金をしたのは自分だよ。恨むなら自分を恨むんだな」
全くその通りであった。借金をしたのは自業自得なのだ。ゴミムシが幸せを感じるなんておこがましい。社会の底辺でゴミらしく汚らしい仕事で金を稼ぐべきだったのだ。男に乱暴に腕を引っ張られ、狛枝は靴を履いた。いつか借金を全て返し終わったら、その時は日向に会いたい。いや会わずとも遠くから一目彼を見たい。きっと自分は日向のことが好きだった。その気持ちさえあれば乗り越えられるかもしれない。
「さくさく歩け。手間取らせんな」
男にそう吐き捨てられ、アパートの外へと出ようとした所だった。
「待て!!!」
借金取りとは違う高めの声が夕暮れのアパート前に響き渡った。聞き慣れたその声に狛枝はハッと顔を上げる。そこには息を切らした日向が立っていた。キリッとした表情で3人の男達へと近付いていく。ダメだよ、日向クン! この人達は一般人じゃないんだ。そう叫びたかったが、狛枝の唇はパクパクと動くだけで言葉が出てこない。
「狛枝をどこに連れていくつもりだ?」
「…誰だ、お前」
「ここの家主だよ。こいつは俺の同居人なんだ。勝手に連れてかれたら困る…!」
見るからに剣呑な雰囲気を纏わせている男達に、日向は果敢にも詰め寄っていく。狛枝はその様子をハラハラと見つめていた。
「狛枝さんはねぇ…、うちに借金してるんだよ。今すぐ返済は無理だと言うもんだから、まずは事務所で社長と話してもらわないといけねぇんだ」
「…その必要はない」
やけにハッキリと言い切る日向の言葉に驚いたのは借金取りだけではなかった。狛枝は男に手を掴まれたまま茫然としていた。ただの否定ではない。彼は『必要ない』と言ったのだ。日向の言っていることの意味が良く分からない。
「何だぁ? あんちゃんがこいつの借金を払ってくれるのか?」
「っ!! 日向クン、それはダメだよ! これはボクが…」
「気持ち的には払いたい、けどな。そんなことしたら狛枝が怒るから…」
目を細めて日向は穏やかな笑みを狛枝に向けた。恐怖に脅えていた気持ちが柔らかく融かされ、不安が消えていく。
「テメーは何がしたいんだよ。邪魔するのなら、」
「邪魔はしない。だけどあんたらに渡す物があるんだ。それを見てからでも狛枝を連れていくのは遅くないぞ」
「日向、クン…?」
日向はポケットを探り、何やら掌サイズの四角い物を取り出した。財布のように見えたが、それにしては少し小さい。パタンと開いた中から白い紙が出てきて初めて、それが名刺入れであることが分かった。だが日向は大学生だ。就職のために名刺を用意する大学生がいるなどというテレビの特集を見たことがあるが、そんなことを彼がするとは思えない。そうこうしている内に日向は男達に順番に名刺を手渡していった。
「初めまして。ヒナタファイナンス、代表取締役社長の日向 創です」
「………は?」
狛枝は日向から飛び出た自己紹介に堪らず疑問の声を発した。彼は何を言っているんだ? ファイナンス…? 社長? 唖然としている狛枝を余所に、借金取りから返答が返ってくる。
「へぇ…。あそこの会社は随分と若い社長が仕切ってるって聞いてたが、こんな若造とはねぇ」
「言っておきますが、名刺は偽物じゃありません。狛枝が御社にしている借金はどのくらいですか?」
「…借金に手数料、利息。締めて53万だな」
借金取りは借用書とその他諸々の証明書類を日向に突き出した。それを一瞥した日向は顎に指を添え、何やら考えるような素振りを見せた。
「さすがに今は持ち合わせがないな…。……明日改めて御社にお伺いいたします。それでよろしいですか?」
「とか言って逃げるんじゃねーだろーな!?」
「まさか…。マネーキング、でしたっけ? お噂はかねがね聞いてます。しつこい取り立ては業界でも評判ですから。とりあえず今日のところはこれでお引き取り下さい」
日向は鞄から出した財布から万札を数枚取り出し、リーダー格の男に押し付ける。それを受け取った男はその1枚を摘まみ上げて、日向を敵意の籠った目付きで睨んだ。
「んだぁ? おいおい、坊主…。こんな金で借金チャラにしようなんざ言わねぇよな?」
「当たり前です。これはアパートまでご足労頂いたのと1日待ってもらうことに関しての、ほんの感謝の気持ちです。タダで帰すことはしませんよ」
「………」
ニッコリと笑う日向に、狛枝は言い表せない不気味さを感じた。こんな彼は、知らない。別人だ。偽者だ。借金取りはニヤリと唇を吊り上げ、狛枝の腕から手を離す。解放されたという安心はあったものの、それ以上の違和感と不信感で狛枝の心はいっぱいだった。


「狛枝、狛枝…。大丈夫か?」
「……日向、クン」
気がついた時には男達はいなくなっており、アパートの前には日向と狛枝だけが立っていた。今のは何だったのだろう? 正常に働かない頭で狛枝は日向を見た。いつものように優しげな表情で狛枝を憂える日向。以前は安らぎを覚えたその顔も今ではざわざわと胸騒ぎがするだけだ。
「キミは…、一体、何者なの…?」
「…今まで黙ってて悪かった。俺はさっきも言った通り、金融会社の社長だ」
日向はそこで言葉を切り、狛枝の手を取った。本人の口から明確にそれを伝えられた。借金取りに話したことはハッタリなどではなく真実だった。握られた手は温かい。置かれている状況と日向から向けられる視線のギャップに狛枝は眩暈がした。
「ここで話すのも難だし、アパートに戻ろうか」
「うん…」
2人連れ立って、アパートに戻る。カーテンを閉めていない室内にオレンジと紫のグラデーションが差し込んでいた。日向はふらふらと動きの鈍い狛枝を何度も見やりながら、手を引いてリビングまで連れて来てくれた。テーブルに向かうように座らせ、コップに水を注いでそっと置く。狛枝の隣に腰を下ろした日向は、やがてぽつりぽつりと話し始めた。
「俺は大学生だけど、消費者金融をやっている。ほら、前にお前が見た『おひさまローン』。あれだよ」
「あの時の…」
記憶に残る黄色いパンフレット。あれを経営していたのが目の前にいる日向だなんて、今でも信じられない。何とか落ち着こうと狛枝はコップの水を飲んだが、何だか喉に引っ掛かるような感じがして、一口だけ飲み テーブルに戻した。
「パンフレット見られた時は会社を経営してることがバレたのかと思ったけど、そうじゃなかったんだよな。お前はそういうの大嫌いだったから、中々言い出せなかった…」
「ごめんね、日向クン…。ボクの借金を肩代わりしたんだよね? さっき渡してたお金も、絶対返すから…」
「………」
表情を暗くする彼にズキンと狛枝の胸が痛んだ。金融会社を経営しているという事実はショックではあったが、取り立てから狛枝を守ってくれたのは紛れもなく日向だ。借金をしている狛枝のことを考え、彼は必死に正体を隠していた。日向とは友達だし、好意を持っている彼に対して、嫌悪感など湧くはずもない。だがその考えも後に続く日向の一言でバラバラに砕け散った。
「気にするなよ、狛枝。初めからそのつもりだったんだ」
「…ッ!? な、何…? それって……、どういう意味かな?」
初めからそのつもり? 何を言っているのだろう。説明を求めて、狛枝は日向に水を向ける。日向が会社のお金を使って、狛枝を助けてくれた。そうではないのだろうか? 怪訝そうに日向を見やると、彼はニコニコと満面の笑みを浮かべている。何やら狂気染みた感覚を受け取り、狛枝は背筋が凍った。
「初めからってのは言葉通り、親戚の借金からだ。色々と苦労したよ。裏で手を回して、借金背負わせるの。お前が行く先々で遭う事故や災難。あれは偶然じゃない。……だって俺が仕組んでることだからさ。不運でも何でもないんだ」
「え……」
軽く日向が言い放った。借金を背負わせる? 何かの間違いではないか? そう思いたかったが、日向は言葉を訂正することもない。自分はとんでもないことに巻き込まれていたのか? いや、友達である日向がそんなことをするはずがない。ひたひたと近付いてくる絶望の足音から耳を塞ごうとして、狛枝はある出来事に思い当たった。そうだ、彼は知っていたのだ。狛枝が割った美術品が『壺』であることを…。
「………。もしかして、美術館の壺も…?」
「そうだよ。まさかあんなに高いとは思わなかったな。でもお前が絶望してる顔が見れて、すごく興奮したよ。全身の血が騒いで仕方がなかった。あの顔だけで数え切れないくらい抜いたんだ。ははっ…思い出したら、また勃ってきた……」
日向は顔を赤く染め、涎が口の端から零れ落ちる。狛枝の頭の中では、今までの日向との思い出が走馬灯のように蘇っていた。どうしても信じられない。日向はいつだって自分を心配して助けてくれた。狛枝の精神が安定していたのは日向のお陰なのだ。彼がいなかったら、自分はとっくに自決していた。
「嘘だ…。だってあの橋の上で、キミはボクを救ってくれたじゃないか!」
「うん。俺も運命だと思う。あれは本当に偶然だった。たまたま夜に喉が渇いて、コンビニに買い出しに行った時にお前が橋から飛び降りようとしてたから。間に合って良かったよ」
クスクスと楽しそうに日向が笑った。愛情が籠った手付きで狛枝の髪を梳き、耳を擽って、頬を撫でる。絶望の足音は狛枝の背後でピタリと止まった。
「……そんなにボクのこと、嫌いだったの…?」
「それは違うぞ…! 俺は狛枝が、好きなんだ。入学式で初めてお前を見た時の衝撃は今でも覚えてる。綺麗で儚げで…。憂いを帯びた悲しげな表情に一目惚れしたんだ。ずっとずっと、お前のことが好きだった。どうしても手に入れたくて、何日も考えた。狛枝が俺のものになってくれる方法を…」
日向の手は狛枝の存在を確かめるように優しく滑っていった。鎖骨から胸元へと手が這わされ、狛枝はビクンと体を痙攣させる。目の前には息を荒げた日向がいた。生温かい吐息が顔に掛かっている。彼は狛枝の上から覆いかぶさり、すんすんと匂いを嗅いでいる。
「何、言ってるの? キミは……、ボクの、たった1人の友達、なんだ…。何で、」
言いたいことが纏まらず、狛枝は喘いだ。いくら呼吸をしても胸が苦しい。ぶつけたい気持ちが迷走し、頭の中はぐちゃぐちゃだった。自然と涙がポロポロ落ちていく。それを見た日向は「はぁ…」と感慨深げに溜息を漏らし、落ちた雫をねっとりと舐め上げた。
「ひゃっ」
「ああ、可愛いよ…。狛枝…! 俺は借金を全て返済し終わって喜ぶお前が見たいんじゃない。借金に苦しむお前の顔をずっと見ていたいんだ! 絶望に打ちひしがれているお前が、俺は大好きなんだ。辛いのに悲しいのに、涙を堪えて耐えてるんだよな。偉いよな。頑張ってるよな。でも救われない! くくっ…、本当に健気で…、最高だ…! 好きだ、好きだ、好きだよ…狛枝」
日向は狛枝の背中に腕を回して、抱き締めてきた。服から香る洗剤の匂いは狛枝のものと同じで、それは今まで同じ屋根の下で生活してきた何よりの証だ。熱く火照った日向の体から逃げ出そうと、狛枝は力なくもがく。
「あ、ああ……っ、嫌…、嫌だよ…。日向クン、お願い…」
「お前は本当に泣き虫だな。昨日の夜も寝ながら泣いてたよな? 盗聴器付けてるから分かるんだよ。だから借金取りに連れて行かれることにも気付けたんだ」
「止めてぇ、…離して……ッ、うっ…、日向クン…、日向クン…」
「あの夜も今みたいに何度も何度も俺の名前呼んでたよな。嗚咽混じりにごめんって謝ってさ。可哀想過ぎてゾクゾクした。あんなに俺を煽るなんて、狛枝は酷い奴だな。朝お前が出て行ってから枕を舐めたら、しょっぱかったよ。でも美味しかったぞ、狛枝の涙の味…」
耳元で囁き、そこにキスを落とす。顔を上げた日向の瞳は暗く淀んでいる。いつか見た太陽のような輝きはどこへ行ってしまったのだろう。絶望が狛枝の背中をあやすように優しく撫でていた。狛枝が涙を落とす先から日向がペロリとそれを飲む。その所為で狛枝の目元や頬は日向の涎でベトベトになった。
「ずっと今の生活が続けば良かったんだけどな。今日みたいに傷付けるような奴がいるのなら話は別だ。狛枝も嫌だよな? あんな怖い男達に囲まれて、生きた心地しなかっただろ? あの後、あいつらがお前をどうしようとしてたか分かるか? 慰み者にしようとしていたんだ。俺の狛枝を……。絶対に、許せない…!!」
「ひぐ…っ」
温和な日向の顔が一瞬にして、鬼へと変わる。背中をギチリと爪が強く食い込み、その痛みから狛枝は声を引き攣らせた。声を聞いた途端、日向は元の物柔らかな表情に戻り、慌てて手を離してくれた。
「ごめん、狛枝。痛かったよな」
「…ううん、平気」
日向は傷付いた狛枝の背中をやんわりと撫でる。慈しむような眼差しはまるで子供を抱く母親のようだ。狛枝には分からなかった。あの異常な感情をぶつけてきたのにも関わらず、以前のような優しい彼も確かにそこに存在する。背中を撫でながら日向は言葉を繋げた。
「大丈夫だ、安心してくれ。取り立てなんて邪魔なだけだし、全部返済しよう。借金は俺の会社が全部肩代わりしてやるからな。何も心配しなくて良い」
「………」
「…その代わり、俺のものになってくれないか? 狛枝。1000万でお前の体を買いたい」
真剣な顔でぎゅっと手を握られ、狛枝は口を開けなかった。日向は狛枝を金銭的に救うと言っているが、礼を言う筋合いはない。何故ならば借金の原因は日向自身なのだ。彼が色々な工作をして、自分に借金を背負わせた。挙句の果てに1000万で体を買い取るなどと言っている。狂っている。歪んでいる。だけど日向に凛とした表情で見つめられ、狛枝の心は甘く痺れていく。何だか顔が熱くなってきた。頭がボーっとして、反論する気も失せていく。
「俺はあいつらみたいに酷いことはしない。絶対に狛枝を傷付けない。危険がないように部屋の奥に仕舞って、大事に大事に可愛がってやるから。好き、狛枝…好き。愛してる。頼む…、お願いだ。お前がほしい…」
日向は狛枝にかしずいて懇願した。優しさと狂気を秘めた太陽の瞳。憐れで異常な男を狛枝は見下ろした。
彼が決定的に誤解している点が1つある。それは借金を背負わせないと、狛枝が自分の物にならないと思っていることだ。借金に苦しみながらも、日向と過ごした安らかな日々。例え彼が狂っていたとしても、あの日々は嘘ではなかった。日向から離れたくないという気持ちは変わらない。記憶を辿りながら、狛枝は日向をそっと抱き返した。
「狛枝…?」
別に借金なんて必要なかった。彼が自分を好きだと言ってくれた時、狛枝は心が震えるほど嬉しかったのだ。真剣に想いを告げられたら、断る理由もなかっただろう。日向となら友達を超える関係になっても良かった。だがそれは今言っても仕方がないことだ。
「日向クン……、あ…っ」
「狛枝、こまえだ…、狛枝…っ」
ゆっくりと押し倒されて、首筋に顔を埋められる。柔らかく唇で甘噛みされて、狛枝は溜息を漏らした。日向の手がするりと狛枝のTシャツの隙間から侵入する。肌を滑る別の生き物の感覚にゾクゾクと快楽が走り、欲望が鎌首を擡げて起き上がった。
自分に1000万円の価値があるかどうかは分からない。それは日向が決めることだ。これから先2度と彼と友達として笑い合う日は来ないのだろう。それを考えると悲しかったが、もう戻ることは出来ない。狛枝を1000万で買ったということは、あの楽しかった日々を捨てたことと同義だった。
「うっ……ひっ…く…、ん……っ、んンぅ…」
「泣いてるのか? 狛枝。…ああ、良い顔だ。俺なんかに買われて絶望的なんだろ?」
日向に問われたが、狛枝は答えることなく泣き続けた。こんなに傍にいるのに伝わらない。擦れ違ったままの自分と彼。どこで間違ったのかと考えるも、日向から送られる熱烈なキスで何もかもが吹き飛んでいく。


体を重ねた今日この日から、狛枝は日向の奴隷になった。


……
………

「ただいま…」
アパートに帰ってきた日向は薄暗がりに声を投げた。音はしない。もしかして寝ているのだろうか? 首を傾げつつ、靴を脱いでいると廊下の奥からガタンと物音がした。ああ、いるんだ。愛しい奴隷のお出迎えを待とうと、日向はその場で立ち止まった。

カタン……、チャリ…、ペタペタ…、コツコツ…、チャリ、チャリ…、ペタペタ…

金属がぶつかる音に混じり、廊下を踏むような音が聞こえた。大した時間も掛からず、日向の前に四つん這いで這う何かが姿を現す。日向は彼を見て、ふわりと微笑んだ。1000万を掛けて手に入れた大事な奴隷。日向の宝物だ。
白いふわふわとした手触りの良さそうな髪。男であることが不思議であるくらい美しく整った顔立ちだったが、その唇は真っ赤なギャグボールを咥えている。滑らかな乳白色の体は厭らしい造詣の黒いレザーボンテージを纏い、剥き出しになった白い尻からはアナルパールの鮮やかな球がいくつか飛び出ていた。彼は日向の奴隷だ。立って歩くことは許していない。
「ただいま、凪斗…。良い子にしてたか?」
日向の最愛の奴隷である狛枝は、掛けられた言葉に嬉しそうに表情を緩めた。早歩きで廊下を進み、ご主人様の帰りを喜ぶ犬の如く、日向へと抱き着く。当然膝を突いたまま。涎でびちゃびちゃのギャグボールを押し付けてくる狛枝に、日向は待ったを掛けてそれを外してやった。自由になった唇で狛枝は日向のそれに吸いつく。
「ははっ、凪斗。くすぐったいって! バカ…、そんなに舐めるなよ…」
「あっ……ああ…、ん、んっ…ふっ……んちゅ…、はぁ、はぁ…」
ペロペロと舐め回す狛枝を日向は背中を撫でながら受け入れる。間近で見ても、狛枝の体は美しかった。奴隷といえば、主人に酷く当たられて、痩せぎすになっているイメージだ。しかし狛枝は隅々まで手入れがされており、全身に綺麗に肉がついていた。汗臭くもなく、甘いミルクのようなとても良い匂いがする。キスを強請る度に、乳首についた銀色のピアスがキラリと光り、ペニスに装着された貞操帯もゆらゆらと揺れた。
「もう満足したか? 腹減っただろ? ご飯にしような!」
「んぁ…あ……ん、ん……んんっん……はぅ…、あっ…」
唇を戦慄かせながら狛枝は首を振った。日向が首を傾げていると、狛枝は日向の黒いズボンの股間部分に顔を埋める。そして布の上から舌を這わせて、ピチャピチャと舐め始めた。淫猥かつ可愛らしいおねだりにカッと日向の股間が熱くなる。
「……そっか。したいのか。分かったよ、凪斗。俺もお前のこと、いっぱい愛したい…」
「んふぅ…ん……うぁ……っ、あ……、あぁ…ふっ……」
涙で潤んだ灰色の瞳は日向が渇望して堪らない絶望の色に染まっている。優しく瞼にキスを落とすと、日向は寝室へと繋がるドアへと向かう。狛枝も四つん這いのまま日向の後をついてきた。真っ白なベッドシーツに奴隷を縫い止めて、優しい手付きで体を愛撫していく。溜息のような喘ぎを漏らしながら、狛枝はビクビクと体を跳ねさせた。
「んぁああッ、あっ……ひぅ…、アッ、あはぁ…んんッ、んぅ…!」
「可愛い…、凪斗。俺のもの、ずっと…ずぅっと…。俺だけの…。好きだ、好きだよ。凪斗…、ああ、愛してる」
引っ切り無しに続く嬌声に満足し、日向は笑った。狛枝の体を隅から隅まで愛でて、その淫靡な穴を欲望で貫き、絶頂へと導く。切なげに細められたネフライトが日向を見つめている。それだけで十分だった。狛枝は日向しか見ない。日向以外の誰も狛枝に触らない。望んでいた願いは叶った。
「名前、呼んでくれよ。凪斗……。俺の名前、呼んで…」
「はぁっ、はぁ…、アッ…! はじめ…クン……、あんっ……あッああっあああッ!」
狛枝は頼めば日向の名前を呼んでくれる。それはご主人様としての命令だからだ。彼から進んで名前を呼ぶことは、初めて体を繋げた日から1度もなかった。涙を散らしながら必死に喘いでいる狛枝は可愛くて愛しくて大事な存在だ。なのに心にひんやりと迫る虚しさは何なのだろうか。


日向はその正体を知っていた。だが気付かないふりをする。
やりきれない思いに、唇だけが無意識に「狛枝…」と呟いた。

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