// Mirai //

50.出会いの話 : 9/5
「これより今年の体育祭について、話を進めていきたいと思います。ご意見のある方は積極的にお願いします。では…」
学年主任の言葉の後に、ベテランの体育教師がスタスタと前に出てくる。そして彼が音頭を取って、会議が始まった。夏の暑さは相も変わらず残っているが、会議室は外気の影響を受けず丁度良い温度だ。ボクは斜め向かいに座っている日向クンをそれとなく観察した。彼はボクの視線に気付いていないようで会議の内容を真剣に聞き、手元のペンを動かしている。
体育教師だから体育祭では中心となる存在だろうし、きっちり取り組みたいのは分かる。だけど少しくらい恋人の視線に気付いてくれても良いんじゃないかな。いつまでもこっちを見てくれない日向クンに、ボクは諦めて視線を逸らしたのだった。


……
………

日向クンと初めて会話をしたのは2年前の体育祭だ。ボクがこの学校に来たのがその年の夏休み明けで、体育祭は赴任してきての初めてのイベントだった。以前の学校でもそれなりに教師としてやっていたが、担任も持たない新米教師だったため、競技や審判に駆り出されることもあまりなかった。確か救護班の手伝いという名目で、エアコンの効いた保健室から生徒達の駆け回る姿を遠くから見ていただけだったと思う。
ところが今の学校では教員が足りないということで、色々な場所に走らされた。生徒の先導や号令、競技に使う小道具の管理やら…面倒なことが山積みでボクはへばっていた。肩が背中が腰がみしみしと鬱蒼とした痛みを訴える。
『大丈夫ですか? 水、飲みます?』
『あぁ…、うん。ありがと』
テントのベンチでぐったりしているボクの上から声が降ってきた。疲れで目が開かなかったので誰かは分からなかったが、同僚の誰かが水の入ったペットボトルを差し出してくれている。ボクは朦朧とする意識の中、それを受け取るとゴクゴクと一気に飲み干してしまった。相手の教師はポカンとしている。遅れて『しまった』と思った。敬語を使うのをすっかり忘れた…。
ボクは騒がれるのが嫌いで、あまり周囲とコミュニケーションを取らないようにしている。…そういうとまだ聞こえは良いけど、要するにボクは他人と腹を割って会話することが苦手で、集団行動から外れる天邪鬼タイプだった。
不味いとは思ったが、無視する訳にもいかずボクは顔を上げる。その時になってボクは初めて相手の姿を捉えたんだ。良く言えば"爽やかなスポーツマン"、悪く言えば"野性児"ってとこかな? 顔は平均より少し整った程度で、インパクトを受けるような特徴は1つもなく、何とも説明がし辛い。だけど焦げ茶色の短髪はアンテナのようなクセ毛が頭のてっぺんからピンと立っていて、それが何かと目に着いた。体育祭なので教師はほぼスポーツウェアを身に纏っているのだが、彼だけは秋にも関わらず半袖だった。良く見ると薄ら汗を掻いている。動き回ってたのかな?
『良い飲みっぷりだな! …狛枝先生ってクールなイメージだったから、何か意外だ』
『……その、すい、ません。水、ありがとうございます』
にこやかに話し掛けてくる教師に、ボクは軽く頭を下げた。もうそこで会話を切りたかったのに、彼は手持ちの仕事がなく暇なのか尚もボクに話し掛けてきた。
『敬語なんて使わなくて良いよ。確か狛枝先生、俺と同い年だったよな?』
『はぁ…』
うわ…、嫌なタイプだ。関わりたくない人種。騒がしくてデリカシーのないお節介な男…。っていうかボク…キミの名前、覚えてないんだけど。転任した時に一通りは自己紹介はしたけど、担当学年は違うし全く関わらないからね。忘れちゃったよ。怪訝そうなボクの視線を物ともせずに、彼は話を繋げる素振りを見せた。『もしかしたら人違い…。いや、狛枝なんていう名字中々ないもんな』なんて、腕を組んで難しい顔でぶつぶつ呟いている。うーん、その鈍さはちょっとありえないよね。
『な、何…?』
『狛枝先生って、希望ヶ峰高校の出身じゃないか?』
『……えっ』
彼が口にした言葉にボクの体がピクリと反応した。自己紹介で出身大学は言ったが、高校の話はしていない。どうして彼が知っているのだろう? 何だか嫌な予感がするが、『どうしてそれを?』と聞いてみた。
『俺も高校あそこだったんだ。普通科だけど。狛枝先生は特進クラス、だよな?』
『ボクのこと、知ってる…んですか?』
『自覚なかったのか? 高校の頃の狛枝先生、すごい目立ってたから…普通科でも有名だったぞ』
普通科なんて特進クラスから見たらその他大勢の部類だ。教室棟が別だったし、授業が被ることもなかったから普通科で面識のある人間なんて1人もいない。それにしても有名って何? どう有名だったんだ? 気にはなったけど、ボクのことだからきっと良い意味じゃないはずだ。だけどバカ正直そうに見える彼が人の悪口を言うとは思えない。じっと顔を見やると、相手はハッと息を飲んで、気不味そうに視線を逸らした。少し顔が赤い。
『べ、別に…変な意味じゃない。髪の色とか見た目とかが珍しいってだけで、普通科は特進クラスに憧れてる奴多かったから。その…俺も、……いや、何でもない。悪かった』
『………』
『実はさ、前から狛枝先生と話してみたくて様子窺ってたんだ。迷惑じゃなかったら、また話したい』
『……ボクは』
『左右田とか九頭龍、覚えてるだろ? 俺、今も連絡取ってるんだ。時間出来たら、あいつらと飲みに行こう。!? あ、今行きます!!』
そこで一方的に会話は切られた。小走りに走ってきた女性教師が『日向先生!』と彼を大声で呼んだからだ。日向…、ひなた…。それが彼の名前なのか。軽く手を上げてから、日向先生は校庭へと駆けて行ってしまった。
『あの高校の出身なんだ…』
水が僅かに残ったペットボトルを握り締め、ボクはぽつりと呟いた。彼の口から出た左右田クンも九頭龍クンももちろん覚えている。特進は1つしかクラスがなかったし、個性的なメンバーしか在籍していなかったからだ。でもボクはその誰とも友達ではなかった。透明なヴェールの掛かった向こう側のみんなを、ただひっそりと眺めているだけ。たまにお節介な子もいたけどね。


『いやぁ〜狛枝くん、悪いねぇ。丁度、ぎっくり腰になってしまってねぇ。済まないが、代わりに出て貰えないだろうかねぇ』
全然済まないと思っていないんだろう、教頭め…。そう脳内で紡ぎながらも、ボクは『分かりました』と感情の籠らない返事をした。教員参加の競技が最後のプログラムに組まれている。何てことはない。教員が2グループに分かれて綱引きをするだけのことだ。ボクは教頭の代役として、第2チームに参加することになった。…ボク、体育嫌いなのに。
『狛枝先生! 元気になったか?』
校庭の中央に赴くと、ニカッと笑うのは先ほどの教師。年はボクと同じはずなのに、この体格差は一体何だろう。体の厚みが全然違うのだ。ああ、良く分からないけど何故か腹が立つ。彼の問いかけを無視して、白線の後ろの待機場所に居ると、彼から軍手を渡された。受け取ってから彼の顔色を窺うと、手に嵌めるようにジェスチャーされた。
『綱引きの荒縄って擦れると痛いからな。狛枝先生の手、綺麗だし。素手じゃ良くないだろ?』
余計な一言を言われた気がするが、事を荒立ててもしょうがないと思ったボクは素直に両手に嵌めた。周りを見るとチラホラいる女性教員はみんな軍手を嵌めている。
『もしかして…、軍手嵌めるのがルールなんですか?』
『いや? 何となくした方が良いかなって思った人だけだ』
『……ボクは、女じゃないですよ』
『女とか男とか関係ない。手、痛いの嫌だろ?』
彼の言うことは正しいが、男性教員で軍手を装着しているのは、ボクしかいない。反論しようとしたところでホイッスルが鳴った。位置に付かなければ…。会話を切り上げて、地面に置かれている縄に手を添える。軍手をしているお陰で、ささくれた縄の感触は大分緩和されていた。
『綱引きは大体分かるよな。前後の人と腕を交差させて綱を握ること。腰を据えて引くこと。足を踏ん張ること。簡単だろ?』
『それは分かってます…けど、』
問題はこんな軍手を付けてしまって、力が入るのかということ。軍手を見つめるボクに気付いたのか、日向先生は肩をポンポンと軽く叩いてこう言った。
『狛枝先生の分くらい、俺が引っ張ってやるから安心しろよ』
『………』
何だよ、今の…。胸がドキッとして、ボクは彼から慌てて目を逸らす。平々凡々なルックスで高校の同級生とはいえども興味の欠片もない普通科出身。鈍感で人の心を察するのは不得手な性格。嫌いなタイプだ。嫌いな、タイプなのに…。不覚にもカッコイイと思ってしまった。ニヤリと笑った男臭い笑顔。余裕のある身のこなし。彼と腕を交差させて、ボクは綱を握った。結果、ボク達のチームが勝利した。


『あ、いたた…! あぅう〜…』
『手は痛くなくても全身筋肉痛じゃあな。どうしようもないなー』
体育祭が閉会式を迎えた後、ボクは保健室のベッドで整体師にされるように、日向先生に肩から腕を曲げられた。この男、フィジカル面では何でも出来るというのか。『大学時代の友達直伝だ』と胸を張る彼に、ボクは悔しいながらもされるがまま体を屈折させられた。
『筋肉痛なんて、ボク…初めて、です』
『本当か? お前、どんな青春過ごしてきたんだよ』
『…体育が、こんなに、楽しい思ったのも……初めて』
『ふぅん…。そっか、そりゃ良かった。じゃあこれからもよろしくな、狛枝先生』
満面の笑みで握手を促される。これが、体育教師――日向 創との最初の接点だった。


……
………

今だから笑って言えるけど、日向クンの最初の印象はあんまり良くなかったんだよね。でも関わっていく内にどんどん彼に心が絆されていった。今まで進んで誰かと交友関係を深めようとは考えなかったし、自分以外の人間のことを詳しく知りたいとも思わなかった。味わったことのない心地好さに自分でも驚くほど惹かれて、もう今ではどうしようもないくらい日向クンが好き。
「役割分担は以上でよろしいでしょうか? では次に…」
ボクがぼーっとしている間に会議は次のセクションに移っていた。視界の端で琥珀色が動いたような気がして顔を上げると、案の定日向クンがこっちを見ている。そしてふっと目元だけで微笑んだ。
「………っ!」
胸がぎゅっと締め付けられて、つい見惚れてしまう。ボクは喉の奥からせり上がってくる吐息を必死に飲み下した。笑顔を向けただけでボクをこんなに気持ちにさせるなんて、キミって罪深い存在だよね。2年前の体育祭での出来事を思い出す。ああ、日向クンに出逢えて良かった。ボクも小さく微笑み返すと、遅れて彼の頬が薄らと桃色に染まった。

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51.台風の話 : 9/15
ドドドドドドと地響きでもしてるのかと疑いたくなるような轟音。ガラス窓1枚隔てた向こう側ではバケツをひっくり返したように雨が降り注ぎ、外の景色が滲んで見えなくなっている。辛うじて樹木の緑やコンクリートブロックの灰色が分かる程度だ。
「日向クン、日向クン! 見て見て、雨がすごいよ! まるで滝みたいだねぇ…!」
目をキラキラと輝かせて窓に貼りつく恋人を見て、俺は首を傾げた。あれ、狛枝ってこんな奴だったか? 職場でのクールビューティーな彼は幻だったのか?と考え直すほどのテンションの上がりようだ。
「お前って台風好きだったのか?」
「え、別に…。そういう訳じゃないんだけど」
俺に話し掛けられて振り向いた狛枝だったが、見るからにウキウキしているといった表情だ。チラリと窓を見やってから、カーテンをシャッと閉めた。
「そうだよな、お前雨とか嫌いだし」
「そうそう! 雨の日ほど憂鬱になることはないよね。朝から髪は纏まらないし、さぁ、出勤しよう!って玄関開けたら土砂降りだったとか気が滅入るよ」
「俺の場合は雨だと授業の内容が全然違ってくるからな。出来れば中よりも外が良い」
「やっぱり日向クン、外が好きなんだね」
「あ? ああ、まぁな」
「雨だと服も濡れるし、革靴も傷んじゃうし…。知ってる? 雨に晒された革は10日分痛むんだよ」
狛枝は「ボクが1番好きなのは曇りの日さ」と続けながら、俺の横を通り過ぎる。雨が嫌いなのに、何で元気なんだろうか? 彼の言う所が良く分からない。俺はモヤモヤしてるのが嫌いな性分だ。だからそれを解明するためにも狛枝にいくつか質問することにした。
「もし今日が休みじゃなくて、出勤だったら?」
「最悪だね! こんな日に外に出ようだなんて正気の沙汰じゃない。学校はすぐにでも休校するべきだ」
「まぁ、それには賛成だな…」
ソファに腰掛けた狛枝の隣に俺もドッと腰を落とす。すると彼はすぐに俺に寄り添って、ご飯を強請る猫のようにすりすりと甘えてくる。ふわふわの髪を優しく撫でてから、顎に指を添えてキス。ちゅっちゅ…と何度も啄ばむと、狛枝は「ふふっ」と満足そうに笑った。
「去年の台風の時って俺達どうしたんだっけ?」
「確か…、前日は泊まってなかったから、お互いのアパートでバラバラに過ごしたんじゃなかったっけ?」
そうだ、思い出したぞ。外に出るのも大変だから、台風が来た日は会うのを止めにしたんだ。でも一時でも狛枝を身近に感じていたくて、何時間も長電話をした。電話をしていると片手が塞がっちまうから、普通は長々続けたいとは思わない。でも狛枝は別だ。途中でケータイの電池が切れたりしたけど、それでもずっと彼の声を聴いていたかった。1年くらい前のことだから、会話の内容までは流石に覚えてないけど、あの時の狛枝ってそこまで元気じゃなかったような気がするな。
「今日はどうしようか、日向クン。DVDいっぱい借りてきてるよ」
「そういや、やってないゲームとかもあったっけ」
台風が上陸するのは前から分かっていたので、準備は万端だった。前日に狛枝と一緒に買い物に行って、食料や飲み物を数日分買い込んだ。暇潰しが出来るようにレンタルショップで気になったDVDを借りて、図書館で予約していたベストセラーの本を受け取った。しばらく外に出なくても生きていける。
「……もしかしてさ、エッチなこと…したい?」
耳たぶを甘噛みしながら厭らしい声で狛枝が聞いてくる。ダイレクトに唇の柔らかさが伝わってきて、俺の全身はドクンと血流が巡る。透き通るほど白く滑らかな肌、Tシャツの襟刳りから覗く薄い胸板、誘うように見つめてくる緑がかった美しい灰色の瞳。
「バカ、…起き抜けにシたばっかだろ」
「ん? 日向クンのことだから、一応ね」
クスクスと笑いながら、狛枝が体を離す。何だよ、その言い方…。文句を言ってやりたかったが、先にリタイヤする狛枝に無理をさせているのは間違いなく俺なので何も言わないことにした。狛枝は鼻歌を歌いながら、楽しそうにDVDを選んでいる。「これ見たいんだけど」と差し出してきたのは予想通り推理アクション物の洋画で、俺は「良いぞ」と二つ返事で了解した。


映画が全て終わり、真っ黒な画面に浮かぶエンドロールを眺めていると、窓の外からの雨音が急にうるさくなったような気がした。俺は思わずその方向を見た。雨が強くなった訳じゃなさそうだ。映画を観ている最中は気にならなかっただけか。思ったよりも物語に入り込んでいたらしい。
「長丁場だったね…。少し休憩しようか」
「そうだな、そうするか…。あ、俺コーヒー淹れてくるよ」
「いいよ、キミは座ってて。ボクが作ってくる」
いつもなら「日向クゥン、お願い…」と上目遣いでお願いしてくるのに、今日はやたらと積極的だ。DVDをケースに仕舞ってから、俺はソファを立った。カーテンを再び開くと映画を観る前と変わらない量の雨が降り注いでいた。雨なのは仕方ないにしろ、洗濯物が乾かないのは勘弁してほしい。昨日も思いっ切りシーツを汚したから、替えが全然ないんだよな。新品のまま仕舞ってあるお客さん用の布団を出さないと間に合わないかもしれない。
そんなことを心配していると、ふいに後方からふわりと香ばしい香りが漂ってきた。狛枝が「お待たせ」とトレーにカップを乗せて台所から出てくる。コトンと置かれたソーサーにはカップとスプーンの他に、ミルクと角砂糖が1つずつ乗っていた。一方、狛枝の方のソーサーには何も乗っていない。彼がコーヒーを飲む時はいつもブラックだ。それが悔しくて俺もブラックに挑戦したことは何度かあったけど、最後まで飲み切れた試しがない。
「日向クン、もう1回チャレンジしてみる?」
狛枝はニッコリと笑って、自分のカップを「はい」と差し出してきた。
「……いや、止めとく」
何だか狛枝に負けたような感じがして、嫌なんだけどな。でもこいつになら負けても良いかって思ってる自分もいる。深い黒に角砂糖を落とし、ミルクを垂らした。くるくるとクリーム色が弧を描いて回り、それが馴染んで明るいブラウンに早変わりした。カップに口を付けると、ほろ苦い味が口内に広がっていく。狛枝は猫舌なので、カップを持ったままふぅふぅと息を吹きかけて冷ましていた。
「狛枝、俺さっきから気になってたんだけど…」
「ああ…。ボクが台風ではしゃいでたってこと?」
「うん」
「………キミがいるからだよ」
「?」
やっと冷めたのかコーヒーを静かに啜って、狛枝は俺を見て破顔する。俺がいるからこんなに元気なのか? でも毎週末に2人で会ってるのに、それとは比べ物にならないくらいだぞ。
「ボクだけかもしれないね。ここは確かにキミのアパートなのに、雨が降ってるってだけでこの空間だけ世界から切り取られた感覚がするんだ。日常なのにまるで非日常を思わせるような…」
そこで狛枝はコーヒーを一口飲んだ。両手でカップを包み込み、すんと香りを楽しんでから、彼は再び言葉を紡ぐ。うっとりと夢を語るような穏やかな顔つきで。
「これだけ雨が降っていたら、キミはどこにも行かない」
「………」
「訪ねてくる人がいないから、ボクらの時間は誰にも邪魔されない」
「狛枝……」
「これって、すごく幸せなことだよね? 日向クン…」
狛枝に妖艶な眼差しを向けられて、俺はすぐに言葉を返せなかった。台風にわくわくする無邪気な仮面の下でこんなことを考えていたなんて…。狛枝は固まってしまった俺の腕をやんわりと撫でてから、手の中に収まっていたカップを受け取った。ソーサーにカチャンと置かれたそれは、膝の上に乗った彼の体に阻まれ見えなくなる。
「ブラックコーヒーは飲めなくても、味なら教えてあげられるよ」
「…あっ、」
ペロリと唇を赤い舌で舐められて、条件反射で口を開いた。隙間を縫うように侵入したそれが歯列をなぞり、俺の理性を少しずつ奪っていく。舌先に残っていた少しだけ甘く苦いコーヒー味が、狛枝によって更に深い苦みへと塗り替えられる。
「んっ、ん、…ぁん…」
合間に息継ぎをしながら、必死に舌を絡めてくる可愛い恋人。細い腰に腕を回して、狛枝の口内を蹂躙するように舌を這い回している頃には、最初のコーヒー味が全てブラックへと変わっていた。

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52.月見の話 : 9/19
中秋の名月。一昨年、昨年と引き続いて、今年も十五夜は満月だと昼休みにネットの記事で見掛けた。今の時期は台風が襲来したり、日本列島に前線が停滞することが多い。去年の十五夜は全国的に荒れた天気だった。でも今年は穏やかな晴天で、夜空には雲が少なく、絶好のお月見日和といった所だ。
「一応、形だけでもって思って買ってきたけど…」
「あれ! 珍しいね。てっきりお団子だけかと思ってたよ」
窓際にコトリと置かれた真っ白いお皿の上には、美味しそうな白いお団子がピラミッドのように積んである。そこまでは予想出来たけど、隣に置かれた石のようなゴツゴツした素材の花瓶にはススキが刺さっていたのだ。日向クンもムードってやつを考えるようになったのか。付き合い始めの頃より成長したんだなと感慨深く感じていると、彼はボクの顔を見て拗ねたように「何だよ」と口を尖らせる。
「ごめんね。ボク、顔に出てたかな…?」
「ああ。前よりお前の考えてること分かるようになってきたぞ。……何となくだけどな」
「ふぅん、それじゃ当ててみてよ」
「『日向クンが風流に拘るなんて意外だね!』ってとこか?」
「………。あは、正解!」
エライエライとツンツン尖った髪を撫でてあげる。可愛いなぁ。でも脳筋のクセに良く分かったね! 『たいへんよくできました』のスタンプをキミのおでこにポンと押してあげたいよ。掌に突き刺さる短髪のさわさわとした感触が病みつきになりそうだ。満足気な顔をして撫でられていた日向クンだったけど、すぐにハッとして身を捩りボクの手から逃げようとする。
「何で逃げるの?」
「っ…バカにしてるのが丸分かりなんだよ!」
そんなにすぐ分かっちゃうんだ。うーん、これでもポーカーフェイスには自信があったんだけどな。キミの前だと無理なのかもしれないね。「もう良いから、月見るぞ!」と窓辺へ体を向けて、ぶっきら棒に言い放つ日向クンにボクは思わず口元を緩めた。


皓々と白く輝く月が空の真ん中に浮かんでいる。部屋の電気を落としているので、その明るさが更に冴え渡る。大体仕事帰りに見る月っていうのは、自己主張をするようなものじゃなくてもっと控えめな存在だ。でも今ボクと日向クンが眺めている月は、その明るさに目を眩ませてしまうほどの光を放っていた。
元々都心だから星なんてさほど見えないけど、僅かに散っている星々さえも満月の眩耀に霞んでしまっているみたい。以前、日向クンと一緒に見た星空とはまるで違う。月が支配する夜の空間だ。
「こんなに明るい月見るの初めてだぞ…」
「ウサギさん模様がくっきり見えるね、ほら」
そう言って指を差すと、日向クンは眉間に皺を寄せて月を凝視した。低い唸り声を上げながら真面目くさった顔で「なぁ、狛枝」と呼び掛けてくる。
「……お前、本当に兎に見えてるか? 俺には餅を突いてるようには見えないな」
「心の綺麗な人にしか見えないんだよ、きっと」
「そうなのか。じゃあ、実は狛枝も見えてないんだな」
「…へぇ、キミも言うようになったね」
2人同時に吹き出してしまった。窓を開けているから外でリーンリーン…と鈴虫の鳴き声が聴こえてくる。傍にあるススキの穂を撫でると、少しごわついた感触が手に伝わってきた。うん、やっぱり満月とススキとお団子のお月見3点セットが並んでいると趣が生まれるね。日向クンはお月見に飽きたのか、落ち着きなくそわそわと体を動かし始めた。
「どうしたの、日向クン…。お団子食べたいの?」
「かぐや姫の話が頭に浮かんでさ…。お前が月をじっと見てると、月から迎えが来て 帰っちまいそうな気がして」
「ええ!? それってボクがかぐや姫ってことかな? キミってそこまでロマンチストだった、んだ…」
笑い飛ばそうと大袈裟に声を上げてみせたけど、対する日向クンの表情は硬く強張っている。…どうやら本気で落ち込んでいるようだ。ボクは俯いている彼の頬をそっと撫でた。バカだね…。勝手に別れを想像しておいて落ち込むなんて。でもそんなキミのこと、ボク嫌いじゃないよ。嬉しいって思っちゃうんだ。日向クンがボクを好きだって再確認出来て安心する。
「大丈夫。お迎えの人が来ても、『ボクはこの人を愛してるから帰れない』って言って断るから」
「狛枝…」
不安げにボクを見る瞳は少しずつ歓喜の色が強くなってきている。日向クンは頬に当てられたボクの手を取ると、そのまま引っ張って体を抱き寄せてきた。腰に巻かれた力強い腕にゾクゾクと彼の独占欲を感じ取っていると、噛みつくようなキスをされる。息をするのも苦しいほど激しい口づけだ。少し歯が当たって唇が痛いけど、キスを止めたいとは思わなかった。
「はっ……っ、ふ……、ん、っ…あ」
「ん……。…っこまえだ、…っ、」
「…ふぅ、ひぁ…た……ン、はぁ……ッ」
日向クンはキスを続けたまま、ボクの頭を抱え込んでそっと床に押し倒す。重ねられていた唇が一瞬離された時に視線で『ベッドに行こう?』と示したが、彼は必死な顔で首を横に振った。首筋に歯を立てて、ちゅうっと強く吸う。
「っ! な、んで……、日向ク、ン…っ」
「何だよ」
「きょ、今日は平日なんだよ…!? 明日だって、学校に行かなきゃいけないのに、」
「髪で隠れる位置だから大丈夫だ」
日向クンは平然と言い放って、再び首元に舌を這わせる。ぬるぬると湿ったそれが予測出来ない動きでボクを擽り、体が熱を帯びてカタカタと小刻みに震え出した。ああ、気持ち良いよ…。彼が触れてくれるだけで、ボクの体は条件反射で快楽を感じ取るようになっている。ゆっくりと部屋着の裾から手を差し入れられて、Tシャツを捲られた。器用に日向クンが頭をスポンと抜けさせて、脇にバサッとそれを投げる。
「あ……っ」
その時、ボクは初めて日向クン以外の光景を認識した。電気を消しているので周囲は薄暗かったが、左方から射し込む月光が室内の陰影を浮き上がらせている。天井にある蛍光灯のカバー、壁に掛かっている時計、すぐ傍にあるソファの背。サイドボードにはボックスティッシュやその他諸々の生活用品が並んでいた。見慣れているリビングも月光のお陰で全くの別物に見えてくる。
ボクを見下げている日向クンは切なげな表情をしていたが、やがて覆い被さり手と舌で胸の飾りを愛撫し始めた。切羽詰まったような呼吸音が彼の唇から漏れる。突起の先端をくりくりと突かれる度にボクの体がビクッと痙攣し、日向クンはチラリとその反応を見て満足気に目を細めた。
「んぁ……、あ…はぁ……っ! ン、んっ…、」
息も絶え絶えにボクは外の光源に視線をずらす。明るさと静けさと優しさ。さっきまで月から感じていたのはそれだけだったのに、今はそれとは別の何かが月光に混じっているような気がする。何だろう、惹きつけられる。1度見てしまうと目が離せなくなるような妖しさ。これが月の魔力…?
「あぅ…、ひ、ぁ……、…なた…クン、ァんっ」
月は真っ白い揺るぎない光でボクらを優しく照らしていた。まるでこの厭らしい行為を見られているみたいで、ボクの後ろは浅ましくもきゅんと引き締まる。息を荒げて興奮気味にボクの体を貪る日向クンは、きっと月の魔力に蝕まれてしまったのだろう。既に立派な獣と化していた。彼が体を揺らすとボクの太ももに硬く成長した怒張が当たるのだ。
「狛枝…っ、狛枝…、好きだ。こまえだ…!」
「っはぁ、はぅ……ひっ、ん、やぁ……、ふっ」
しんねりとした夜風が吹き込んできて、ボクの素肌を撫でる。そのお陰で窓が全開なのは認識出来ているのに、どうしても声が抑えられなかった。数m先は道路で、もしかしたら人だって通るかもしれないのに…! 日向クンと交われる悦びばかりが頭を占めてしまっている。
とうとう日向クンは自身が着ている衣服を全て脱ぎ捨てた。さっきまで太ももに当たっていた彼の物がずるりと引き摺り出され、ボクの目の前に現れる。月の光により、赤黒く立派な本能は先端が濡れているのが良く分かった。大きなゴツゴツとした手がボクのパンツの中に入ってきて、半勃ちの中心を擦る。
「あ…っ! っ〜〜〜! んふっ……ア、…ひぃ…」
「すごい、一瞬で硬くなったぞ。お前の…。1回出すか?」
「はぁはぁ…! んっ……あはぁ…、っ…ん、くぅ、」
目をぎゅっと瞑って急いでその問いにボクは頷く。すると扱く日向クンの手の動きがそれに応えて速くなった。責め立てるように感じる所を擦られ、水音が段々大きくなり…。
「!! あっ…あ、あ、ああッ……、〜〜〜っ…!!」
熱が解放される衝撃でボクは海老反りに体を撓らせた。生温かいぬめりがボク自身と日向クンの掌をべったりと濡らす。大きく息を吸い込んでから吐き出し、呼吸を整えていると、日向クンが耳たぶに優しくキスを落とした。
「狛枝。腰上げて、そう…こっち側に体向けてくれ」
そう囁かれて、ボクはぼーっとしながらも言われた通りにする。部屋着のズボンをパンツごと足からするりと下げられて、2人とも一糸纏わぬ姿になる。彼が指し示す方角は清らかな光を放つ月だった。日向クンは右足を持ち上げて、後ろ側に指をつぷりと沈めた。
「…痛かったら、すぐ言えよ?」
「っんぁあ……っ、ふ…、ひな、たクン……、…っ、ンっ」
さほど痛みを感じることなく、日向クンの指がボクの内側へと埋め込まれていく。さっきボクが吐き出した体液を利用しているのだろう。指が増やされ、バラバラに動くことによって中を拡げられる。折り曲げられた先の感じる点をぐっと押され、ボクはお腹に自然と力が入ってしまった。
「んっ! うぁ…、あっ、あんッ…。や、ぁ…、あふ…、」
「これくらいで良いか…。挿れるからな?」
「は…ぁっ、ハァハァ、き、来て……。お願、い…、ボク…。日向クン…!」
日向クンの片足が持ち上げられたボクの右足の下側に入り込んだ。そして後ろに何度も受け入れた愛しい彼自身を押し当てられる。来る…! 鈍い痛みと共に、指とは比べ物にならないほどの質量が侵入してくる。
「んぅ……! あ、キミのが…、う、ん……あぁ…、ああ…」
「あっ、…きつ、…狛枝ぁ……! んっ…く、全部…入ったぞ…。平気、か?」
「へ、いき…。ふふっ、ボクの、…中、キミのでいっぱい…だね」
「……動くぞ」
後頭部からちゅっとリップ音が聴こえた。そして床に突いているボクの左手に日向クンの手が重ねられる。包み込むようにやんわりと握り締めてから、彼は徐々に律動を始めた。窓の月。四十八手の1つで、まぐわう2人が一緒に月を眺めることが出来るからそんな名前が付いたらしい。これもお月見って言うのかな。
体を捩って顔を日向クンの方に上げると、彼は腰を動かしながら「狛枝…」と愛おしげにボクの名前を呼んでくれた。
「…ふ……、ん、あっ、……っ…ふぅ、ン……ッ」
「…月から使者が迎えに来ても、俺はお前を絶対に…離さないからな…!!」
「っ……日向、クゥン…、あ、ふぁ…、っ、うぅ…」
ねぇ、お月様が見てるよ…日向クン。ボクの頭から爪先まで月光の帯が敷かれているんだ。全部、見られている。卑しくも脚を広げて、キミを受け入れているボクの全てを…。ボクがかぐや姫だとしたら、お迎えの人は愛し合っているボクと日向クンの姿を見て諦めてくれるかな。それともこんなに淫らなかぐや姫なんかいらないって怒るかな。
「あ、っひな、クン……! ……ボク、キス…、したい…」
「っ…こまえだ……、俺も、したい…。好きだ好きだ好きだ…。…愛してる、狛枝」
「んっ、好き、日向クン…すき…。んっ……んぅ…ぁ、はぁ…ンーっ、んんぅ…!」
首を伸ばして、屈んでくる日向クンの唇に吸いつく。舌を絡めて、歯をなぞって…。互いの唾液が零れて滴るほどキスを続ける。
「あい、してるよ…、ひなたクン…。ボクは、どこにも…行かない…っ」
「…狛枝、……っく、あ、あ、あ……ダメ、だ…。で、る……! う…っ!!」
「!!? あ、……〜〜〜っ、あぅぅ…っ。ひっく…、あ、あぁぁ…」
最後に力強く突かれて、日向クンはボクの中に熱を吐き出した。内側に滲む熱い衝撃にボクもぶるりと震えて達する。埋められていた熱が引き抜かれて、ボクはすぐに体を反転させる。
「……ハァ、は、…狛枝?」
「日向クン…」
彼の逞しい胸板に堪らず抱き着いた。キミの体温、キミの匂い、キミの味。安心するなぁ…。これくらい愛してくれる人がいたら、きっとかぐや姫も月に帰りたいなんて思わなかったのにね。そんなことを考えながら、ボクはすりすりと日向クンに頬擦りする。すると彼は少し体を跳ねさせたものの、くくっと笑いを零し、優しく抱き返してくれた。

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53.風邪の話 : 9/28
秋の気候は寒暖が激しい。急に冷え込んできたと思ったら、次の日には夏のように太陽が照りつけ、汗が額から流れ落ちる。そんな日々がここ1週間続いていた。

狛枝の調子が良くないと気付いたのは木曜の夜だった。色白の顔をいつも以上に真っ白にしているのを見て、俺は慌てて狛枝の額に手を当てた。すごく熱いというほどではない。平熱が低い彼にしては少し温かいかなという程度で、体温計で計ってみると36.7℃という何とも微妙な数字が表示された。『熱あるんじゃないか?』と液晶画面を見せると、彼はへらりと力なく笑い、『このくらいで休む訳には行かないよ』と手をひらひら振る。
生来、責任感の強い狛枝は仕事に穴を開けたことがない。そもそも俺と付き合い始めてから体調を崩したことは1度もなかった。夜更かしをする狛枝を宥めて寝かしつけて、朝は丁度良い時間にモーニングコールをする。もちろん一緒に夜を明かした日は更に彼の健康状態を詳しく管理出来ていた。付き合い始めの内はちょっと目を離すとすぐにレトルトやカップ麺を食べようとする狛枝だったけど、俺が腕によりを掛けて料理を振舞うようになってからは、『良くこんなマズい物、食べられたね…』と食器戸棚にストックしてあるレトルト食品達に訝しげな視線を送るようになった。


それは置いといて、だ。一夜明けた金曜日である今日、俺は四六時中ハラハラと狛枝を見守っていた。チャイムが鳴る度に、狛枝が授業を行っている教室の前まで迎えに行く。「大丈夫か?」と声を掛けると、「平気…」と小さな声が返ってきた。フラフラ歩いている狛枝の腕を掴んで、俺は隣に寄り添う。生徒達がチラチラと見てくるが、もう気にしていられない。
「お前、授業…これで終わりだよな?」
「……ん。でも…、けほっ……まだ仕事が…、残って…、」
「無理するな。治ってからにしろ。俺も手伝うから…」
狛枝は小さく咳き込んだ。声を出すのも辛いのか俯き、狛枝の足取りは覚束ない。明日明後日でどうにか治して、残りの仕事は来週に回した方が良い。今無理して片付けようとしても絶対に上手くいかないはずだ。
「1人で帰れるか? タクシー呼ぶか?」
「良いよ、日向クン。みんな見てるから…。もう離れて」
掴んでいる手を軽く払って、狛枝は真っ青な顔で微笑する。そして「はぁ…」と嘆息しながら、廊下の向こうへと消えてしまった。心配を掛けまいと一生懸命なのだろう。周囲に関係を悟られないように動くのも難しい。ずっと傍にいてやりたいのにそれすら叶わないのだ。俺はメールで『いつでも連絡待ってる』と狛枝に送信し、ケータイをポケットに突っ込んだ。


……
………

「狛枝、医者は何て言ってた?」
「……かぜだって」
「腹は減ってないか? 何か作るか?」
「……まだおひるまえだよ、ひなたクン」
「汗掻いたなら着替え手伝ってやるから」
「……ちょっと…、だまっててくれるかな」
赤い顔ではふはふと息を切らしながら、狛枝はウンザリするような目付きで俺を弱々しく睨んできた。先ほど熱を計った時には37.3℃という数字が出ていて、本格的に発熱してきているようだった。38℃を超えていたら深刻だが、風邪だったらおかしくはない体温だ。病院で貰った薬を飲んだと言っていたが、それでも辛いものは辛い。狛枝が快適に過ごせるように1日中離れずに看病するつもりだったが、病人である彼にはしつこいと思われたのか呆れられてしまった。
「あのね、ひなたクン…。ボクはだいじょうぶだから、そんなにしんぱいしなくてもいいよ」
「…でも」
「キミとつきあってからはひいてなかっただけで、まえはしょっちゅうひいてたよ…かぜ。んん…っ」
軽く咳払いする狛枝に俺は首まで羽毛布団を掛け直した。喉を痛めているのに尚も彼はだるそうに喋ろうとする。「もう無理するな…」と止めようとしても、目を閉じて首を横に振って拒否をする始末。
「ひとりでなんでも、できたんだ…。かぜ、…ひいたってさ、キミのかんびょうなしでなおる」
「………。そうだな…」
「しごとだってなんだって…、ボクのほうがキミよりこなせる。りょうりだっていつかおいこしちゃうよ」
狛枝はそう言って、「ふふっ」と無邪気に笑う。反論は出来なかった。まさに狛枝が言う通りだったからだ。頭も要領も良い彼はテキパキと何でも素早くこなしてしまう。同じ男として嫉妬もしてるし、尊敬もしている。苦手だと言ってた料理だって 飲み込みが早いから、恐らくすぐに俺よりも美味しいご飯を作ってくれるようになるだろう。
「それができなくなったのは……、きっとキミがあまやかすから…」
「狛枝…」
「やさしさになれてしまうと、ひとりになったときが…こわいね。……あのときもそうだった」
あの時…。それが出流が来た時のことを言っているのはすぐに分かった。しかし不穏な言葉とは裏腹に狛枝の表情は安らいでいる。もう彼の中ではきちんと昇華されているようでホッとした。繋がりが途切れてしまう恐ろしさで頭がおかしくなりそうだったんだよな。もう2度とあんな思いはしたくない。
「ボクのせいで…キミのじかんをつかわせてしまうのは、…しのびないから」
「違う。俺がそうしたいんだ。お前の傍にいたい。疲れさせちまったのは、悪かった…」
たまに人が良いだとか言われたりすることもあるけど、自分ではそう思ったことは1度もない。困っている奴に手を差し伸べるのは心からの奉仕とは違う。見える範囲手の届く範囲でそういうものを見たくないという、俺の自己満足に過ぎない。頼られるのだって嫌いじゃない。自分の存在価値が見出せた気がして嬉しいし、相手が狛枝ならそれは尚更だ。患者に対する罪木の気持ちが少しだけ分かる気がする。
「しばらく寝るよな…。大丈夫、俺はここにいるから。おやすみ、狛枝…」
「うん、うん…。ひなたクン、おやすみなさい」
汗の浮いた額を拭ってやると、狛枝は子供のようにふにゃりと表情を崩す。そのまま目を閉じて、すぅすぅと穏やかな寝息を立て始めた。氷枕は冷凍庫から出したばかりなのかひんやりと冷たい。寝ている間に何をしようかと周囲を見回してみたが、狛枝のアパートは本人が寝に帰っているという言葉通りのようで、片付けようにもそもそも物が無さ過ぎた。
「一応買い出しはしてきたけど…」
アパートに向かう途中でスーパーには寄って、消化の良い食べ物は買ってあるが、風邪用には何も用意していない。狛枝の家の冷凍庫には代えの氷枕が入っていなかった。今までどうしていたんだろう? ドラッグストアで予備を買っておくべきかもしれない。それと脱水症状には水やスポーツドリンクよりも、経口補水液が良いって聞いたことがあるな。
狛枝は深い眠りに落ちているようで、しばらく目覚める気配はなかった。
「ごめんな、狛枝。すぐに戻る」
小声で彼に謝ってから、俺は財布だけを手に玄関へと向かった。出て行ったと誤解させないように、鞄は狛枝の視界から見える範囲に置いておいた。ドラッグストアならそう遠くないし、彼が寝ている間に買い物は済ませられるはずだ。他に買う必要があるものはないかチェックして、俺はアパートを出たのだった。


腕時計を見ると思ったよりも時間は経っていなかった。ドラッグストアで目当ての物は簡単に見つかったし、レジも混んでいなくてスムーズだったからだ。ガサガサというビニール袋の擦れる音を耳にしながら俺は走っていた。狛枝のアパートは暗証番号で開錠するタイプの扉が1階にあり、そこから3階まで階段を駆け上がった先に彼の部屋がある。
「ただいま…」
起こさないようにそっと鍵を開けて、室内に入ると中から「ひなたクン…?」と掠れた声で呼び掛けられた。狛枝、起きてたのか…。慌てて靴を雑に脱ぎ捨てて 寝室へと向かうと、ベッドの中の狛枝が潤んだ瞳で俺を見つめている。
「……どこ、いってたの?」
「ドラッグストア、だ。色々と足りない物買ってきたぞ」
「………ひなたクン、ここにいるっていった」
「ごめん。お前が寝てる間に済ませられるかと思って…」
ビニール袋を掲げて見せたが、彼は不満気な表情のままだった。約束破ったから怒ってるのか? 洗面所で手を洗ってから寝室に戻ると、狛枝が布団から手を出してちょいちょいと俺に手招きしていた。
「? …何だよ」
膝を突いて、狛枝と視線を合わせる。それでも彼は「もっとだよ…、ひなたクン」と俺に近付くように促してきた。涙ぐんでキラキラしているネフライトの瞳、熱で火照って可愛らしくピンク色に染まった頬、溢れてくる涎でぬるりと湿っている薄い唇。あまりの色っぽさにざわりと背筋が逆立つ。くそっ、狛枝は風邪引いてんだぞ? 目覚めかけた息子を気合いで鎮めながら、顔をどんどん近付けていく。すると…
「……ちゅ」
「っ!? 狛枝…っ」
首を伸ばした彼が俺の唇目掛けてキスをしてきた。ふわりと掠める柔らかい感触は一瞬で、狛枝はすぐにぽすんと枕に頭を乗せる。思惑が成功したのか楽しそうに頬を緩めて。
「……はぁ。…えへへ、ボクをひとりぼっちにした…ばつ、だよ?」
「………」
「かぜ、うつっちゃったらどうしようねぇ?]
「………」
「ね、ひなたクン♪ ………んぅ? んん〜っ!!」
「んっ……、この…!」
俺の中で何かがプツンと切れてしまった。力の入っていない狛枝の肩を掴み、1度離してしまった唇に再度口付ける。触れるだけとは違う。味わうようにたっぷりと唇を舐めてから、舌を中へと侵入させた。ビクリと狛枝の体が揺れる。構わず綺麗に揃った歯列を舌でノックすると、口が開いて燃えるように熱い舌が俺を待っていた。ゆっくり優しく絡ませてやると、狛枝はくぐもった声を漏らしながら俺にしがみ付いてくる。
「はぅ…、ひなた、…クン。んっ、ん……」
「こまえだ……、」
一通り貪ってから唇を離すと、狛枝はさっきよりも顔を真っ赤にしてふぅふぅと息を切らしていた。不味いな…。俺は狛枝の体を支えながら、ベッドに戻してやる。病人だということを忘れてつい夢中になってしまった。もぞもぞと布団の中に潜り込みながら、狛枝は上目遣いで俺を見つめている。
「……ひなたクン」
「何だ?」
「もう…、どこにもいかない?」
「行かないよ」
それを聞いて、彼は嬉しそうに目を細めた。風邪を引いてると甘えん坊になるというのは、狛枝も例外ではなかったようだ。
「おなかすいたよ、ひなたクゥン…」
「待ってろ、卵粥作ってやるからな」
「えー、ボク…パンがいい」
「我儘言うな。これが1番良いんだから!」
狛枝の機嫌が直った所で俺は台所へと向かった。1人用の土鍋を用意しながら、俺はふと子供の頃のことを思い出した。いつもは弟ばかり気に掛けてる母親も、俺が風邪を引いた時だけは俺を優先してくれたっけ。体は辛かったけど、甲斐甲斐しく世話をしてもらって、すごく嬉しかったことを覚えている。そう…独り占め、だ。
チラリと振り向くと、狛枝は少し元気になったのかワクワクとご飯を待っていた。俺が狛枝を独り占め。狛枝も俺を独り占め。出来た卵粥を盆のまま渡そうとすると、嫌々と首を振って「あーん」と雛鳥のように口を開く狛枝。レンゲで粥を口に入れてやるともぐもぐ頬張った。
「あじしない…。ちゃんとしおいれた?」
「入れたぞ。風邪だから仕方ないと思う…」
「んぅううう……。ひなたクンとのキスは……あまかった、よ?」
「〜〜〜っ、そういうこと言うのは、止めてくれ…っ!」
きょとんとしながら可愛いことを言う狛枝に、俺はレンゲを取り落としそうになる。無自覚なのか? ペロッと舌を出して「ごめんね」と謝られた時はもう何も言えなかった。ぐっと押さえつけられたかのような心臓の痛みに耐えるだけだ。
驚くべきことに狛枝は卵粥をぺろりと平らげてしまった。薬局で貰った薬を飲ませて、十分過ぎるほどの水分を補給させる。それからトイレに、歯磨き。汗で湿ったパジャマを脱がせて、体を濡れタオルで拭いてやり、新しい物に着替えさせた。顔色は少し赤みが引いたようだ。体温計の表示はさっきよりも下がっていて、36.8℃になっていた。
「ひなたクン、ひなたクン……」
「ん…。どうした?」
「あのね、……キミといっしょにねたいんだ…。ダメ、かな…?」
そんなささやかな願いくらい叶えてやるに決まってるだろ。肯定の意味を込めて俺が緩やかに首を振ると、狛枝は「ありがと」と笑って、布団を持ち上げてくれた。そこに身を忍ばせると、すぐ近くに狛枝の顔がある。少しカサついた色っぽい唇が目に入った。ああ、キスしたい。そう思った時には既に体が動いていて、彼の唇目掛けて顔を近付けていた。すると狛枝は困ったように俺の口を指先で触れる。
「ねぇ、キスしちゃったら…こんどはキミが…」
「さっき散々したんだ。もう同じだろ。というかお前はさっさと俺に移せ。そしたら治る」
「………。うつる、って……、バカみたい」
狛枝はそうは言いつつも、触れていた手をスッとどけた。その手がそっと俺の右手を探り当て、するりと細い指が絡んでくる。「んっ」と目を瞑ってキスを待っている顔が堪らない。
「狛枝……っ! はぁ…、」
「んぅ…、あっ……ふぁ…」
ねっとりと舌を舐められて、狛枝は熱っぽく息を吐く。もっとと強請るように繋いだ手をぎゅっと握ってきた。口内に残る俺の唾液をちゅうっと吸った彼は、味を確かめるように喉をゴクリとさせる。そして一言、呟いた。
「っひなた…クン、……やっぱり、あまい」


「…何でキミ、ピンピンしてるの?」
「いや、俺に聞かれても…」
「普通さ…こういうのって、キスしたら風邪移るってパターンでしょ」
「知るかよ、そんなの。治ったんなら良いじゃないか」
「………ボクだって、看病したかったのに」
「ん? 悪い、良く聞こえなかった」
「何でもないっ!」

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54.温度差の話 : 10/5
生来、ボクはプライベートスペースに他人を迎え入れることが苦手だった。1日だけ誰かが家に遊びに来るまでが許容範囲内かな。高校生の時のボクの変わり者っぷりは校内では有名だったらしく、深く付き合おうと言ってきた人間はいなかったけど、地元から離れた大学に進学した後はそれなりにモテた。大して話したこともない同学年の女子に立て続けに告白されて、贅沢なことにうんざりしてた時もあった。それまで誰ともお付き合いをしたことがなかったから試しに付き合ってみたものの、片っ端から上手くいかなくて、長くて3ヶ月、短くて1週間というどれも散々な結果に終わっている。
別れを告げられる度に思った。ボクと一生添い遂げてくれる人なんて、この先現れるのだろうかと。上辺の付き合いなら何の問題もない。日常のやりとりや仕事の受け渡しもスムーズだ。だけど…。誰もいないアパートに帰ってくると、いつも言い知れない寂しさに見舞われる。ボクはこのまま1人で生きて、誰にも看取られることなく1人で死んでいくんじゃないかって。他人に興味を持てないクセに、そこだけは図々しいんだ。笑っちゃうよね。親戚から援助を受けているとはいえ、親兄弟もいないし、身寄りもないし、友達も知り合いもいない…。やっぱり1人で死ぬのは寂しかった。

"誰かの愛"が欲しい。

そう思っていた矢先に勤務先が変わって、新しく赴任した学校で日向クンと出会った。ボクが逃げても拒絶しても、彼だけは向き合ってくれた。煩わしいと思ったことは確かにある。だけど日向クンは真剣にボクのことを知りたいと言ってくれて、最後まで心から愛すると誓いを立てた。付き合い初めは慣れなかったけど、段々と彼はボクの中でその存在を確たるものにしていった。
眩しいほどの意志の強さとは裏腹に意外と脆くてナイーブな面もあったりしたけど、その弱さもボクにとっては魅力的に映った。ボク自身の全てを明け渡しても許してしまえる。彼の全てを受け入れたいと思う。長続きしないだろうと思っていた日向クンとの日々は、いつまで経っても終わらなかった。そしてとうとう…日向クンから与えられる幸せに追い詰められて、ボクは逃げ場を失った。


ソファに座って、平日に撮っておいた映画やドラマを一緒に観る。内容に集中したいのなら、1人で観るのが正解なんだろうけどボクは話の中身には全く興味がない。日向クンとくっついて同じ享楽を分かち合うことに意味があるのだ。映画を観る振りをして、それに見入っている日向クンを観察するのがボクの密かな楽しみだったりする。
「………」
でも今日は少しばかり違った。隣に座ってではなく、日向クンはボクを膝の上に乗せて、後ろから抱き締めるようにしているのだ。彼は体温が高い。でも平熱は36.3℃らしいから、ボクの体温が低いというのがそう思わせる原因になっているかもしれない。何にしろ、ボクが日向クンと密着していると"熱い"と感じるのは確かだ。
「ねぇ、日向クン…。もう離れても構わないかな?」
「何でだよ、もう少しだけ良いだろ?」
「……ボクの体が邪魔で、キミ画面見えてないじゃないか。それに足だって痺れてるだろ?」
「別に良いよ、そんなの。映画観るより狛枝を抱き締めてる方がずっと有意義だ…」
日向クンはうっとりとした口調でそんなことを囁いて、ボクの首元に甘えるようにすりすりと顔を埋める。硬派な見かけに寄らずロマンチストでベタベタするのが好きっていう所は可愛いし、それをされるのはボクとしても大歓迎だ。ただ…この体温の高さは何とかならないだろうか。何でこんなに無駄に体温高いんだろう? 映画が始まって小1時間経過している間中ずっと抱き締められているので、ボクも体が火照って額に汗が浮かんでいる。んぅう…、いい加減離してもらいたいんだけどなぁ。
「日向クン、熱いっ。離れてよ…!」
「…嫌だ。温かくしてないとまた風邪引くぞ」
「……んぅうっ」
それを言われてしまうとボクは何も反論出来なくなる。先週風邪を引いて、日向クンに迷惑を掛けてしまったのは本当に申し訳ないと思ってるから。お腹の前に回された腕を振り切ることが出来ない。と思っていたら、彼はパッと腕を解いてくれた。予想外の行動にボクは思わず「えっ」と口を衝いて出てしまう。
「冗談だよ。本気で怒られる前に止めようと思ってた」
振り返ると少し寂しそうな顔の日向クンがいる。琥珀の瞳が伏し目がちになっていて、満足に甘えられない幼子のようだ。ボクは「離れて」と冷たくあしらってしまったことを少し後悔した。そうだよね、ボクが寝込んでいた所為で先週は何も出来なかったから。体を反転させて、日向クンと向かい合うように膝に乗って、彼をぎゅーっと抱き締める。ツンツンと短い焦げ茶色の髪をぐしゃぐしゃと撫でながら、頭を腕の中に収めた。すると彼もボクの背中に腕を回す。
「狛枝……」
「? 何だい?」
「幸せ、だな」
「……うん」
顔は見えなかったけど、声色が弾んでいるのがすぐに分かった。幸せ…か。本当に彼と一緒にいることが幸せなのかどうか悩んだ時もあった。今はそうじゃない。日向クンの体温は幸せの温度なんだ。


……
………

「おやすみなさい…」
「ああ、おやすみ。…狛枝」
熱い抱擁と深い口付けの後に、日向クンが布団を捲ってボクをベッドに寝かしつける。そして最後にちゅっとボクの額にキスを落とした。2人で最早決まり事になっているおやすみの合図。疲れていたらしい日向クンはごろんと横たわって布団を被ると、30秒もしない内に寝息を立ててしまった。
夏に一緒に寝ていた時の名残で、ボクらは最近抱き合って寝てはいない。さすがの日向クンも熱帯夜にボクと抱き締め合おうとは思わなかったみたいだね。当たり前かぁ。布団の中で手をごそごそと動かし、無造作に置かれた日向クンのゴツゴツした手を探し当てる。するりと指を絡めても、深い眠りについている彼は全く気付かない。
「明日もよろしくね」
思ったよりもボクも疲れていたようだ。目を瞑ると程なくして抗えない眠気に意識が奥底へと落ちていく。そこでボクの記憶は途切れた。


「!?」
パッと目を開くと、辺りは真っ暗だった。ボクは何をしてたんだっけ…? ああ、そうそう。今日は週末で日向クンのアパートに泊まりに来てて…。んん? ボクは一体何に抱き着いてるんだろう? 熱くて硬くて広い何かにしがみ付いてる。あれ? あれあれあれあれ?
「寒かったんだな」
笑い混じりの日向クンの声が頭の上から振ってきて、ボクは漸く覚醒した。パチパチと目を瞬きさせて上を見上げると、ぼんやりしていた視界に日向クンの苦笑する顔が浮かび上がってくる。
「ふぇ…?」
「寝惚けてるのか? …可愛いな、狛枝」
「……え」
ぽんぽんと頭を撫でられて、ボクは今の状況を把握するために慌てて視線をあらゆる所に運んだ。うん、これはどういうことだろう? …まずボクが抱き着いていたのは、日向クンの逞しい胸板だった。彼から抱き寄せたような形跡は見られない。ボク自らが進んで日向クンの胸に飛び込んでいるのだ。…嘘でしょ? だって寝る前は手を繋いでいただけだったのに!
「昼はあんなに俺と離れたがってたのにな」
「うぅ〜…」
「あっ、こら! 逃げるなよ。明け方は冷えるんだぜ?」
日向クンはバタバタするボクの腕をぐっと掴んで、再び自分の方へと寄せた。今度は抱き着かれてしまったので逃げられない。枕元の時計を見ると朝の5時だった。まだまだ起きるには早過ぎる時間だ。日向クンは「おやすみ」と再び目を閉じてしまう。〜〜〜〜〜っ! ああっ、もう!! 『日向クン熱い』って文句言ってたクセに、こうして抱き着いちゃってさ。恥ずかしいことこの上ないよ!
「…本当だ。ちょっと寒い」
静まり返った部屋にボクの呟きが響いた。布団から出ている顔部分の肌だけ冷え切っているような気がする。もう10月なんだよね…。冷えて当然か。ボクは観念して日向クンの胸板に顔をくっつけた。熱い彼の体温がボクの頬をじんわりと温めてくれる。気持ち良いな…。何だか安心する。日向クンの体温と匂いに包まれて、ボクはもう1度眠りの世界へと旅立った

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55.借り物の話 : 10/12
体育祭の準備は慌ただしい。きっと当日は日向クンと言葉を交わす暇もないだろう。まぁ仕事なんだから仕方ない。ボクは当日のタイムスケジュールを確認しながら、その日の仕事を黙々と片付けていた。明日は1日中動き回るから早めに帰って十分な休息を取らないとな…。やっと業務の目処が立った所で、職員室の一角が騒がしいことに今更気付いた。
その場所が誰の机だったのかは覚えてなかったけど、何やら女性教師達が団子状態になって話し合っているみたいだね。うーん、揉め事かな? それにしては穏やかだ。じゃあ、雑談かな? でもちょっと真剣過ぎる気がする。もしかしたら明日の体育祭のことで何かあったのかもしれない。少しはボクでも力になれるかな? シャットダウン処理中のパソコンをそのままにボクは席を立った。
「あの、どうかしたんですか…?」
「え………、あっあっ、狛枝先生…!?」
手前にいた女性教師が振り向いた瞬間、サッと顔を赤くした。ビックリさせちゃったみたい。日向クンにもたまに『お前、気配消すなよ!』って怒られるんだよね。別にそんな忍者みたいなことはしてないんだけど。
「何か明日のことで困ったことがあるのなら、相談に乗りますけど」
「は、はい……。あ、いえ! だ、大丈夫です」
営業スマイルも赴任したての頃よりはすんなり顔に出せるようになった。ニッコリと笑い掛けると、女性教師はカァアッと耳まで赤くしてしどろもどろに小さな声で答える。他の先生方も首を振っているのを見るに、大したことはないのかな? 大丈夫だと言うなら無理して話に入る必要もない。ボクは女性陣に軽く会釈をしてから、「お疲れ様…」とその場から立ち去った。
確か日向クンは校庭で設営をしているんだろう。帰りがけに一目見るくらいは出来るかな。今日の晩ご飯はボクが作っておいてあげよう。あんまり手の込んだ料理は作れないけど、この間小泉さんにおススメされた初心者向けの料理本にはまだ日向クンが好きそうな献立がいくつか残ってる。天気予報は明日も晴れと伝えていたし、きっと澄み切った秋晴れになる。体育祭ってそんなもんでしょ?
明日ボクが出る競技は教師対抗の綱引きだけだ。日向クンとはチームが分かれちゃって残念だな。小さく嘆息しつつ、校庭に面している廊下の曲がり角を進もうとした所で、後ろからパタパタと軽い足音が近づいてきた。振り返ると落ち着いたベージュのワンピースの上に白衣を身に纏った女性がよろよろと走ってきている。罪木さんだ。
「こ、狛枝さぁ〜ん!」
「あれ…、罪木さん? どうしたの、そんなに慌てて…」
ナースシューズをキュッと鳴らして、彼女は彼女はボクの前に立ち止まった。
「……あの、あのあのっ…先ほどのことなんですけどぉ」
両手を胸の前で組んで、彼女がおずおずと話し掛けてくる。先ほどのこと…っていうと職員室で女性教師達が話し合ってた件だろうか。確かに罪木さんもその中にいたもんね。
「ご、ごめんなさぁい…! 私、先生達を止められなくって、」
「え?」
「言わなきゃ…って思ってたのに、誰も私のお話…聞いてくれなかったんですぅ」
えぐえぐと泣きじゃくりながら、罪木さんはひたすら謝ってくる。ボクはポケットからハンカチを取り出して、彼女に渡した。うーん、何のことを言ってるんだろう?
「ねぇ、罪木さん。とりあえず落ち着いて。何で謝ってるのかもボク良く分からないよ」
「ううっ、すいませぇん…。ええっと…さっきはみんなで借り物競走の話をしていたんですぅ」
「借り物競走? ボクは出場しないんだけど…」
借り物競走は綱引きと同じく教師対抗の種目だ。だけど全員参加の綱引きと違って、出るのは一部の教師だけ。日向クンは選ばれてたよね。去年も出場してて、女性教師にきゃあきゃあ言われてたっけ。競技してる時の日向クンって半端なくカッコいいもんな。
「いいえ、狛枝さんではなくて…。日向さんのことなんですけどぉ」
「? 日向クンがどうかしたの?」
「……日向さんと狛枝さんの関係は、私も…分かっているつもりです。誰にも話したりなんてしてません。他のみんなもきっとそうです。お2人のことを心から応援してるから…」
「うん、心配掛けてごめんね。ありがとう、罪木さん」
「! は、はいぃ…。でも知らない人達はきっと…、こ、心ないこととかしてくると思うんですぅ。だからそのぉ、明日も…もしかしたら、」
語尾に近付くにつれて、罪木さんは蚊の鳴くような声になっていく。ぎゅっと目を瞑り必死に伝えようとしている。明日? 体育祭で何かがあるのか? 彼女は唇をわなわなと震わせて言葉を紡ごうとして、やがてきゅっと引き締めてしまう。ゴクリと言葉を飲み込んでしまった罪木さんはハンカチをボクに押し付けるように返して、「ごめんなさぁいぃ〜!!」と泣きながら廊下の向こうへと走っていった。
「………何だったんだろう?」
ボクの独り言に答えを返してくれる人は誰もいない。うーん、分からない以上考えても仕方ないかもね。今日帰ってから日向クンに聞いてみようかな。そんなことより今日の晩ご飯を何とかしないと…。いや、その前に校庭にいる日向クンを観察だ! ボクは足取り軽く校庭近くのルーフ付きの踊り場に歩いて行った。


……
………

空を仰げばキラッと光る太陽に思わず目を細める。ボクは小学校から今まで1度も運動会や体育祭の類で雨が降ったことがない。そもそも遠足や文化祭も含めて全ての学校のイベントが晴れる。前日に雨だと予報されていても次の日には嘘のように低気圧が去り、偽物のように爽やかな青い空と白い雲が浮かぶのだ。体を動かすことに縁がなかったからそんなことはどうでも良いと思っていたけど、今日はこの快晴がとても心地好い。息を吸うとスーッと鼻に抜ける秋の少し冷えた空気。この季節は晴れてても暑くないから良いよね。
校舎からリールが方々に引かれていて、ゆらゆらと風に三角形の国旗の旗が棚引いている。今は午後の部が少し過ぎた所だ。メインである各種リレーはほぼ終わってしまい、後は学年ごとのリレーと演技が少し残っている。この学校で盛り上がるのはパン食い競争、男子のみ参加が出来る騎馬戦と棒倒しらしい。だけど校庭が男子の咆哮と女子の黄色い声に塗れている時は、大体ボクら教師は忙しなく動き回っているからゆっくりと競技を見れない。
競技の準備はもちろんのこと、保護者の方も来場されているからその誘導もあるし、競技に出てない生徒達が騒がないようにキチンと監督しなくちゃいけない。日向クンの姿はその間チラホラ見た。ピンとしたアンテナ頭が右に左に走り回っている。たまにこっちに気付いて目線だけで言葉を送ってくれて、ボクもそれとなく頷き返す。誰もボクらのアイコンタクトに気付かない。2人だけで通じ合ってる秘密にふふっと気分良く笑みを零した。


校舎に取り付けられている時計は2時を回っていた。もう残り数個しか競技が残っていない。学年対抗で全員参加の大玉転がし。教員参加の借り物競走。競技のトリを飾るのは最後の体育祭になる高3のマスゲーム。ああ、後は整理体操もあったっけ。大玉転がしの整列が終わってしまえば、後は楽なものだ。タイムスケジュールでは午後の部は2:45で終わる予定で、良い感じの進行具合だと思う。特にやることがなくなったボクは観戦席に移動することにした。
「あ、狛枝さーん! こちら、空いてますよ〜?」
ボクに向かってぶんぶんと大きく手を振っているのはソニアさんだ。ニコニコ笑って手招きしてきたので、彼女の方へと向かうことにした。ソニアさんはいつもの長い金髪をお団子で纏め、ポニーテールのように垂らしていた。少し雰囲気が違うね。英会話講師なので本来なら休暇のはずなんだけど、イベントには積極的に参加したいタイプのようで、競技に出る訳でもないのに上から下までジャージで固めている。ソニアさんがいる場所はテープが張られた観戦席の最前列だった。校舎とは反対側で太陽を遮っていないので暖かく、更に真ん中の位置なので校庭の端から端まで見渡せる。
「へぇ、良い場所だね」
「うふふっ。後ろの方で背伸びをしてましたら、皆さんが譲ってくれたのです!」
絹のように艶やかで細い金の髪、血色の良い健康的な色白の肌、女性として完璧とも言える整った顔立ち。サファイアの瞳は陽光に透けて、キラキラと輝いている。うん、これに落ちない男の人はいないだろうな。ソニアさんの周囲には場所を譲ってくれたらしい男子生徒何人かが顔を赤くしていた。
「あ、大玉転がしは終わったみたいですね。いよいよ、借り物競走…。わたくしドキがムネムネします!」
むはーっと鼻息荒くソニアさんは校庭を見つめている。使われた大玉がゴロゴロと体育倉庫へと運ばれていき、横から体育祭実行委員がガタガタと音を立てながら学校机を持ってきて並べていった。その上に『借り物』が書かれたカードが置かれていく。良く見るとカードには色が付いていて、適当に並べたという訳ではなさそうだった。

―――これより、教員参加競技『借り物競走』を行います。
―――出場される先生方はスタート地点にお願いします。

校内放送が入り、いよいよ参加する先生達が出てきた。全員で6人だ。ボクはその中から真っ先に日向クンの姿を捉える。これはもう条件反射だ。あれ? 少し緊張しているのか表情が硬いね。キョロキョロと落ち着きなく辺りを見渡してから、目を閉じて大きく深呼吸している。…うーん、大丈夫かな? でも後から出てきた霧切校長に軽く肩を叩かれ、やっと彼にぎこちなくも笑みが零れた。そして審判の挙手を合図に白いラインに立つ。
キリリとした日向クンの真剣な顔に見惚れてしまう。……カッコいいな。じーっと穴が開くほどに彼を見つめていると、またもや放送が入った。

―――位置に着いて…の前に1つだけ。日向先生が速過ぎるとクレームが来ています。
―――ですので、日向先生だけ10m後ろに下がって下さーい!

先ほどまでの淡々とした発声とはまるで違う。放送委員らしき女子生徒は楽しそうにそう宣言した。マイクからは他の生徒の声も拾っているのか、くっくと押し殺すような笑いが聞こえている。当の日向クンはというと初めはキョトンとしていたが、体育委員2人に腕を掴まれ、覚束ない足取りで後ろまで連れて行かれた。これはハンデってやつかな?
「まぁ、日向さんがあんなに遠くに! これは…1位は難しいかもしれませんね」
「10mって意外とあるんだ…」
体育教師としてみたらこのハンデは妥当かもしれないけど。霧切校長も結構足が速いって噂だからこれは分からないね。そんな中、審判がピストルを天へと掲げた。観客達はそれを見て息を潜める。静寂に「位置に着いて、よーい…」と審判の声が響き渡り…

パァンッ!

乾いた音がピストルから放たれたと同時に、走者が勢いよくスタートダッシュをする。日向クンに目が追いつかない…! 風を切って駆ける彼はあっという間に2人、3人と追い抜いている。ものすごいスピードで4人目に競り勝った。10mのハンデを物ともしない軽快な走りだ。すごい…、すごいすごいすごい! すごいよ、日向クン!!

―――トップの霧切先生が今借り物カードを手にしました。さて、何が書いてあるんでしょう?
―――おっと続いて、日向先生もカードに辿り着きました。ハンデからのこの順位! これは予想外です!

息を切らしもせずにカードをパッと手に取った日向クンはすぐに地面を蹴って走る。一方の霧切校長は観客をぐるりと見渡して、何かを探しているのか歩き出した。どうやら日向クンは目的の物に既に目星を付けたみたいだね。彼の様子を見守っていると、あれ…段々こっちに近付いてくる…!?
「こ、狛枝さん! 日向さんがこっちにいらっしゃいますよ!?」
「……え? え、ええっと」
ソニアさんが鼻息荒くボクの腕を掴んで、ゆさゆさと揺らしてくる。見間違いじゃない。日向クンがボクらの方に走ってくる。しかもボクと目がバッチリ合ってるよ!
「狛枝…、先生」
「は? な、何…ですか? あっ、ソニア先生かな? あははっ、あは…ははは」
「……違います。狛枝先生です」
日向クンにしては珍しく抑えたような控えめな声だった。琥珀の瞳がボクを一瞬捉えたけど、すぐに逸らされてしまう。夏の日焼けの名残が残る頬は薄らと赤くなっていた。それを誤魔化すように彼はパッとボクの手首を乱暴に掴む。そのまま引かれてふらつきながら仕切りテープを跨いだ。
「狛枝、先生。走るぞ!」
手首から右手に握り直して、日向クンがゴールテープ目掛けて走っていく。揺れるその背中を見つめながら、ボクも一生懸命足を動かした。握られた手にときめいている余裕なんてない。息を吸って大きく吐く。秋の乾いた空気が喉から水分を奪っていき、少しヒリヒリと痛んだ。一方で反対側の観客席から、霧切校長がフラフープを持って飛び出してきたのが視界の端に映る。そして目的の物を見つけてきたのか、四方から遅れて数人の先生達がパラパラとゴールを目指しだした。でも、遅い。
チラチラと振り返りボクを気遣いつつ、全力で走る日向クン。持っているフラフープに足が突っかかりそうになっている霧切校長。もうゴールテープは間近だ。スピードを落とすことなく向こう側へ、日向クンと一緒に駆け抜ける。勝敗は、一瞬のことだった。

―――霧切先生と日向先生が、今…ゴール!!!!!
―――さて…ほぼ同時に見えましたが、どちらだったんでしょう?

「狛枝先生…、大丈夫か?」
日向クンが声を掛けてくれたけど、とてもじゃないがそれに笑顔で答えられない。ボクは膝に手をついて、ただ呼吸を繰り返すだけだった。社会人になって運動する機会が減ったからか、大した距離でもないのにかなり消耗してしまった。
「はっ…はぁ…。ごめん。ちょっと…息が切れたみたい、っ…はっ」
「…お前って、本当に体力ないんだな。夜はあんなに…、……いや、何でもない」
バツが悪そうな顔して日向クンはそっぽを向く。審判である生徒が彼に話しかけて、カードとボクを見比べた後に戻っていった。ゴール付近では審判や他の先生達が集まって、言葉を交わしている。どうやら日向クンと霧切校長のどっちが先にゴールしたのか審判に確認しているらしい。やっと呼吸を整えられたボクは日向クンに近づいた。ボクと手を繋いでいたのとは反対側の手に"借り物"が書かれているカードがある。走っている時に握り潰されてしまったようで、カードはグシャリとその形を歪めていた。何でボクだったんだろう? それには何て書いてあったの…?
「ねぇ、カード…見せてよ」
「ん? ああ、これか?」
潰されたそれを受け取って中を開く。同い年の人、数学が得意な人、クセ毛の人…。そんな予想を立てていたボクだったけど、そこに書かれていた文字に目が点になってしまった。

『好きな人』

ただそれだけだった。飾り気のないその4文字からボクは目が離せなくなる。好きな人…。この"借り物"の指示で、キミはボクを思い浮かべてくれたんだ…! 不意に目頭が熱くなってしまったが、今はアパートに2人きりでいる訳じゃない。何とか涙を堪えようと必死になった。顔を突き合わせていた審判達は話に区切りがついたのか方々に散っていく。そしてしばらくして、放送用のマイクがキーンとハウリングした。

―――ただいま行いました『借り物競争』の結果を発表いたします。
―――1位は………、日向先生です!!!

その瞬間、周囲から歓声があがった。女子の黄色い声と男子の叫び声。耳に痛いその音量を受けながら、日向クンはボクを見て満足気に微笑んだ。

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56.その後の話 : 10/12
今年の体育祭も無事終わり、今はアパートに帰ってきている。ベッドに寝そべった狛枝が涙を滲ませて俺を見た。「お願い、もっとして…」という懇願の表情だ。俺は黙って頷いて、彼の言う通りに従う。狛枝も俺から与えられるであろう快楽に静かに目を閉じた。
「あっ……ん、く…んぅううう〜! !? やぁ…っそこ、は…ッ、ひなた、クン…!」
「……っ段々、解れてきたぞ…、どうだ? 気持ちいいか? …狛枝。ふっ」
「ん…良いよ。そのまま、続けて…ッ。あ…、ふっふっ…ふぅ…ん…すごく、良い感じ…」
狛枝の唇は半開きになっていて、気持ち良さから涎が垂れている。漏れる吐息が艶っぽくて何とも妖しい雰囲気を醸し出しているが、これはマッサージである。そう、弐大直伝のアレだ。疲れたから何もしたくない!とゴロゴロ転がる我が侭な女王様のために、俺は狛枝に飯を作ってやり、風呂にも入れてやり…。とにかく誠心誠意、彼の身の回りの世話をした。
「今年は、去年より色々仕事任されたから…。いたた…っ! 日向クン、ちょっと強いよ!」
「ああ、悪い。これくらいか?」
「ボクのクラス、最下位だったんだよね。そこまでクラスに思い入れないって思ってたけど、…やっぱりみんなが悔しがるとこ見てられなかったよ」
「今年はデッドヒートというか…どこも強かったよな。まぁ来年があるさ」
そこで狛枝は口を閉ざした。俺も余計なことは言わずに腰骨をマッサージする。こいつの腰、細いなとか思いながら。…突き上げる時とか想像しちまったり。為すがままになっている狛枝を見ていると、無性にムラムラしてくる。ああ、早く夜にならないかな。俺ってやっぱり変態…だよな。
「……ねぇ、日向クン。どうしてボクだったの?」
「え? 何だよ、突然。…あっ、借り物競争の話か?」
「本来なら…ボク達の関係が周囲にバレないように、フェイクにするべきだった」
しんみりと呟かれた言葉に、俺は狛枝の腰から手を離した。
「………」
「罪木さんも日向クンが当然そうするんだと思って、きっと前もってボクに言ってくれてたんだ」
俺には内容が分からないが、狛枝は罪木に何か言われたようだ。確かに彼の言う通りだ。俺達は世間には認めてもらえない隠れ忍ぶような間柄。例え冗談でもそれを匂わせるような素振りはしてはいけない。だけど、カードの『好きな人』という言葉を見て、狛枝以外考えられなかった。隣にソニアもいたのだから、そっちの方がむしろ自然だ。金髪碧眼の美人英会話講師に当たって砕ける凡庸な体育教師。彼女なら俺達の事情も知っているし、誤解を生むこともない。だけど…。
「俺はお前が好きだ。愛してる…。だから嘘は吐けない。ごめんな」
「それは違うよ…、日向クン。ボクは怒ってなんかいない」
ゆらりと体を起こした狛枝の瞳からは涙が1粒ポロリと落ちた。しかし彼は嬉しそうにへにゃりと俺に無邪気に笑って見せる。
「嬉しかった、…ボク、嬉しかったんだよ。キミが堂々とボクを連れ出してくれたってことが…」
「狛枝…」
「ひなたクン…ありがとう。キミに愛されて、ボクは世界一の幸せ者だね…!」
狛枝はボロボロと涙を零しながら、俺に勢いよく抱き付いてきた。タックルに近いそれに俺は受け身を取れず、ベッドに2人で倒れ込む。
「好き…、好きだよ。日向クン。…大好き。愛してる…」
「俺も狛枝を世界で1番愛してるぞ」
狛枝は恥ずかしいのだろか、赤い顔でそれにコクコクと頷いていた。また来年も体育祭で思い出作ろうな。狛枝の頬に唇を寄せると、彼はくすぐったそうに笑った。

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