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爪を切りましょう。
真っ白い病室の窓からは荒廃した景色が覗いていた。記憶がハッキリしないので確かではなかったが、随分前に同じ病室にいたような気がする。狛枝は「ふぅ」と溜息を吐いた。色のない埃っぽい外の空気もいい加減見飽きた。だけど狛枝の体は新世界プログラムより目覚めてから調子が良くない。元々の虚弱体質もあり、あまり多い時間活動するのは難しいのだ。それでも段々と良くはなってきているらしい。
不思議だ。暇を持て余した狛枝は1人の男の顔を思い浮かべた。無個性な顔立ち、地味な出で立ち。あえて言うならツンとアンテナのように立った髪が特徴か。何故彼の言うことを聞いて、大人しく病院のベッドで寝ているのか自分でも良く分からない。希望と才能。両方に裏切られたのだ。とっくに興味を失って、嫌悪すらしていたはずなのに…。
「狛枝? …あ、起きてたんだな」
「………」
軽いノック音の後、心の中を占めていたその男が病室に入ってくる。日向 創。ただの予備学科、超高校級の絶望。そして…狛枝の元恋人。
「顔色良くなってきたんじゃないか?」
「………」
「もう少ししたらコテージに移れるかもな」
明るく笑う日向から目を逸らすように、窓の方に視線を向ける。狛枝の病室を1番多く訪れるのは日向だ。コロシアイ修学旅行であんなに手酷く扱ったのにも関わらず、現実世界に戻って来てからも日向は狛枝を必要以上に構う。

そう、あの修学旅行。最初の学級裁判で異常性を見せつけてもなお、日向だけは狛枝から距離を取らなかった。ビビっているのを必死に隠しながら話しかけてくる彼はとても滑稽だった。怯える姿がもっと見たくて、2回目の学級裁判が終わった頃に日向を一方的に襲った。抵抗しながらもずぶずぶと深みに嵌って堕ちていく日向。可愛くて可愛くて仕方がなかった。自分が思いつく最大限の方法で彼を誘惑し、可愛がり、愛した。
毎夜のごとく激しい行為に没頭し、本能のままに求め合った。3回目の学級裁判を終えた時には、日向は抵抗らしい抵抗を止めていた。コロシアイという緊迫した生活を強いられていて、ストレスが溜まっていたから。理由を問えば、日向はそう言うだけで。彼は狛枝に対し、好意を口にすることはなかったが、表情や体の反応から何となく自分を好いていてくれていることは分かっていた。爛れた関係と言ってしまえばそれまでだが、それはそれで良かったのかもしれない。
しかしそれも唐突に終わりを告げる。4回目の殺人が起こった後、日向には何の才能もないことが希望ヶ峰学園のファイルから判明したのだ。その瞬間、1度狛枝の世界は崩れ去った。大事に育んで守ってきた想いが跡形もなく壊れる。修学旅行参加者が超高校級の絶望だったことよりも、狛枝は日向の才能がなかったことの方がショックだった。

今はこうして現実世界で目覚めることが出来たが、日向に才能がないことが未だ狛枝の中にしこりとして残っている。彼とどう接して良いか分からない。冷たく突き放せれば簡単だったのに、狛枝には何故か出来なかった。そんな自分が理解不能だった。
「狛枝、狛枝…」
切なげに名前を呼ぶものだから、つい日向の方に視線を向けてしまう。日向は白い歯を見せて、「やっとこっち向いてくれた」と狛枝をじっと見つめた。何だこれは…。すごく居た堪れない気持ちになる。何か誤魔化せるようなことはないか、狛枝が辺りを見回すと、日向の手に見慣れない小さな銀色の何かが握られているのに気付いた。
「それ……、何」
「? ああ、これか? お前起きた時に爪切ったっきりだっただろ? そろそろ伸びてるんじゃないかって思ってさ」
日向が持っていたのは爪切りだった。両サイドにカバーが付いており、切った爪が外に出てこないようになっているタイプのようだ。左手がない狛枝は自分で手の爪を切ることが出来ない。嫌なことは拒絶するつもりだったが、これくらいは許してもいいか。そんなことを考えた。
「嫌か?」
「…別に」
「他人に爪切ってもらうってちょっと怖いよな。浅めに切るようにするから」
「………」
狛枝の右手を取ると、「ちょっとじっとしててくれ」と爪に爪切りを当てる。しばらくしてパチンと軽快な音が病室に響いた。日向が自分の手を握っている。狛枝は強烈にそれを意識していた。自分よりもゴツゴツして男らしい手が、狛枝の指を1本1本丁寧に取り、慎重に爪を切っている。
「お前の手、やっぱり綺麗だな。白くて細くて」
「何…言ってんの」
「俺は好きだよ、お前の手…」
「!?」
ビクリと体が反応したのと小指の爪を切ったのが同時だった。「急に動くと危ないだろ」と子供を叱るように日向は怒る。こちらの気も知らないで、良くもそんな平然と言えるものだ。狛枝がぎゅっと右手を握りながら、日向から逃げるように視線を外した。
好き…。溺れていたのは自分自身かもしれない。狛枝は思う。1人の人間に、これほど心が占められることなんて今までなかった。四六時中彼に想いを馳せ、狂うほどに欲した。彼に才能がないのに、自分は未だに引き摺っている。どうしても抜け出せない。もう1度、日向に正直な気持ちを伝えたら、彼は受け入れてくれるのだろうか。…いや、無理だろう。

爪切りの裏のやすりで切った爪先を整えて、爪の表面も更に目の細かい紙やすりで綺麗に磨く。ツヤツヤと輝くような狛枝の爪を前に、日向は満足したのか目を穏やかに細めた。
「片手だからすぐ終わっちまったな」
「……用は済んだでしょ? 帰りなよ」
「んー…、足出せよ。そっちも切ってやるからさ」
思案した日向は布団に隠れている狛枝の足を指差した。確かに足の爪も伸びている。日向は他意もなく、ただの親切心で言っているのだろう。恋心や性的欲求が見え隠れしている自分とは大違いだ。何だかそれがすごく悔しくて、狛枝はイライラしながらベッドの縁に座り、布団から乱暴に右足を出した。
「やっぱり伸びてるな」
「ちょっと! …くすぐったくしないでくれるかな。予備学科はそんなことも分からないの?」
「ああ、悪い」
日向が足の指先に触れる感覚が堪らない。それを誤魔化すように狛枝は声を荒げる。修学旅行で体を重ねていた頃、日向は良く狛枝の足にキスをしていた。足フェチ、らしい。筋張ってて、面白みのない狛枝の足を愛おしそうに撫でて、熱の籠った表情で指を1本ずつ口に含んで。それだけで狛枝が達してしまったこともある。
日向は片足を立てて、床に跪いた。脳裏に蘇る記憶に背筋をゾクゾクと戦慄させながら、狛枝は彼の左手に自分の足をスッと伸ばす。身に纏っている青い病院着は太ももまで捲れ上がった。足の裏に触れている日向の体温が心地好い。やがて手の時よりも少し硬めの音が爪切りから鳴った。
「………」
俯いている日向の顔は、修学旅行の時より大人びて男っぽくなっていた。でもやっぱり中身は変わらないなと思う。純粋で嘘がつけなくて真っ直ぐで…。正義感が強く、仲間思い。そして何より優しい。狛枝とは正反対だ。だからこそ惹かれるのだろうか。ぼぅっと日向の伏し目がちの表情を見ていると、パッと視線が合わさった。
「っ!」
「狛枝? 右足終わったぞ」
「…あ、うん」
突然だから少し心臓が跳ねた。右足の爪は病室の蛍光灯を反射してキラリと光った。やすりも終わっているのか。自分が日向に見入ってた時間は思ったより長かったらしい。狛枝は黙って左足を差し出した。日向は膝の上に置かれた狛枝の足を真剣に見ながら、爪を切っている。ああ、この顔だ。ベッドの中で、たまにこんな真剣な顔で名前を呼ばれた。

「日向クン…」
小さく呟いた声は彼に届かない。ボクを見て、ボクの声を聞いて…。日向に気付いてほしくて、狛枝は右足をゆっくりと持ち上げる。
「…っこま、」
「………」
無意識だった。右足の指先で日向の顎を捉えて、軽く上を向けさせる。やっと日向と目が合った。満たされた狛枝はフッと日向に微笑みかける。日向は言葉が出ないのか、目を見開いたまま狛枝をポカンと見つめるだけだ。狛枝の右足はそのまま輪郭を滑るように撫で、日向の頬をツンと突っつく。男なのに触ってみると意外と柔らかい。ふにふにとその感触を楽しんでいる時には、日向の眉間に皺が寄っていた。何度か優しく指先で顔に触れてから、半開きになった口元へと動かす。
「こま、えだ…!」
「あ……」
後少しで唇に触れる、というところで狛枝は我に返った。一拍置いて、日向の顔にある右足を慌てて引っ込める。頭の中が真っ白になった。…どうしよう。自分は何てことをしてしまったんだ。折角爪を切ってくれているというのに、その最中に相手の顔を足で触るなんて失礼にも程がある。ブルブルと体を震わせて、涙目になりながらも睨み付けてくる日向に、狛枝は言い知れぬ罪悪感を感じた。
「………」
「………」
病室は沈黙に落ちる。きっと怒っているだろう。日向は拳をぎゅっと握り締めたまま、眉を歪ませている。こればかりは自分が悪い。早く謝らなければ…。しかし狛枝の言葉よりも早く、日向は「狛枝…」といつもより低い声で呼びかけた。冗談で笑い飛ばしてくれるようには思えない真面目な顔だ。ああ、怒られる。遠い昔、両親を困らせてしまい、叱られた時のことを思い出す。狛枝は反射的に首を竦めた。たっぷりと時間を掛けてから、日向が口を開く。



「もう1回やってくれないか」

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さいごの言葉は「また明日」
「こまえだ…?」
「うん。どうしたの? 日向クン」
狛枝はペンを走らせる手を止めると、日向に目をやった。
「眠い…。すごく、ねむいんだ」
「…なら、眠ろうか。大丈夫。ボクがずっと傍にいてあげるよ」
とろんとした眼差しの彼の頭を右手で優しく撫でると、日向は安心した子供のように表情を崩した。自分とは違う少し硬めで短い髪を指で梳いている内に、日向の瞼はゆっくりと落ち、執務室のソファに緩やかに倒れ込む。
後で誰かを呼んで、日向を部屋まで運ばなくては…。狛枝は思案する。狛枝では片手が不自由なので、日向を支えて部屋まで行くことは不可能だ。彼に対して出来ることは何でもしたかったが、仕方のないことだった。
「弐大クンか田中クンが捕まればいいけど…」
自分のコートを彼にかけてやり、しばし傍を離れることを心の中で謝る。狛枝は立ち上がると、執務室から出て行った。



プログラムの世界を抜け出した5人の絶望達は、そのまま島に残ることを決めた。残りの10人を放っておけない。その一心で眠ったままの10人を起こすために様々なことをした。中でも日向の働きようは目を見張るものだった。その甲斐あってか、眠っていた仲間達は1人、また1人と目を覚まし、最後には10人全員が目覚めることに成功したのだ。
予備学科であった日向には何の才能もなかったのだが、起き上がった後の彼はカムクライズルの才能を使うことが出来た。才能を使えたと言っても、完璧ではない。才能を発揮出来る日もあれば、出来ない日もあり、その波は非常に不安定だった。脳の使われていない部分を活性化させて行うその所業は、体にかなりの負担が掛かるようで、数時間の記憶が飛んだり、突然眠りに落ちることが多々あった。
記憶が飛ぶのは不必要な情報を排除するため。そして睡眠は膨大な量の情報を処理する作用があるらしい。どちらも脳の情報量を減らす目的のためなので、それを阻害してはいけない。未来機関の医師はそう言っていた。

「あ、弐大クン。ちょうど良い所に」
休憩室で終里と一緒にいる弐大を見つけ、狛枝はパッと手を振る。気付いた弐大はニカッと笑いながら、狛枝に視線を向けた。
「応ッ! 狛枝か! どうしたんじゃ? ワシに何か用かのぉ!」
「休憩中に申し訳ないんだけど、日向クンを部屋まで運んでくれないかな? その…眠ってしまったみたいなんだ」
「無…ッ!」
その一言で、弐大は瞬時に状況を理解したようだ。日向の記憶が失くなったり、睡眠時間が多いことは周知の事実だった。そのことに文句を言う人間はこの島にはいない。10人は日向のお陰で目覚めることが出来たようなものだからだ。
「委細承知した。それで場所は?」
「1階の執務室だよ。ごめんね、終里さん。ちょっと弐大クンを借りるね」
「別に構わねーぜ。あいつも色々仕事してっからな」
快く見送ってくれた終里に軽く頭を下げ、狛枝と弐大は執務室へ向かう。執務室のドアを開けると、狛枝が立ち去った時と変わらず、日向がソファに横になって眠っていた。深い眠りのようで、弐大が背負っても全く目を覚ます気配がない。
「ありがとう、弐大クン。助かったよ」
「墳ッ、こんなの朝メシ前じゃああ! また何かあったらワシを呼ぶんじゃぞ!」
のっしのっしと帰っていく弐大に手を振り、狛枝は日向の部屋に戻った。奥にあるベッドでは日向が安らかな寝息を立てている。狛枝はフッと笑って、ベッドの傍らに腰掛けた。

元々日向は狛枝の監視役だった。コロシアイ修学旅行で突飛な行為に及んだ狛枝を未来機関は警戒していた。一時は監禁するなどと物騒な案も出たらしいが、それを止めたのが日向だった。自分と行動する代わりに彼の行動を制限しないでほしい。そう懇願し、未来機関は渋々それを受け入れた。日向には感謝している。狛枝は彼の負担を少しでも無くそうと、助手として日向をサポートしていた。
しかし今ではそれも逆になってしまった。記憶を失くして混乱したり、1人の時に眠ってしまわないように日向を見守るのが狛枝の役目だ。狛枝は日向の頬に指を滑らせる。ずっと傍にいる。そう約束したのだ。彼を、愛している。例え才能がなくても、希望は彼自身に存在している。
「日向クン…」
狛枝が名前を呼んでも、日向は目を覚まさない。昏々と眠り続けている。状況を進展させるために、カムクライズルの才能を使うことが多くなり、日に日に睡眠時間は増えていた。
「…ひなた、クン……」
もう1度名前を呼んだ。返事はない。眠っている彼を見ていると、何だか自分も眠くなってくる。「お邪魔します」と狛枝は小さく断って、日向のベッドに潜り込んだ。広くないベッドに2人の男。自然と体が密着する。起きた時にビックリして、怒られたりして…。そんな想像をしながら、狛枝は1人忍び笑いを漏らす。日向の温かい体温に当てられて、狛枝はうとうととまどろみに足を踏み入れた。


……
………

「…っ!」
何の前触れもなく目を覚ますと、辺りは真っ暗だった。暗闇で僅かに光を反射する掛け時計の針を確認する。時刻は9時を回っていた。確か3時過ぎくらいに眠ったはずだ。狛枝はのっそりと体を起こした。
日向は目を覚ましていない。狛枝が寝ている間に覚醒した様子もなさそうだった。周囲を見回すと、ベッドの脇にあるサイドボードに綺麗な字で『お腹が空いたら、食堂へ。 19:16 ソニア』とメモが貼りつけてあった。1度ソニアが覗きに来てくれたようだ。
「日向クン、…起きて」
「………。ん、んん……、こま、え、だ?」
数時間ぶりに聞く彼の声に狛枝は安心する。目を擦りながら、ゆっくりと起き上がった日向はボーっと狛枝の顔を見た。
「ふふっ、まるで七海さんみたい」
「んー…。いま…なんじ、だ?」
「夜の9時だよ。お腹空いたでしょ? 晩ご飯食べに行こう」
こくんと頷いた日向に狛枝は笑いを漏らす。寝惚けている彼は途轍もなく可愛い。ふいに愛しさが込み上げて来て、狛枝は日向の唇に自分の唇を寄せる。
「、ん…」
触れるだけのキスは段々と深くなる。相思相愛の自分達にとってはいつものことだ。寝起きでも体に染みついた行為だからか、日向は絡められた舌に驚くことなく、狛枝のキスに応じる。最後に何度か啄ばむようにしてから、狛枝は唇を離した。日向の唇は狛枝の唾液でべとべとになっていた。恐らく自分のも日向ので濡れているのだろう。
「さぁ、立って」
「…ああ」
手を引いて日向を立たせると、ふらふらと狛枝の後に続く。2人は並んで日向の部屋を後にし、食堂へと向かった。



数日後。日向がいつもより眠いと訴えるので、与えられた仕事を執務室ではなく、部屋ですることになった。日向は他人に迷惑を掛けることを厭う性格だ。先日は寝ている自分を部屋まで運んでもらったことに、何度も弐大にお礼を言っていた。狛枝が「ボクには?」とニコニコと迫っても、「お前はいいの」とそっぽを向かれる。照れ隠しで言っているのは分かっている。日向の顔がほんのりと赤くなっていたから。
「狛枝。1時間寝たいから、後で起こしてくれないか?」
「いいよ」
定期的に睡眠を摂れば、生活に支障はない。仕事中は時間を決めて、眠るようにしている。前は緊急の仕事があったので、朝から夕方まで眠ることが出来なかったのだ。
狛枝は日向がベッドに横になったのを見計らって、ノートを取り出した。今の時刻を記入し、前のページをパラパラと捲る。ノートには日向の生活サイクルが記されていた。未来機関の指示でもあったが、個人的な感情もあり、その内容はかなり細かい。
カムクライズルの才能を使った時間、日向の睡眠時間及びその質。そこから割り出された睡眠の比率。後でパソコンに入力して、未来機関に報告しなければならない。
「………」
データを目で追いながら、狛枝はピクリと眉を顰めた。ここ最近は才能を使わない仕事を増やしたにも関わらず、睡眠時間があまり減っていない。口元に指を添えながら、狛枝はページを捲っていく。やがて全部に目を通した狛枝はパタンとノートを閉じた。


……
………

「さて今日の仕事は終わりだね。ご飯も食べたし、お風呂も入った。後は寝るだけだよ、日向クン」
「………いや、ちょっと待ってくれ。さっき見た書類の、」
「そんなの明日で良いじゃないか。今日はもう休んだ方が良いよ?」
優しく窘めるも日向は頑固にも首を振る。しかしその表情は眠そうで、限界に近いのは狛枝にも分かった。
「じゃあ、仮眠をとろうか。1時間したら、ボクが起こしてあげるから」
「……分かった」
何か言いたそうな顔をしていたが、それを押し切ってベッドまで日向を連れていく。ベッドに入った日向は狛枝の顔をじっと見つめる。「絶対起こせよ」。視線に込められている言葉はこうに違いない。
「日向クン、おやすみ…」
「だから…、俺は、おやすみ、しないって…」
「はいはい、1時間後に起こすんでしょ?」
頬を膨らませた日向に肩まで布団を掛けてやる。ブツブツと文句を言っていた日向だったが、やがて言葉が小さく少なくなっていく。もう数秒もしない内に寝るだろう。その狛枝の予想に違わず、日向はすぐに寝息を立て始めた。
「おやすみなさい…」
眠る日向の額にそっとキスを落とすと、狛枝は立ち上がる。1時間後に起こすなんて、もちろんそんな野暮なことはしない。狛枝は嘘を吐いたのだ。明日の朝、日向には怒られるかもしれないが、これは彼の体を思ってのことなのだ。
部屋の明かりを落とし、ドアノブに手を掛ける。1度振り返ると、薄暗い空間にぼんやりと日向の姿が見えた。
「また明日、ね」
優しく微笑んで、狛枝はドアを閉めた。明日怒られたらどうやって彼を宥めようか。日向に怒られる様を想像して、その喜びに心も体も湧き立つ。「愛してる」。そう言って、日向を戸惑わせるのも良いかもしれない。そうだ、そうしよう。言葉が決まり、クスクスと楽しそうに笑いながら、狛枝は歩を進めた。彼が明日どんな顔をするのか、今から楽しみだった。



―――最期の言葉は「また明日」。

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片恋同盟
「ごめんなさい、左右田さん。今日は田中さんとのお約束があるのです」
困ったように言い淀んだソニアはぺこりと小さく頭を下げる。そして背中を向けてジャバウォック公園の出口へと歩いていった。後に残されたのは、おでかけチケットを差し出すポーズのまま立ち尽くした左右田1人である。金髪碧眼のおとぎ話に出てくるような美しい彼女。初めてソニアと会った時、左右田は心臓を射抜かれたような衝撃を覚えた。こんなに綺麗な人が地球上に存在するものなのかと。
「ソニアさん…」
もう周りなど見えなかった。彼女に振り向いてほしくて、緊張しながらぎこちなく話しかけたり、何かをプレゼントしようと1日中コテージに籠ってメカを弄ったり…。そして今日…勇気を振り絞って、デートに誘ったのだ。しかし結果はご覧の有様。彼女は左右田の誘いを断り、公園の外で待っている田中の元へと行ってしまった。

雨雲のようにどんよりと広がる絶望感。やっぱり自分では彼女に振り向いてもらえないのか…。どうしようもない悲しみが左右田の心を包み込む。もう、諦めてしまおうか。そうすれば期待を裏切られることもないし、もっと楽な気持ちで毎日を過ごすことが出来る。そんな考えが顔を覗かせたその時だった。
「諦めるなよ」
「!?」
聞き覚えのあるハスキーボイスがどこからか聞こえてきた。しかし声の主がどこにいるのか分からない。左右田はあたふたと周囲を探し始める。
「諦めるなよキミ!」
「っ狛枝ぁ…?」
公園に生い茂っている木々の内、1本からスッと出てきた人影に左右田はぽつりと呟いた。狛枝 凪斗。超高校級の幸運にして、希望が大好きなキチガイ野郎。左右田の認識はこれだが、決して間違ってはいないと確信している。狛枝はどこかおかしいのだ。一般常識を兼ね備え、知識も豊富な癖に、希望に対してのみ一般人とは違う感覚を持っている。どちらかというと、左右田にとってあんまり顔を合わせたくない部類の人間だった。
左右田の心の内も知らずに、狛枝はどんどんこっちに近付いてくる。いつもののほほんとした表情とは正反対の思い詰めたような顔だ。彼はピタリと左右田の前で止まると、人差し指をビシッと突き付けた。
「どうしてそこでやめるんだそこで!」
「………え」
「もう少し頑張ってみろよ!」
「いや、でもよぉ…」
「ダメダメダメダメ諦めたら」
「………」
「周りの事思いなよ、応援してくれる人達の事思ってみなって」
応援してくれる人…。そう考えて、頭に思い浮かぶのはソウルフレンドとも言える同級生の顔だった。日向 創。彼だけが左右田の想いを真剣に聞き、「やるだけやってみろ」と笑顔で背中を押してくれたのだ。そして今左右田の前にいる男…。狛枝はもしかして自分を励ましているのだろうか? 意外な出来事に左右田は狛枝を見る。凛々しく眉を吊り上げた狛枝は、ふざけているようには見えない。狛枝は左右田の視線を受け、口を開いた。
「後もうちょっとのところなんだから」
「……狛枝、」
「ボクだってこの炎天下の下、日向クンがトゥルルって頑張ってるんだよ!」
両腕を掻き抱くように抱き締めた狛枝は、顔を赤らめ「はぁぁっ」と興奮気味に身悶えした。日向の名前を口にしただけで、こうなってしまうらしい。それは修学旅行メンバー全員が知っていることだ。狛枝は日向公認のストーカーだった。



「オメーは一体何してんだよ…」
「ボク? もちろん、日向クンを探してるんだよ! さっきデートに誘おうとしたんだけど、いつの間にか公園からいなくなってたんだよね。どこ行っちゃったのかな?」
狛枝はしょんぼりとした表情で、辺りをキョロキョロ見回した。恐らく日向は狛枝を避けるために、逸早くジャバウォック公園を離れたのだろう。ストーカー(しかも男)に付きまとわれたんじゃ、プライベートもゆっくりと出来ない。左右田は日向に心から同情した。
「あはっ、左右田クンはソニアさんに振られちゃったんだよね」
「振られてねーよッ! ただ、…田中との先約があったってだけだ」
「そういうのを振られたって言うんだよ?」
「うっせうっせ!! 何なんだよッ、オレを弄りに来たんなら帰れっつーの!」
本当にウザったい。左右田は小さく舌打ちをする。何故こんな奴と会話をしなければならないのだろう。いつもなら気配を察知して何となく避けていたのだが、ソニアに逃げられて落ち込んでいる所に話しかけられたため、完全に不意打ちだった。
「狛枝…、さっきのは何だよ。アキラメロンとか何とか…」
「それは違うよ…。キミは諦めちゃダメなんだ! 心に希望を抱いて、その夢を叶えるんだよ!」
「……どうしたんだよ。いつになく熱いな、オメー」
「ボクは希望のためなら何でもするよ。左右田クン、今キミの希望は消えかかっていた。ソニアさんを諦めようと、自分の夢を自ら消そうとしていたんだ。ボクはそれを許す訳にはいかない! ソニアさんと仲良くなることで、キミの心にはこれ以上ないくらい大きな希望が生まれるだろう。ボクはその瞬間を見たいんだ!」
「………」
言っていることは意味不明だが、何となく激励しているのは分かった。熱く力説する狛枝が何となくだが良い奴に思えて、左右田は少しだけ表情を柔らかくする。
「何かよぉ…、ありがと、な。オメーからそんなん言われると思ってなかったぜ」
「ボクも相手に振り向いてもらえない時の気持ちは分かってるつもりだから…。ふふっ、ボクもキミも片想い仲間だね」
「…片想い仲間、か」
修学旅行に来て、色んな人間と関わった。15人それぞれが自分にはない様々な何かを持っている。毎日毎日、何かを得ているという実感。新しいことばかり目にし、聞いて、感じて、体にどんどん染み渡っていく。悪くない感覚だった。そして不気味と感じていた狛枝という男から、思わぬエールを受け取り、左右田はムズ痒さから帽子の上から頭を乱暴に掻いた。

ピロリロリン〜♪

「お?」
ポケットから何か音がしたのが聞こえて、慌てて中を探ってみる。小さな黒い電子生徒手帳を開くと、狛枝との希望のカケラを手に入れたとの表示があった。狛枝も自身の電子生徒手帳を確認している。どうやら左右田と同じくカケラを手に入れたらしい。
「左右田クン、お互い頑張ろう…。希望を胸に、夢を叶えよう」
「あ、ああ」
狛枝が夢を叶えるとなると、日向は自動的に悪夢に落とされるのだが、そこは考えないようにした。友人がホモに狙われてしまうのは心苦しいが、狛枝が無邪気に笑って握手してくる所を見ると、止めてやれとはとてもじゃないが言えない。
「ところで左右田クンって、ソニアさんのどこが好きなの?」
「そりゃオメー、全てだよ! あんなに綺麗な女性、今まで見たことねーし! 色白で、こう…守ってあげたいって思えるような女の子らしい感じが正にストライクで、」
「………薄いね」
デレデレとソニアの魅力を語る左右田に、狛枝がバッサリと切って捨てた。腕を組んだ狛枝は先ほどとは打って変わって、呆れたような顔つきで、左右田を剣呑に見下している。さっきの笑顔はどこへやった。あまりの変わりように左右田は言葉を失った。
「何? 結局、見た目なの? どんなソニアさんが好きなの? 笑ってる彼女? 怒ってる彼女? それとも泣いてる彼女?」
「どんなって言われても、…あの人はいつも笑ってるし」
「左右田クンって本当にダメだね。特別でも何でもない笑顔で満足してるの? もっと彼女のこと知りたいって思わないの? 自分にしか見せない、自分にしか話せない、茨に包まれた奥底に眠る、本当の彼女を何故探さないの?」
「………」
狛枝の言葉の刃が左右田に降り注ぐ。もうぐうの音も出なかった。確かに自分はソニアのことを何も知らない。ただ笑顔で挨拶を交わして、運が良ければ世間話をして、ただそれだけだった。
「じゃあ、狛枝は知ってるのかよ。日向のこと」
「当たり前じゃないか。毎日毎日ボクは彼だけを見ているんだ。知らないことなんて、ないよ」
ふふっと妖艶に笑った狛枝に、左右田は言わなければ良かったと後悔した。今の今まで頭から飛んでいたが、狛枝は日向のストーカーだったのだ。一方的に日向を追いかけ回し、プライベートにまで首を突っ込んでいる彼にとって、知らないことは確かにないのだろう。
「まぁ、知ってる知らないは別として…。こう、もっと情熱を感じられるような物言いって出来ないのかな?」
「情熱って、どーいうのだよ?」
「うーん、説明するのは少し難しいかもしれないな。……あ、ボクが日向クンのことを語るからそれ聞いてみてよ。キミもボクくらい熱く燃え滾るべきなんだ!」
ストーカーになれと言っているのだろうか? そうツッコミたかったが、口を挟むと面倒なことになりかねないので、左右田は黙って狛枝の言葉を聞くことにした。恭しく咳払いした狛枝は、声を整えるように小さく唸る。そしてバッと両腕を広げた。挙動不審なその動きに一瞬左右田は後ずさったが、その後に続く言葉に思考がピタッと停止してしまった。


「諸君 ボクは日向クンが好きだ
 諸君 ボクは日向クンが好きだ
 諸君 ボクは日向クンが大好きだ

 希望に満ち溢れた彼が好きだ
 天真爛漫な笑顔の彼が好きだ
 拗ねて怒っている彼が好きだ
 ボロボロ泣いてる彼が好きだ
 哀愁を漂わせてる彼が好きだ
 冷たく蔑んでいる彼が好きだ
 赤い顔で照れてる彼が好きだ
 射殺す勢いで睨む彼が好きだ
 不敵に笑っている彼が好きだ

 砂浜で コテージで
 公園で 図書館で
 映画館で 病院で
 軍事施設で 牧場で
 遺跡で 遊園地で

 この世界に存在しているありとあらゆる日向クンが大好きだ

 朝コテージの外で遭遇して「おはよう」と日向クンに笑顔で言われるのが好きだ
 挙句の果てに名前付きで声を掛けられた時など心が踊る

 友達と談笑しながら楽しくご飯を食べる日向クンを観察するのが好きだ
 掬ったスープを口の端からタラリと垂らしているのを見た時など胸がすくような気持ちだった

 つるはしを振り上げ、猛々しく採集をしている日向クンが好きだ
 シャカリキ状態で堅い石壁を、豪快に何度も何度も刺突している様など感動すら覚える

 疲労感に苛まれた男らしい表情で、滴り落ちる汗をタオルで拭い去る様などはもうたまらない
 汗を拭く物がなくて、制服の腹部を引っ張り上げるのも、隠された腹筋が垣間見えて最高だ

 採集が終わり、コテージのシャワールームで体を清めようと、服を次々に脱いでいく時など絶頂すら覚える

 日向クンに散々な言葉で罵倒され、滅茶苦茶にボコられるのが好きだ
 気持ちを分かってもらえず、ボクの愛情表現に嫌悪感を示される様はとてもとても悲しいものだ

 握り締めた拳で頬を思いっ切り殴られるのが好きだ
 日向クンに踏まれ、ゴミムシの様に地べたを這い蹲るのは屈辱と快感の極みだ

 諸君 ボクは日向クンを希望の様な日向クンを望んでいる
 諸君 ボクと肩を並べる恋敵諸君
 キミ達は一体何を望んでいる?

 更なる日向クンを望むか?
 朝日のように輝く希望のような日向クンを望むか?
 闇夜のように燻る絶望のような日向クンを望むか?

 『日向クン! 日向クン! 日向クン!』(裏声)

 よろしい ならば略奪だ」

灰色の瞳は暗い光を宿らせて、妖しく淀んでいる。ひくりと吊りあげた口角は狂気的で、いつもの左右田なら一目散に逃げ出していただろう。狛枝がぐりんと大きく体を傾けて振り返る。その先には日向と小泉が並んで歩いていた。デートの帰りなのだろう。にこやかに話をしている2人を見た狛枝は、何を思ったのかいきなり走り出した。
「ひーなーたークゥーン!!」
語尾にハートマークが付いているのかと思うくらい甘い猫撫で声。ダッシュで勢いをつけた狛枝はそのまま日向に向かって飛び込んでいく。
「狛枝!?」
ハッとした日向が狛枝に呼び掛ける。狛枝の動きに大きく目を見開いて、歩みを止めてしまった。そこからは一瞬だった。小泉を背中に庇うようにして守った日向は、飛びかかってきた狛枝に強烈なビンタを食らわせる。バシッと鋭い音がして、狛枝は横へと吹っ飛んだ。
「………うわぁ」
遠くから見ていた左右田は小さく声を漏らす。派手に地面へと落ち、軽くバウンドした狛枝は倒れたまま動かない。まさかどこかぶつけたのではないか。心配そうに見守っていると、彼は日向の足へとよろよろと腕を伸ばす。
「日向、クン…!」
「狛枝の変態ッ! ってか危ないだろ! 小泉が怪我したらどうするんだよ!」
「ボクは…、キミが…」
「おい、狛枝。大丈夫か? 鼻血出てるぞ。…ちょ、足掴むなって! 離せよ!!」
引き攣ったような声を上げ、日向は狛枝から逃れようと足を振り上げる。ゲシゲシと日向に足蹴にされながらも狛枝は諦めなかった。そう、決して。涎を垂らしながら、恍惚の表情で日向に縋りついている。
その光景を見ていた左右田は数分前の自分を思い出す。ソニアにデートを断られて、好きになるのをやめようとした自分。狛枝は日向への熱い思いを語っていた。その言葉に偽りはなかった。彼は日向に嫌がられようと、殴られようと、足蹴にされようと…日向を好きでい続けているのだ。ホモだけど。
「オメーから学ぶことがあるなんてよ…。へへっ、ありがとな。狛枝」
距離が離れているから聞こえないが、諦めないことを教えてくれた狛枝に左右田は感謝の言葉を口にする。今日は1日休日だ。後もう1回ソニアをデートに誘うチャンスがある。左右田は走り出した。ソニアを探して、それから今度こそきっと! 手にしたおでかけチケットを握り締めると、左右田は飛び跳ねるように島を駆けて行った。



1週間後、左右田はソニアにストーカー認定された。

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超高校級の男子高校生の日常
オレンジ色のグラデーションがかった夕空に紫色の雲がいくつか浮かんでいる。川に掛かった橋の向こう、地平線ギリギリの位置には楕円に歪んだ太陽が見えた。川沿いの歩道を、白い髪をふわふわと遊ばせた長身の少年が歩いている。つまらなそうな表情を浮かべ、川に反射する光を見ながら。ふと前方から強く吹いてきた風が木の葉を運んできて、彼は思わず目を閉じた。
「…っ!」
幸いにも目にゴミは入らなかったようだ。白い少年はそっと息を吐く。その目を開けた先に、1人の少年が河原に寝そべっているのが見えた。高校生らしく、学校の制服を身に纏っている。傍らには学生カバンが置かれ、横になった彼はどうやら文庫本を開いているようだ。河原の青々とした草は夕日に照らされ、暖かい色に染まっている。風が吹く度に草は綺麗に波立ち、その中央にいる少年を引き立たせた。風に吹かれてそよそよとなびく彼の短い黒髪に、白い髪の少年は何か感じることでもあったのかピタリと足を止めたのだった。



仰向けに寝っ転がった日向は後悔していた。中途半端な時間も出来たし、家に真っ直ぐ帰るのもどうかと思って、河原で読書をすることにしたのだが…。
(風が強過ぎて、全く読めないな)
横殴りの風が吹くと、文庫本は簡単にめくれ上がってしまう。バサバサと乾いた紙の音が鳴っている。文字を追おうにも風が強く、さっきから大分時間が経過しているのに1ページも進んでいないような状況だった。
(失敗した…。河原で本なんか読むんじゃなかった)
日向は本を閉じると、溜息混じりに上体を起こす。さてこれからどうしようか。考えを巡らそうとした所で背後から誰かの足音が聞こえ、日向は特に考えなしにその方向に注目した。
「ん?」
その足音は日向の左斜め後ろで止まった。視界の端に捉えたかの人物は、深緑色のコートを風にはためかせた同年代くらいの背の高い少年だった。まず目に入ったのはうねうねと広がった白い髪。そしてその顔は中性的な美形で恐ろしいまでに整っていた。もちろん日向の知り合いではない。日向との距離はおよそ2mほど。そこから近付くでもなく、遠ざかるでもなく彼はその場にぽつんと立ち尽くしていた。
「……………」
「……………」
風が流れる音だけが2人の間に聴こえた。日向は少年から視線を外し、遠く川の方を眺めている。少年の白い髪は風に吹かれて、波を描くように揺れていた。穏やかな雰囲気を身に纏っているが、無表情なせいか、感情は読み取れない。
「……………」
「……………」
白い少年はその場に腰を下ろした。草が踏まれる音が日向の耳にも入ってくる。少年は何も言わず、日向に視線を送ることなく、真っ直ぐに前を見ていた。再び風が吹き、木の葉が舞っていく。歩道を歩く人の気配も、夕焼けに向かって飛んでいくカラスも、静かに流れる川のせせらぎも何だか音が遠い。日向も少年も口を閉ざしたまま、じっと動かなかった。
「……………」
「……………」
気配はする。彼はまだそこにいる。左後ろから感じる存在感に日向は段々と落ち着かなくなってきた。
(き、気不味い……! 何、何だ…、誰だ!? 何で無言なんだ?)
(この広い河原で、俺の脇にわざわざ座っておいて…。見たこともない顔だし、知り合いじゃないのは確かだ)
(俺に用があるのか? …何の用か分からないが、やっぱり俺から声を掛ける…、べきなのか?)
(いや、でも何で? とにかく気の利いたセリフなんて、俺言えないし)
どうしてもアクションを起こせない。地面に体を縫い止められたように微塵も動けなかった。日向の苦悩する思いとは裏腹に、太陽は穏やかな光で辺りを優しく照らしていた。
「……………」
「……………」
(『夕焼けが綺麗だな』とか…。ダメだダメだダメだ! そんなありきたりなセリフ、この状況に合わないだろ)
(そうだ、この状況。夕日に染まる河原で、孤独に本を読む少年と出会う…。考えようによっては幻想的なシチュエーションかもしれない)
(多分こいつ、ロマンチックで非現実的なボーイミーツボーイを期待しているんじゃ…?)
日向はチラリと視線を後ろの少年に向ける。彼は自分自身を掻き抱くようなポーズで熱い吐息を零し、ブルブルと体を震わせていた。どうやら日向の予感は的中しているようだった。日向は「ふぅ」と息を吐くと、オレンジ色の夕焼け空を見上げた。
(となると、彼を打ち抜く弾丸のような一言を言わないとな…)
(大体俺は暇を潰すために河原に来ただけであって、何の才能もないごくごく普通の予備学科生なんだけど)
少年はそわそわと体を揺らし始めた。ハァハァと怪しげな息遣いが聞こえてくる。
(まぁいいか。とにかく彼の期待を裏切る訳にはいかない! 飛ばすぞ、すかした言弾を…!)
大きく深呼吸して、日向は少しだけ体勢を変えた。体の痺れがなくなって万全の態勢になった所で、グッと顔を上げ、真正面を見る。
「今日は風が騒がしいな」
(……ああ、何か死にたくなってきた)
(何だこれ。恥ずかしいとかそういうんじゃなく、何かこう…絶望的というか、死にたい)
(やってしまったか…?)
白髪の少年がどう反応を返すか…。その場を立ち去るのか、何かを語りかけてくるのか。気になった日向は恐る恐る視線を後ろに向けた。少年は深緑色のコートの袖を握り締め、ガタガタと震えている。額からは心配になるほどの量の汗が流れ、灰色の瞳はカッと見開いていた。その姿は何だか興奮しているように見える。
(ちょっと精神が崩壊しかけたが、俺は言ったぞ…! さぁ、どう返す!!)
少年はスッと立ち上がった。足が長くモデルのような完成されたスタイルに、日向は少し羨ましくなる。上に乗っている顔さえ綺麗なのだから、さぞや女の子がわんさか寄ってくるに違いない。でもその中身が非常に残念なのは、初対面の日向でも分かった。
彼はうなじからスッと髪を掬い上げた。ふわっとした柔らかそうな癖っ毛がゆっくりと揺れている。
「でも少し、この風…泣いてるよ」
(えええええええええっ! 何言ってるんだこいつ! いや、俺が言える立場じゃないんだけどな)
少年はサクサクと草を踏み、日向に近付く。彼の気配に日向も微動だにせず、前を向いたまま様子を窺っていた。
(すまない、勘弁してくれ…! 俺にはもう、無理なんだ…。限界かもしれない)
(正直、後ろに座られた時は少し嬉しかった。すごく綺麗で、浮世離れした美形だったし)
(でも俺には空想力というやつがないようだ。この空間には耐えられない)
日向の手には携帯があった。先ほどカバンから取り出し、メールを送ったのだ。きっと彼らなら駆け付けてくれるだろう。
(既に呼ばせてもらっている。2人の救助隊をな! 頼む、俺を助けてくれ…!)
祈るように日向は携帯を握り締めた。その思いが通じたのか、想像したよりも早く1人目の仲間が日向の元に姿を現した。眠気まなこで鼻ちょうちんを膨らませた超高校級のゲーマー・七海 千秋だ。ブレザーのスカートがひらりと舞うが、決してパンツは見えない。七海は歩道から日向に呼び掛けた。
「急ぐよ、日向くん。どうやら風が町に良くないモノを運んできちゃったみたい」
(何で今日に限ってテンションが高いんだ、七海ぃいいい!!)
満足気にドヤァと決める七海に日向は頭を抱えた。背後の少年はゾクゾクと体を戦慄させ、口の端からボタボタと涎を垂らし始めた。ニヤッと不気味に吊り上がる口角に日向は悪寒が走った。
(嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ! 俺を現実に返してくれ!!)
顔面蒼白のまま日向はふらりと立ち上がった。最早精神はズタボロだった。早くこの場から逃げ出したい。そんな思いだけが胸の内を占める。
(河原で1人たそがれる少年に声を掛けたいという願望は叶っただろう?)
(俺は帰るんだ…、この空間から。現実的な一言でもってな)
踵を返し、日向は少年の横を通り過ぎる。瞳を潤ませた少年は切なげな表情で日向を見つめた。その時、ふと日向の口をついてある言葉が零れ落ちた。
「急ごう。風が止む前に」
(何を言ってるんだ、俺は!!)
少年は日向の言葉に嬉々として振り向く。希望に満ちた笑顔が向けられるのが分かって、日向はぎゅっと目を瞑った。もうこのまま行ける所まで行くしかない。彼とはきっと2度と会うことがないのだから。河原も後少しで上りきるという所で、2人目の仲間が日向を呼び止める。
「待て!」
黄色い派手な繋ぎにこれまた派手なピンク色の髪。外見とは裏腹にチキンハートを持った超高校級のメカニック・左右田 和一。やけに真剣な顔つきでこちらを見据えている。やがて左右田は改まった様子で口を開いた。
「おい、やべーって! 日向! そこのコンビニ、ポテト半額だってよ!! おい、行こーぜ!!!」
(空気読めよ、お前ー!!)
その時、日向の背後から目にも留まらぬ速さで深緑色の残像が走った。一瞬過ぎる出来事。白髪の少年は軽やかな動きで、あっという間に左右田の隣に着地する。そして彼は強烈な右ストレートでもって、左右田を豪快に吹き飛ばしたのであった。
(…いや、読んでるけど)
七海が小首を傾げて、「帰ろうか」と日向に呼び掛ける。日向は黙ってそれに頷き、左右田に馬乗りになる少年を止めることなく、七海と家路に着くことにしたのだった。

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The Battle of Diamond dust
折角の日曜日なんだ。もうちょっと寝かせてくれ。…この音って目覚まし時計? ケータイ? どっちだっけ。

♪〜♪♪♪〜♪〜
聞いたことある。これ左右田が好きだって言ってたアーティストの着うた…。着うた? 枕元に置いてあるケータイを手に取り開くと、くっきりとした文字で『左右田』と表示されていた。時間は……。おいおい、まだ7時だぞ!?
「…もしもし」
『おっす、日向ー! もしかして寝てたか?』
「ったりまえだ、このアホ。今何時だと…、思ってんだ…! ふぁ…」
欠伸を噛み殺しながら、ベッドに潜り込む。めちゃくちゃ寒い。雨戸は閉めたはずなのに。眠くてケータイを支えている腕もパタリとベッドに倒れそうになる。このまままた寝ちまいそうだ…。ってか何のために朝っぱらから電話してきたんだ。
『雪だよ、雪! 夜の内にメッチャ積もってんぜぇ〜! 9時に学園前公園に集合な!』
「はぁ?」
『狛枝とカムクラ連れてこいよ! そんじゃまた後でな』
プチッと通話が切れて、俺はそれを枕元に力なく置いた。最初から最後までハイテンションかよ、あいつ。俺の横で狛枝が身じろいだのか、ベッドが軋む。うつらうつらする俺の脇からするりと手が伸び、髪を優しく梳いてきた。顎の輪郭を撫で、頬に手を添えられて。
「ん…」
自然な動きで唇を合わせる。舌を絡めて、チュッと音を立てる。俺も狛枝も裸。何があったかとか一目瞭然。
最近狛枝は泊まりに来ることが多い。冬休みだから学校もないし、あんまり会えないかもと思っていたのに、結局休みに入ってから毎日顔を合わせている。
覆い被さるようにして、狛枝が俺の首筋に顔を埋める。その弾みで掛けていた布団が彼の肩から落ちていった。狛枝の生温かい吐息にゾクゾクと感じていると、奴は耳元に唇を寄せて囁いてきた。
「…今の電話、左右田クンかな? 何だって?」
「9時に公園集合だってさ。雪降ったからはしゃいでた。ってかお前寒くないのか?」
狛枝は「あはっ、寒いね」と笑って、ベッドから降りる。真っ暗闇に狛枝の体の陰影だけが浮かび上がる。薄く筋肉が付いた流れるような白い背中のライン。………。…ヤバい、見惚れてた。
そういや、イズルも誘えって言ってたな。もうそろそろ起きる頃だし、「出掛けるぞ」と言えば、察しの良いあいつなら何をやるかすぐに分かるだろう。そう考えながら、俺もベッドを出た。
軽くシャワーで汗を流してから、イズルの部屋をノックする。もう起きていたらしく、彼はベッドに腰掛けて本を読んでいた。俺が部屋に入ってきたのを察知し、紅玉の瞳をこちらに向けてくる。
「おはようございます、創」
「おはよう、イズル。あのさ、さっき左右田から電話が掛かってきて」
「ええ、雪遊びですね。あなたが行くのなら行きますよ」
すっと目を閉じたイズルは本をサイドボードに乗せた。ベッドから降りると、彼の長い髪がさらりと動きに合わせて揺れる。彼はチラリと俺を見やると「それより」と口火を切った。
「創は声が大きいです」
「? え? …あ、うん」
俺の声が、大きい? 何ともコメントしづらいことを言われてしまった。質問の意図が汲み取れず、曖昧な表情をしているとイズルは小さく溜息を吐いた。
「気持ちが良いのは分かりますが、僕が同じ家にいることを忘れないで下さい…」
「うん。………。……? ………っ!! あ…、うぅ…」
イズルの言葉を噛み砕いてその意味を探っていると、とんでもない答えに行きついてしまった。俺は思わず頭を抱えた。
「あんな男に身を委ねるなど、本当に理解しかねますね」
イズルは擦れ違いざまに素っ気なく呟いて、部屋を出て行った。俺も遅れてフラフラとそれに続く。洗面所で克ち合った狛枝が「日向クン!」と嬉しそうな顔で呼び掛けてきたけど、俺は視線を合わせることなく彼の腹にパンチを食らわせたのだった。すまん、狛枝。…完全に八つ当たりだ。
それは置いといて、今日の招集だ! 左右田は前のはねつきでボロ負けしたから、リベンジしたいんだろう。俺だっていつもなら雪はテンションが上がる。でも寒いし、眠いし、体全体が気だるいし。気力は50%。



「はい、グーパージャス!」
「おお。綺麗に別れたな。どうだ? 雪玉これで足りっか?」
大量の雪、雪、雪! 公園には俺達以外にも結構人が居て、思い思いの雪遊びをしている。やっと頭も冴えてきた俺はワクワクしながら、自分の雪玉を確認した。ちなみに俺・狛枝・イズルVS九頭龍・左右田・田中だ。
「これぞ男と男の勝負だ! 熱く燃えるぜオレ!! 今度は負けないぜ?」
「まぁ、まずは誰ぶちのめすか決めねぇとな。田中は誰が良い?」
「…ふむ。あえて挑むとするならば…、日向だな。制圧せし氷の覇王たる俺様と契りを交わした奴を、この純白のダイヤモンドダストスフィアで屈服させるのもまた面白い。くっくっくっ…」
「おい! 田中! 俺はお前をそんな風に育てた覚えないぞ! 頼むから狙うな!」
「…日向クン、キミ育ててないよね?」
「一応狙うのは顔以外にして下さいね。雪玉に石は入れないように…」
みんな好き勝手言ってる。相手チームの最初の狙いはどうやら俺らしい。目を光らせながら、九頭龍と田中がこっちを見ている。マジかよ…。スタートは公平にイズルが担当。スッと俺の隣に狛枝が寄ってきた。
「キミは、ボクが守るから」
俺が言葉を発する前にイズルから「スタート!」と声が掛かり、雪玉が空中を舞う。雪はとても冷たいのですとイズルに言われ、ダウンジャケットにズボンを重ね着しているせいで動きにくい。間一髪の所で雪玉を避け、こっちも投げ返す。
「創、避けて下さい!」
「!!?」
イズルの慌てた声にそっちを向くと、雪玉が目の前にヒュッと飛んできていた。もう避けられない! ぶつかるであろう衝撃に備えて、咄嗟にギュッと目を潰る。………? だけど、顔に雪が飛び散ることはなかった。
「顔は禁止って言いましたよね? 左右田 和一…!」
感情が籠っていないようで、僅かに怒っているイズルの声。目を開けると、そこにはコートを着た狛枝の背中があった。恐る恐る前に回ると、狛枝の首らへんには白い雪の粉がパラパラと付いていた。俺を見てフッと柔らかく笑う狛枝に、ムズ痒い気持ちになって つい目を背けてしまう。
「日向、悪ぃ悪ぃ〜。コントロールきかなくって、ぶへっ」
「おい、狛枝! 顔はダメだってイズルも言ってただろ?」
左右田の顔に雪玉をヒットさせた狛枝。俺は慌てて狛枝の腕を掴むが、本気で怒っているのか眉間に皺が寄っている。見下すような暗い灰色の瞳に、俺は一瞬ビビった。
「ボクもノーコンだからね。…もう不可抗力なら、しょうがないんじゃない? 顔でも何でも」
「…それもそうですね。創は僕達で守ればいいのですし」
「ペッペッ! 雪が口に入っちまった。冷たいっでもウマイッ。狛枝っ、よくもやったなー!!」
ギャンギャン吠える左右田に、イズルは黙って雪玉を投げる。見事、顔のド真ん中に命中した。
「フッ…。…なっ!?」
「へっ、油断してっと痛い目見るぜ?」
余裕の笑みを浮かべていたイズルに、今度は九頭龍が雪玉を当てる。勝ち負けも分からない。ただの総力戦。昼過ぎまで雪合戦をした結果、俺の気力は0%になった。

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