// Mirai //

43.名前の話 : 7/22
生徒達のいない学校というのは、静か過ぎてどうにも落ち着かない。職員室に突撃してきて仕事の邪魔をされるのは迷惑なことこの上ないのに、いざそういう干渉が全くないと仕事は捗るもののすぐに手を止めてしまう。少し休憩でもするか…。折角外の天気も良いことだし。職員室から見える青々とした空に視線をやり、俺はケータイを持って屋上へと行くことにした。
事務イスから立ち上がる音で、窓際にいるふわふわの白髪頭が僅かに反応する。メガネの向こうのネフライトが数回瞬いた。狛枝の言いたいことを何となく理解し、俺が職員室のドアを指し示すと、彼はこくりと頷いて席からスッと立ち上がる。廊下に出て 屋上への階段に差し掛かろうとした時に、後方から聞き慣れた革靴の音が聞こえてくる。俺は振り向くことなく、そのまま階段を登り、屋上の扉を開いた。


「風……、気持ち良いね」
「ああ。でも暑いな。日陰行くか…」
追いついた狛枝を待って、給水塔が陽光を遮っている西側へと足を進める。狛枝はぐっと体を逸らして、伸びをした。
「んー! パソコンばっかり見てると肩凝っちゃうよ」
「…ふーん。揉んでやろうか?」
「あはっ、それじゃちょっとお願いしようかな?」
そう言って、彼は背中を向けた。狛枝の髪は襟足がちょっと長めだ。その下に見えるほっそりとした首筋は儚げで色っぽい。いや…そこは抑えるんだ、俺! 昨日散々抱いたのだから、今日ぐらいは我慢しないとダメだ。煩悩を振り払って、狛枝の肩を擦ってからぐっと力を入れて揉んでいく。う…、思ったよりも硬いぞ。かなり凝ってるな。
「んぅうう…。ん、きもちぃ……。そこ…、うん。…もっとだよ。ぁ…日向クン…」
「変な声出すなよ!」
「えー? だってぇ……あ、痛っ…。〜〜〜っ、ちょっと! 日向クン力入れ過ぎ!」
「大分解れたぞ! だから終わりだ!!」
「あ! 本当だ。かなり肩が楽になったよ! 日向クン、ありがとう」
ぐるぐると肩を回して、礼を言ってくる狛枝に「どういたしまして」とぶっきら棒に返す。昼間っから何て声を出すんだ、こいつは。溜息を漏らしつつ、狛枝の隣に並んで、下界の景色を眺めた。バカと煙は…と言われようが、俺はこういう開放的な雰囲気が好きだ。狛枝は前に飛行機が苦手と言っていたが、高い所は大丈夫らしく俺と同じように視線を遠方へと向けている。
学校の周辺はあまり高い建物が建っておらず、遠くの景色まで見渡せた。いつも歩いている駅へと続く道は車がチラホラと走っており、ガタンゴトンと音を立てて電車が線路の上を滑っている。まるでミニチュア模型を見ているような気分だ。
「今日は田中クンとホームセンターに行くんだよね?」
「一通りはネットで調べたけど、専門家に念のために聞いておこうと思ってさ。どうだ? お前は一緒に行けそうか?」
「うん。思ったより仕事早く片付きそう…。キミから彼にメールしておいて貰えると助かるよ!」
「了解」
昨日の祭りで狛枝が的屋のおっさんに貰った金魚。今は俺の部屋の水槽で泳いでいる。押し入れに仕舞い込んでいた水槽は幸いにも大きめだったが、泡が出る装置が古くて壊れる寸前だった。だから今日の帰りに金魚の飼育道具を色々と揃えるため、田中にアドバイス役をお願いしようと連絡を入れたのだ。彼は獣医をしていて忙しいのだが、快くその役を引き受けてくれた。手早くメールに狛枝も同席することを打ち込んで、送信をタップする。
「そういえば、金魚の名前は決めたの?」
狛枝に水を向けられて、俺は「いや」と首を振った。ペットなんてしばらく飼ってなかったから、いざ名前を付けようと思っても中々思い浮かばない。ソニアはやたらと「金魚ならぎょぴちゃんです!」と言ってきたが、名前の出所は昔の少女マンガだと言うので謹んでお断りをしてきた。
「……狛枝が貰ったんだし、お前が名付け親になってくれよ」
「え? うーん…。金魚の名前かぁ」
顎に手を添えた狛枝は「金魚、金魚…」と思案顔になった。良くあるパターンなのかは分からないけど、ペットに片想いの子の名前を付けて〜ってのはどこかで聞いたことがあるな。例えば狛枝だったら…。
「ナギちゃんとか?」
「は?」
「いや、コマちゃん…か?」
漏れた呟きに狛枝がじっとこちらに重たい視線を向けた。
「もしかして、キミ…金魚にボクの名前捩って付けようとしてる?」
「別にそのつもりはないんだけど、そういうのもありかなって」
金魚の名前を呼ぶ度に照れ臭くなりそうだ。でも俺的には悪くないと思う。狛枝は恥ずかしがって怒るかな? クールな印象とは裏腹の可愛らしい反応を期待して彼の方を見やると、そこには眉間に皺を寄せ、蔑むような冷たい視線の恋人がいた。
「………。もしそれがありだと言うのなら、ボクはキミの神経を疑うね」
「え…っ、何でだよ? そんなに嫌か?」
「っ嫌に決まってるじゃないか! それでボクが喜ぶとでも思ったの?」
呆れたとばかりに狛枝は肩を落として、イライラと吐き捨てた。キッと睨みつけてくる灰色の瞳に俺はタジタジだ。彼の思いもよらない反応に俺は思わず心の中で「しまった…」と呟いた。そんなに怒ることだったのか。
「悪かったよ、狛枝…」
「は? ちゃんと理由分かってるのかな? ただ単に謝られても意味ないって自覚はある?」
立て続けに言葉を重ねられて返答に困った。狛枝の指摘する通り、俺は彼の怒っている理由が分かっていない。黙り込んでいる俺を見て、狛枝はスッとメガネのブリッジを中指で押し上げる。
「…狛枝、俺には分からない。理由を教えてくれないか?」
「それは考えを放棄したということかな? キミの頭はすっからかんって認めてしまったことになるけど」
「っ!! …理由も言わずに勝手に怒るって、おかしいだろ。ハッキリ言えよ!」
「ボクはキミ自身で気付いてもらいたいんだよ、日向クン。そんなに難しいことじゃない…」
「お前には難しくなくても、俺には難しいんだよ! 何だよ…っ、気付けとか察しろとか。女みたいな言い方だな!」
その言葉を聞いた途端、狛枝は唇を噛んで黙り込んでしまった。瞳が太陽光に透けて、一瞬キラリと光る。涙か?と気付いた時には遅かった。俺の肩を押しのけて、狛枝はその場から踵を返した。革靴が強く地面を蹴る音が聞こえ、やや乱暴に屋上の鉄扉が閉まる。バァンという衝撃音は思わず目を瞑るほどだった。
「……やっちまった、か」
ついカッとなって、思ったことを考えなしに口にしてしまった。最後のは俺が完全に悪い。だけど…、ペットの名前に関しては未だに腑に落ちなかった。そこが分かるまでは狛枝は口を聞いてくれないだろう。思わず溜息が漏れ、俺はその場にしゃがみ込んだ。ケンカなんてしたくなかったのに…。内側に占めるのは後悔以外の何物でもなかった。


「今貴様が所持している…閉ざされし冷酷な箱庭の格式は?」
ホームセンター内を歩きつつ、田中が腕を組んで俺を片目で見やった。狛枝と同じく厚着を好む彼だったが、さすがに日本の夏は蒸すらしく半袖のシャツとシンプルなズボンを身につけている。難解な言葉は相変わらずだが、高校からの付き合いだし、会話の流れを汲めば特に問題もなく何を示しているのかは分かる。
「水槽か? …ああ、それなら大丈夫だ。面積はA4くらいあって、高さも十分だから」
「ふむ、サハギンが1匹ならそれで十分だ。満たす魔水は太陽から注がれる煌めきで浄化して、毒素を抜け。生命維持装置はあるのか?」
「ぶくぶくのことか? 持ってたやつが壊れかけてるんだよな…」
コードの接触が悪いのか、どうも気付かない内に電源が落ちていたりする。新しい物を買うべきだろう。田中はそれを聞いて、「なるほど」と低く呟いた。そして大工道具品が並んでいるコーナーをスタスタ歩いて行き、1番奥へと向かう。ここには何回も来てるのかな? その足取りに迷いはない。ペット達が入れられたショーケースに面したコーナーで立ち止まると、田中は俺の方を振り向いた。
「そういえば、電子書状では珍獣が来ると言っていなかったか?」
「狛枝は…、仕事の都合がつかなくてな」
職員室ではおいそれと話し掛けられず、手を拱いている内に狛枝は帰り支度を済ませて、さっさと帰宅してしまった。出ていく時、彼はこっちを見向きもしなかった。相当怒ってるぞ、あいつ。
「日向よ、どうした。貴様の生命力に揺らぎを感じる…。何か異物を摂取したのではあるまいな? 人間界には我々魔に属する者達にとって、害を及ぼす物質が蔓延しているのだ」
「いや、体調が悪い訳じゃないんだ。その…恋人、と…ケンカしちまって」
田中は「ほう…」と目を細めた。高校時代と比べると派手さはなくなったが、両目が同じ色だと落ち着かないらしく片方だけ茶色いカラーコンタクトを入れている。俺も田中はオッドアイの方が似合ってると思う。売り場にあるペットグッズの品定めをしつつ、田中は目星をつけた物を買い物カゴの中に次々と放り込んだ。
「その話は聞いた方が良いのか?」
「………。ああ。そうしてくれると、嬉しい」
素っ気ない言い方だったけど、俺のことをすごく気遣ってくれているのが分かる。ちょっと捻くれたお節介ってやつだろうか。「ありがとう」と礼を言うと、田中はカーッと顔を赤くして鼻を鳴らした。どう話そうか…。俺はチラリと考える。田中は俺と狛枝が付き合っていることを知らない。それとなくぼかせば分からないか?
「実は金魚の名付けのことで言い合いになったんだ。俺が恋人の名前を捩って付けたいって言ったら…急に怒り出してさ」
「名前か…。貴様が契約をした種族は1種類だと言っていたな。ならばあまりピンと来ないのも無理はない」
言われる通り、俺が飼ったことがあるのはオカヤドカリくらいだ。ペットを飼う習慣はうちにはなかった。でもそれと金魚の名付けがどう関係があるのだろう? 俺は理由が思い浮かばず素直に聞き返した。
「? どういうことだ? あいつは原因が分からないのに謝ってくるなって言うんだ。俺が悪いのは分かってる。…だから、謝りたい。頼む、田中。理由を教えてくれないか?」
「……逆の立場で想像してみろ。その恋人とやらが貴様の名前から取った名を、契約した獣に名付けて呼んでいたらどうだ?」
田中に言われて、俺は「うーん」と唸る。丁度近くのショーケースで豆柴がしっぽを振って、こっちにキャンキャン元気良く吠えていた。黒目がちの瞳がとても可愛くて愛らしい。狛枝は確か犬派だったよな。もしも狛枝が豆柴にニッコリ笑いかけて、「はークン」なんて呼んでいたら…。
「………っ、何か腹立つぞ」
腹の奥底からイラッと何かが込み上げてきた。
俺と狛枝が名字で呼び合う理由はただ1つ。職場でのことを考えてだ。普段から名前で呼び合っていたら、ふとした瞬間に学校でも呼んでしまう可能性もある。それを避けるために互いを名字で呼ぶ約束をした。もし俺よりペットのことを名前で呼んでいたら、嫉妬しか湧いてこない。実際にそうされた訳じゃないのに、腸が煮え繰り返ってくる。
「他の相手…ましてや動物に自分を彷彿とさせる名前を付けるとどうなるか、理解出来ただろう。ペットは人よりも命が短い。死んでしまった時にその名を呼んで泣く恋人を、お前はどうやって慰める?」
「複雑な心境だな…」
「サハギンとはいえ、それは生きている1つの命…。自己満足ではなくペットのことを思って、名を付けてやるのが正しいと俺様は考えている。だがこれは飽くまで第三者としての意見だ。聞き流してくれて構わない」
「田中……」
最後の品物だったらしい砂の袋を買い物カゴに入れて、田中はずいっとそれを俺に突き出した。やっと分かったよ、狛枝。傷付けてごめんな。帰ったら謝らせてくれ。こんなことで拗れるのは嫌だ。それと金魚の名前、一緒に考えよう。
「本当にありがとうな、田中…!」
「フッ…、礼を言われるまでもない」
買い物カゴを受け取って、レジまで歩いていく。もう言葉を考えた。膨れっ面のお前の手を握って言うんだ。


『……日向、クン?』
『ごめんな、狛枝』

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44.手繋ぎの話 : 7/26
ボクと日向クンが勤めている学校は、夏休みに夏期講習を行う。夏休みは学生の本分を忘れずに規則正しい生活を送り、勉強のみならず運動や遊びにも時間を使ってほしい。表向きはこうだが、実際は勉強してほしいと考えるのが学校である。なので夏期講習という訳だ。講習は事前に希望者を募って、科目ごとに1日1コマの特別授業を行う。基本的には古文・現代文、数学UB、英語、世界史、日本史、化学、生物。最近の子は理数系に滅法弱いのか、ボクが担当する数学は満員で抽選になる始末。不本意ながら全科目トップだ。
これなら夏休み前と大して変わらないじゃないか…。黒板にチョークを走らせながら、額を落ちる汗を拭う。子供の頃は、教師になれば学生と同じく長期休暇が取れるんだと信じていた。1ヶ月の休みを取って、南の島でバカンス三昧。それが都市伝説だと分かったのは、大学で教育実習へ行った数年前のことだ。働き始めて貰える1週間の休みの内、2日しか使えなかった年もあったけど、何とか休まずにこの職業を続けていた。日向クンと付き合うようになってからは体調を崩したことはない。
上方からの微風を感じながら、カツカツと深緑色に白で数式を刻んでいく。書き終わりカランとチョークを落とすと、教室へと振り返った。幸いにも学力アップを目的とした真面目な生徒ばかりが授業を受けている。みんな真剣にボクが黒板に書いた式をノートに取っていた。うん、授業自体は普段より楽かもね。
「今黒板に書いた問題を全部解いて下さい。3問15分。終わったら当てます」
「「ええ〜!?」」
「さっきやった公式使えば簡単だから。グラフもちゃんと書いて下さい」
生徒に問題を解かせるように指示をして、ボクは一息吐いた。この学校は私立校なので教室にはエアコンが付いている。だから教室の窓は閉めっぱなしだ。でもこれじゃ教室内の空気が籠るよね? そう言い訳をして、ボクは教卓側に1番近い窓に近付いた。留め具をパチンと外し、カラカラと窓を開ける。
「ふぅー…」
外からの熱気を含んだ風が流れ込んできて、エアコンの冷気と混じり合う。校庭が見渡せる側の教室なので、外では部活の掛け声やホイッスルの音が飛び交っている。目を皿のようにして探すと、バテて地面に転がっている陸上部員の中に、指導しているジャージ姿の教師を見つけた。日向クンだ。俺なんか没個性だ…と本人は言うけども、ボクからしたら彼は案外目立つ。髪型とか見た目とかじゃない。彼がいるだけで周囲がパッと明るくなるような…。頬杖を突いて、ボクはじーっと彼を観察した。うーん…夏休みに入って、ちょっと焼けたかなぁ。
『ほら、さっき休憩入れたばっかだろ! シャトルラン、もう1本だ!』
日向クンの声量は大きいから、ボクがいる所にまで良く聞こえる。当たり前だが、向こうはボクに気付いてない。怒鳴り散らしながらも部員にフォローを入れたりして、日向クンらしいなとボクはクスッと笑みを漏らした。
「狛枝先生ー! ちょっと分かんないとこあるんですけど〜」
「どれ?」
あーあ、人が折角恋人観察している所を…。微妙にガッカリしながらも窓を閉めて、ボクは手を上げた生徒へと歩いていく。教えている生徒達は高校2年生。高2とあらば、この時期は大学受験を強く意識している者も少なくないはずだ。何人かから個別に質問を受けながら、腕時計を見れば、指定時間の15分まで少しという時間だった。
黙々と問題を解いていた周りの生徒も、解き終わったのかリラックスした面持ちだ。その中で1番後ろの席に並んで座っている男子と女子は、仲良くノートを見せ合いながら楽しそうにしていた。女子の方が男子のノートを見ているらしい。彼女は「はい、あってますよ」と男子に可愛らしく微笑みかけている。…ふんっ、イチャついちゃって。忌々しいことこの上ないね。
(彼女に教わるんだったら、ボクの講習取らなくても良いじゃないか…!)
ボクだって、もし日向クンと高校生の時に出会ってたら…。そう考えてみたけど、やっぱり今のようにいかないんじゃないかと一瞬で答えが出てしまう。特進クラスのボクと普通科だった日向クン。当時の凝り固まった考えのボクなら、進んで彼と親しくなろうとは思わなかった。というか眼中にすら入らないだろう。だとすると彼と出会ったタイミングってすごく良かったのかな? そんなことを思案しながら、ボクは並んだ机の間を歩いて行き、教卓へと再び登る。
15分が経った。1問目は既に誰を当てるか決まっていた。というか全部あいつで良いんじゃないか?
「桑田くん、前出てきて。…3問全部解いて下さい」
我ながら投げ槍感が声に出ている。指された最後列の赤毛の男子は「へ?」と目をパチクリさせながら顔を上げた。


講習が終わり、起立礼をして解散になる。例のラブラブカップルは手を繋いで教室を出て行った。…そうだよね、夏休みだもん。真面目に勉強するのも大切だけど、好きな人と一緒にいれるということだって掛け替えのない幸せだ。あれが正しい夏期講習の受け方だよ。
誰もいなくなってしまった教室でボクは細い息を吐いた。…あ、そうだ! 日向クンは? 早足で窓へと向かい、校庭の方を見下ろしてみる。でも部活動は終わってしまったのか、アンテナ頭のジャージはどこにもいなかった。パラパラと部員達が校舎へと帰っていく姿しかない。
「はぁ…」
見逃しちゃったみたい。互いに仕事をしているから難しいんだけど、あの一瞬だけっていうのは短過ぎる。もっともっと、彼を見ていたかったのに…。ガックリと肩を落として、窓から離れようとしたその時だった。
「っ狛枝先生、講習…終わりました?」
ガラガラと教室のドアが開き、聞き覚えのある大好きな声がボクに呼び掛けてきた。膝がちょっと薄汚れた海老茶色のスエット、上に着ているTシャツは汗塗れで布地が透けている。腰に巻かれたジャージは結び目が解けそうになっていた。体から湯気が出ていて、少し息も上がっている。部活が終わってすぐ駆け付けてくれたのなんて、すぐに分かった。砂埃がついたスパイクのまま、日向クンは教室に入ってきた。
「……俺のこと、見てたのか?」
「え?」
「部員が『狛枝先生がこっち見てた』って騒いでて…。ごめん、俺……気付かなかった。あ、べ、別に俺のこと見てたんじゃないよな? あはは…、自意識過剰かっ。そうだよ…な」
「見てましたよ、日向先生のこと」
ボクはキミを見てた。キミだけを見ていたんだよ。率直に言葉を返すと、日向クンは黙ったまま顔を赤くして「そ、そうか」と視線を逸らす。そのまま無言になった。エアコンの小さな運転音だけが聞こえてくる。私的な言葉と公的な立場が混同した今の状況に、ボクは今更ながらドキドキしてきた。
ボク達以外、誰もいない教室。静まり返った廊下。すぐ近くにいる日向クン。筋肉質な腕の先についている大きな手が視界に入った。あのカップルみたいに、日向クンと手…繋ぎたいなぁ。ボクは我慢出来なくて、彼の元へと静かに歩いて行った。
「どうした。…狛枝先生?」
「手、繋ぎたくなったから」
ゴツゴツした日向クンの手を取ると、少し汗ばんでいた。近くで見ると思ったより肌の色は浅黒く、海のようなしょっぱい匂いがする。きゅっきゅと力を込めて握ると、日向クンは照れているのかますます顔が朱に染まった。でも彼も同じように優しく握り返してくれて、ボクは幸せな気分でいっぱいになる。もうちょっと繋いでいたい。出来るならこのまま並んで帰りたい。…あ、そうだ! 我ながら妙案を思いついたかもしれない。俯いていた顔を上げると、日向クンは「狛枝…」と呟いた。
「汗臭い…」
「え」
「日向先生、汗臭いです。シャワー浴びてないんですか? これじゃ女性に失礼ですよ」
「ええええ!?」
意味が分かってない日向クンを引っ張って、廊下に出る。日向クンはボクに引き摺られるようにして、ただついてくるだけだ。手を繋いで、一緒に歩く。たった数分にも満たないけれど、ボクは望みが叶って大満足だった。

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45.星空の話 : 8/2
青々とした樹木が茂る坂道から体操着姿の陸上部員が走ってくるのが見えて、俺は手元のストップウォッチを確認した。思ったより時間が掛かっている…ような気がする。顎を上げてぜぇぜぇと息を吐きながら、やっとトップの奴らが運動場に戻ってきた。
「日向センセー、もー疲れましたよ〜! はぁ…っ、み、みずー!」
「…そーっすよ。去年は、…っなかったじゃないっすか、こんなメニュー」
「お前らな…。そんなダラけてるから、大会でも良い成績残せないんだぞ?」
山を下りてきた部員2人に開口一番文句を言われたが、俺は腕を組んでその言葉を論破した。すると彼らは口を噤んでしまう。
「「………」」
「他の奴らはまだなのか。…全員が戻ってくるまで休憩してて良いぞ」
タイムを用紙に記録してから日陰にある休憩スペースを指差すと、それを聞いた2人はうんざりしたように顔を見合わせてから、渋々そっちへ移動した。「何かアンテナ張り切ってね?」「あっ、おまえもそう思った? ウゼーよな」だって? 全部聞こえてるからな!
今日は陸上部の夏合宿2日目だ。長野は東京より北にはあるものの、海がなく盆地なので昼間は都内と変わらず暑い。ジリジリと照りつける太陽の下、陸上部員に檄を飛ばしながら俺もひたすら走り込みだ。汗がダラダラと止まらない。頭から水を被ったかのようにびしょ濡れだった。熱中症にやられないよう適度な休みを取りながら、狛枝は今頃天文部員達と一緒に新幹線に乗っているのだろうかと俺は思いを馳せた。

夏休み前のことだ。俺が学年主任、他の部活の顧問、合宿所など方々に掛け合った結果、狛枝が顧問を務める天文部も合宿が同じ時期に重なり、去年とは比べ物にならないほど楽しみなイベントと化してしまった。文化部であるがゆえ、天文部は1泊2日のスケジュールとなっており、陸上部より1日少ない。最終日を重ねたので1日目は陸上部だけだったが、今日から天文部と一緒に狛枝が来るのだ。アパートや学校以外の場所で、愛しの恋人に会える…。それだけで俺は陸上部員にも丸分かりなほどテンションが高い。部活動に熱中し体を動かしている内に、あっという間に時計の針は回り、昼になった。
「とりあえずここまでだ。昼食の後…、1時半にはエントランス集合! お疲れ!」
「「「「「っしたー!!!」」」」」
早く狛枝に会いたい。ゆっくり会えるのは多分消灯を過ぎた夜半頃だろう。俺のアパートで何度も共に夜を過ごしているっていうのに、何でこんなに気分が高揚するんだ? 普段とは違う場所で狛枝に会うってことは、彼との思い出が1つ増えたことになるから。いや、それもあるけど…。いつもは見られない狛枝の顔を見ることが出来るからっていうのが、最大の理由かもしれない。


午前の練習を終えて、陸上部員達と食堂で昼食を食べていると、エントランスから数人の女子生徒達の話し声が聴こえてきた。食堂からガラス扉を隔てたすぐそこがエントランスなので、声の発生源はすぐに姿を現す。大人しめの少女達に囲まれるようにして、白髪のすらりとした美丈夫が進み出て、合宿所の管理人に丁寧に頭を下げていた。彼は周囲の少女達に何やら言うと、こちらに視線をやり、綺麗に微笑んで手を振る。狛枝は本当にカッコ良くて可愛い。だが俺が笑って手を振り返そうとした途端、陸上部の面々はどよどよと騒がしくなった。
陸上部は所属人数が多く、男女は別だ。俺が担当しているのは男子陸上部だけ。つまりここにいる部員は男ばかりだ。それなのに同性である狛枝を見た途端、顔を真っ赤にして挙動不審にしている奴らが両手を優に超えている。
「………、くそっ」
狛枝の色気に当てられたのは百歩譲って許してやろう。だけど性的な目で見るような奴にはそれなりの特別メニューをくれてやらないとな。手に持った箸をへし折りたいのを我慢しつつ、俺は勢いよく白米を口に掻き込んだ。


……
………

消灯時間である10時はとっくに過ぎた。絨毯の敷かれた廊下を歩き、俺は部員達が眠っている部屋を片っぱしから見回る。昼間の練習が相当堪えたのだろう。暗闇の奥から静かな寝息とうるさい鼾が混じり合って聴こえてきている。夜更かしして騒いでいる輩は1人もおらず、全員ぐっすりと寝入っているようだった。かく言う俺もかなり疲れている。体のあちこちが筋肉痛で痛いし、目を閉じればすぐさま眠りの世界へと旅立ってしまいそうだったが、寝る訳にはいかない。
狛枝が待ってるんだ。最初は宛がわれているどちらかの個室に集まろうと話していたが、彼は思い出したように「日向クンと、星が見たいな…」と呟いた。そういえば七夕の日に『長野は星が綺麗』って狛枝と話をしてたんだ。だから合宿所の屋上で人目を忍んで、俺と狛枝は会うことにした。

合宿所の隅から出ている細い階段を登り、錆ついた若草色の金網扉を開くと、大して広くもない屋上に出た。周囲の木々より上の位置にある屋上は、風を遮るものが周囲になくとても涼しい。縁部分は地面より高く段になっていて、扉と同じ色のフェンスはぐるりと囲っている。良く見る屋上の風景というやつで面白くも何ともない。ただ中央にはキャンプ場にあるような、がっしりとした作りの木のテーブルと長イスが置いてあった。イスではなくテーブルに寝転んでいる人影に気付いた俺はそちらの方へと近付いて行く。
「早いな。もう来てたのか…」
「部員の数はキミの所の半分以下だよ? それに大した活動してないしね」
狛枝は仰向けになり、空を見上げたまま俺に返事をした。180cmの長身はテーブルの上には収まり切らなかったようで、足はだらんと端から下ろしている。彼の視線を辿り、同じように上空に視線を移すと、そこには目の覚めるような光景が広がっていた。
「………っ!」
「すごいよね…。まさに自然の神秘だよ」
うっとりとした狛枝の声色に俺は言葉もなく頷いた。正に彼の言う通りだった。濃紺の空に敷き詰められた大小の粒がそれぞれ眩く光を放っているのだ。もう数え切れないくらいたくさん。こんなに多くの星を見たのは初めてかもしれない。良く見ると色味も微妙に違っていて、赤みや青みを帯びていたり、白っぽかったりと個性がある。
「日向クン、隣においでよ。普通に見上げるのと寝転がって見上げるのは全然違うんだ」
トントンと自分の右隣を叩いて、狛枝は俺に微笑みかけた。大きめのテーブルとはいえ、大の男2人が乗ったらさすがにギリギリだ。俺は狛枝を落とさないように気を付けながら、ゴロンと彼の横に寝転がる。体を倒したことで、少しだけ奥底で大人しくしていた睡魔が騒ぎ始める。だけど視界の端から端まで全てが星空で埋め尽くされている夢のような世界に、その睡魔も衝撃を受けたのか静かに息を潜めてしまった。
「何だか、現実じゃないみたいだ…」
この美しさは日常とはあまりにもかけ離れている。本当は俺はもう眠っていて、夢の中でこの星空を眺めているのかもしれない。そう言われたら、思わず納得してしまうほどだ。
「……ここは現実だよ。地球上に届く光の先は、必ず星がある」
「こんなに…たくさんあるのか」
「日向クン、あっちの方…見えるかな?」
狛枝の白い腕が左から伸びて、斜めの方角を指差した。そこにはぼんやりとした灰色の靄が地平線に向かって落ちていて、そこに星々が纏わりつくように集まっていて、帯のようになっていた。これって、もしかして…。
「天の川…、綺麗だな。都会じゃこうもいかないもんね」
「…ああ」
頭を動かして、狛枝の方を盗み見る。瞼に収まった美しいネフライトを瞬かせながら、彼は夜空に見入っていた。本当に星が好きなんだな。夢中になっている狛枝の瞳に星が映り込んで、キラキラと輝いている。彼が俺に気付かないのを良いことに、しばらくの間その煌めきに見惚れていた。だけど俺の視線を察知したのか、すぐに狛枝はこっちを見た。
「っ! 日向クン…? ボクなんか見てないで、星…見なよ。こんな満天の星、滅多に見られないんだし」
「そうだな。でもその満天の星と狛枝の組み合わせも滅多に見られないぞ。……狛枝、綺麗だよ」
「〜〜〜〜〜っ!! ほ、ほんとに…っ、キミって人は…。………クサ過ぎにも、程があるよ…っ」
狛枝は目を見開いた後にプイッと向こう側を向いてしまった。ぶつぶつと文句を言っているようだったが、ここまでは聞こえない。いつも冷静沈着でしっかりしている分、狛枝はこういう不意打ちに滅法弱い。そしてその時に見せる反応の可愛らしさといったら極上だ。キッと睨み付けてくる狛枝。『見ないでよ』とでも言うようにしっしとジェスチャーされて、俺は忍び笑いを漏らしつつ、視線を真っ直ぐ前へと向けた。
「なぁ、今日は月…出てないみたいだけど。新月か?」
「……いや、確か下弦の月で昼間に出てたかな。だから今日は絶好の天体観測日和さ」
「そうなのか」
「………。…んんぅうううっ。あれが夏の大三角、みたい…だね」
「ん? どれだ? …教えてくれよ、狛枝」
一際輝いている星はいくつかあったが、素人の俺ではどれがどの星座だか全く分からない。ここは天文部顧問である狛枝先生のご教授を賜ることにしよう。俺が頼むと狛枝はすぐに人差し指を上空に向けた。
「1番分かりやすいのは琴座のベガかな。あの真上にある明るく輝いてる星。これが七夕の織姫星でもあるんだ」
「つまり狛枝か」
「……その恥ずかしい例え、止めてくれないかな?」
狛枝は溜息混じりでそう呟く。低い声で怒りを俺に伝えてきているが、ほんの少しだけ声が上擦っているのが分かった。俺はそれに構わず言葉を続ける。
「それで、俺はどこにいるんだ?」
「はぁ…。ええっと、日向クンは……、天の川を泳ぎ始めてるみたいだね」
「……どれなのか教えてくれないのかよ」
「自分が彦星って言うなら、自分で見つけなよ」
「………。……あっ、もしかしてあれか?」
彼から与えられた天の川というヒントを頼りに、光の帯を下から辿っていくと他の星よりも光っているのを1つ見つけた。それを指で指し示すと狛枝は「そう、正解だよ」と俺を見て目を細める。
「彦星は鷲座のアルタイル。七夕のお話通り、織姫と彦星は天の川を隔てた東と西の岸にそれぞれいるんだ」
「これで2つか。残すは後1つだな。確か白鳥座のデネブだったか…」
「他に明るい星なんて、1つしかないよね。ベガとアルタイルを線で結んで、左手側にあるんだ。丁度天の川に掛かってるのがデネブだよ」
狛枝の分かりやすい説明のお陰で、すぐにデネブを見つけることが出来た。
「……お、あれだな。3つを結ぶと夏の大三角って訳か」
「もう1つ、夏の星座で有名なのが蠍座だよ。天の川に重なってるんだけど、地平線の近くの赤い星…」
「んー……。あれ、か? ちょっと赤いよな」
「蠍座のアンタレス。蠍の心臓って良く言われるね。他のは…、また次にしようか」
「狛枝、教えてくれてありがとな」
「ふふっ、どういたしまして…」
さらりと風が俺達の頬を撫でた。昼間の暑さとは大違いの涼しい夜の空気は澄み切っていて、呼吸をする度に肺が洗われるようだ。筆舌に尽くしがたいほど美麗な、天空に輝く数多の星。言葉もなく眺めていると、視界の右上でサッと細い光が走った。そして一瞬の内に消えてしまう。
「流れ星だ……」
俺がぽつりと呟くと、隣で狛枝がひゅっと息を飲んだ。どうやら彼も偶然見ていたらしい。流れ星に3回願い事をすると叶う。そんなジンクスを思い出して、俺は思わず隣に置かれた狛枝の手の甲を上からぎゅっと握った。いきなりのことにビクッと腕を跳ねさせた狛枝だったけど、くるりと掌を返して、優しく俺の指に自分の指を絡ませてくれる。所謂、恋人繋ぎだ。
「あ……っ」
狛枝が小さく声を上げた。まさかまた流れ星を見つけたのか? 俺もキラキラと輝く空を集中してじっと見る。すると今度は左の方でスゥと弧を描いて、星が落ちて行った。1秒にも満たない、3回願うには短過ぎる時間だ。光った刹那、狛枝の手がきゅっと握り返される。
「………」
「………」
静かな静かな夜だった。満天の星空を、いくつも星が流れていく。左手の中の温かい狛枝の温度を感じながら、俺は何度も願いを掛けた。狛枝と一緒にいられますように、幸せな毎日を彼と過ごせますように、…後は、何だったかな。俺は狛枝が好きです。これ以上ないくらいに好きで、愛してる。愛してます。俺には彼しかいません。……これだと、ただの宣言だな。
「日向クン……?」
すぐ隣にいるはずなのに、何だか狛枝の声が遠い。夜空に散りばめられた星もぼんやりと滲んで、目の前が全部キラキラと星の海になって…、……、………。…真っ暗、だ。


……
………

「あーあ、寝ちゃった…」
握っていた右手から力が抜けるのを感じてボクが起き上がると、そこにはすやすやと寝息を立てている日向クンの姿があった。無理もないよね…。陸上部を指導して、昼間はずっと動きっぱなしだったんだから。疲れていたのに眠いのを我慢してボクと星を見てくれた彼の優しさにひっそりと感謝する。
嬉しかったよ、キミと星を見れて…。天の川、夏の大三角、そして流れ星。ボクは何度も流れ星にお願いした。日向クンと一緒にいたい、いさせて下さいって。もう1度、漆黒の闇夜に浮かぶ星を見上げた。吸いこまれてしまいそうなくらい、綺麗だ。アパートや学校とは違う、現実離れした星達の世界。今夜の記憶はきっと色濃く残り、いつまでも思い出として語られるんだろう。キミとボクが、一緒にいる限り…。
「……おやすみ、日向クン」
今は寝かせてあげよう。ボクは穏やかに眠る彼の秀でた額にキスを落とし、再び彼の隣に横たわった。

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46.納涼会の話 : 8/10
『Time:20XX/07/30 4:02
 From:澪田
 Sub:納涼会っす((/´3`)/
 あっちぃ夏なんてブチかませ〜!!
 今年もやってまいりました!
 納涼会やるっすよん☆

 今回は参加者多いから
 せまいけど1フロア貸しきりに
 した!!楽しんでって!!

 詳細は以下のとうりっ。
 モチ飲みホー!('ロ')』

こいつは何つー時間にメール送ってきやがったんだ。オレはメールの文章をスライドしながら、改めて呆れちまった。下に書かれた日付は紛れもなく今日8/10だ。指定された時間まで後10分っつートコロで。更に言うと、目の前に見えるのは納涼会会場である店だったりする。
オレはケータイをポケットに仕舞い、キョロキョロと辺りを見回した。近くに服を着たマネキンがディスプレイされているショーウィンドウが目に入ったので、そそくさとその前に移動し、髪型や服装に変なとこがないかチェックした。…あー、特に問題ナシ、か? 何たって今日はあのソニアさんもご参加されるらしいからな! 粗相がないようにキチンとしなければなるまい。
日向と狛枝はソニアさんと同じ職場で働いているらしい。くっそ羨ましい!! 平然とあんな美人と仕事をするなんてあいつら出来るのか!? 無理だろっ!! …あ、出来るか。日向と狛枝は…、付き合ってんだからな。正反対な性格の2人が男同士であるにも関わらず恋人だなんて、今でも信じらんねー。日向は「全て覚悟の上だ」って随分前に言ってたっけ。本気の恋ってやつ?
「あ、左右田じゃん。ちゃんと迷わず来れたみたいね!」
「あれれ〜、左右田おにぃ?? こんなとこで何やってるの〜?」
背中から声を掛けられて、ハッとするとガラスに小泉と西園寺が映っていた。振り返るとそのまんま2人が立ってて、その内西園寺はぷーっと頬を膨らませて、オレをバカにするように笑っている。
「べ、別に何もしてねーよ」
「ぷぷっ、バレバレなんですけどー。ソニアが来るからカッコつけよーとしてるんでしょ〜」
「かなり目立ってたわよ、あんた……。ナルシストみたい」
片目を瞑って肩を竦める小泉に、オレは「うっ」と言葉に詰まる。ソニアさん、ナルシストはお嫌いでしょうか…。いや、だいじょぶっだいじょぶだ! お優しいソニアさんならそんなこと気にしませんよね!? 「さっさと行こーよー」と西園寺に腕を乱暴に引っ張られ、店への階段を登ろうとしている時だった。
「あ! 日向クン、左右田クン達がいるよ。どうやらここみたいだね」
「…良かった。遅刻するかと思ったけど、ギリギリセーフだな」
道の向こうから姿を現したのは長身の男2人。ニコッと爽やかな笑みを浮かべる狛枝のすぐ隣で、日向はホッとした顔つきで腕時計を見ていた。…何か近くね? げんこつ1つ分しか空いてない2人の間隔に、オレは軽くショックを受ける。やっぱり普通に近いぞオメーら!!
「小泉達も今来たのか?」
「うん、本当ついさっきよ。左右田がそこのショーウィンドウで」
「ばっ!! 小泉っ、そこは言わなくていーだろ!?」
「はいはい」
「わーい! 日向おにぃだぁー!! …ちょっとぉ、ロリコンキモ男はジャマ!」
キャーと黄色い声を上げた西園寺は素早い動きで日向と狛枝の間に割って入り、狛枝をぐいぐいと押す。押された狛枝は「あはは…」といつものようにヘラヘラしている。西園寺の行動には慣れているみてぇだな。特に咎めようともしない。意外にも眉間に皺を寄せてムッとしたのは日向の方だ。女にまで嫉妬するのかよ、こいつは…。日向より背が低い西園寺はそんな奴の表情に気付かないまま、たんたんと軽やかに階段を上がっていった。


「ふぁあ…、もうちょっとで充電切れちゃうなぁ。コンセント借りたい…」
「んん〜。ぼくには敵わないけど、…中々良い味付けだねぇ。んっふふ〜」
「ひゃああああん!! お、お水を…零してしまいましたぁ〜!」
「あぁ、慌てないで蜜柑ちゃん! …ねぇ、ちょっと! ボーっとしてないで、おしぼり貰ってきてよ」
「へーへー」
何故か別テーブルに座っているオレに小泉が指図し、命じられるままに店の人からおしぼりを貰う。ついでにビールのおかわりも頂く。澪田が予約した納涼会の会場は思ったよりも広かった。仕切りなんかは一切なくて、深く座れるソファとローテーブルがいくつも並んでいる。普通の飲み屋とは違ってかなりリラックス出来た。飲み会に呼ぶメンツは基本的に高校の同級生だが、そこからの派生メンバーも数多く参戦していた。ソニアさんもその内の1人だ。
彼女は以前1回だけ参加してくれた時があって、そこで一目惚れしてしまった。ファンタジー映画から飛び出して来たような、麗しい西洋の姫君のようだった…。ビールを片手に元の席に座り直したオレの斜め向かいに、グラスを片手に和気藹々とお喋りをしているソニアさんがいる。オレ…貴女の隣、隣に…行きたいです…! でも中々勇気が出なくて、オレは腰を上げられない。いや、左右田 和一。そんなんじゃダメだ! いつ行くの? ……今でしょ!!
「よし……」
待っていて下さい、ソニアさん。ぽっかり空いてしまった貴女の隣の席に、今オレが参ります。ぐっと足に力を入れて、立ち上がろうとしたその瞬間だった。
「うっきゃー!! やっと眼蛇夢ちゃんが来たっすー!」
澪田の後ろからやってきたのは田中だ。腕を組み、不敵な笑みを浮かべながら現れやがった。何かムカつくな。
「ふはははは…っ、待たせたな。最後の使者である俺様が来たからには、この宴…朝まで盛り上がるぞ…っ!」
「あっ! ここの貸し切りは10時までなんで、そこんとこよろしくぅ!!」
田中のトンチンカンな発言に澪田がさらりとフォローを入れる。言葉に詰まり、視線を泳がせた田中だったが、澪田に促されて手前側の空いている席―――ソニアさんの隣―――にどっかりと腰を下ろした。な、な、な、何だとおおおおおお!!!?
「れでぃーすえんどじぇんとるめーん! さてさて、チコク組も全員そろったんでっ、もいちどカンパイしましょー!!」
テンション高く澪田がグラスを掲げ、声を張り上げる。何だよっ、遅刻して迷惑掛けた上に、ソニアさんの横をちゃっかりと陣取りやがってちくしょう!! ……泣きたい。
「みんな、グラス持ったっすか〜!? そんじゃカンパーイ!! ひゃっほううううう!!」
「応ッ、乾杯じゃああああ!!」
「かんぱーい、酒も良いけどメシッメシッ!! 肉追加で持ってこい!」
「そうだな、まずは肉だ。チープな感じの料理を頼むぞ」
会場にいるめいめいが近くの奴らと乾杯をする。終里と弐大はものすごいスピードで食い散らかしていて、そこだけ別世界だ。九頭龍は早々にリタイヤしたらしく、少し離れたソファーに寝転がって、辺古山の介抱を受けている。オレは不本意ながら、たまたま隣に座っていた狛枝とカチンとジョッキを合わせる。ああ、何で折角の飲み会にまで来たってのに、野郎なんかと乾杯しなけりゃならんのか。はぁ…。頭を抱えつつ、ビールを煽ってるともう1つのテーブルから強烈な視線を感じた。
「……うわぁ」
吊り気味の黄金色がオレを睨みつけていた。日向だった。普段の人の良さなどどこかに消えちまったのか、尋常じゃないくらいに強い視線だ。何だか殺意すら混じっているように思える。オレが狛枝と乾杯したから…!? それだけでそんなに睨むのかよ!
「そうだクン、どうひたの…?」
「ひぃ!」
舌っ足らずの口調で、狛枝が屈んで下から覗き込んできた。ふわっとした薄い色の髪が揺れている。カクテルか何かなのか両手で小さなグラスを持っている。お前はリスか!とツッコミたくなるような持ち方だ。色白の顔の、頬だけがほんのりピンク色に染まっていて、視線も覚束ない。あー、こりゃ完全に酔ってんな。
「狛枝オメー、大丈夫かよ。酒そんな強くねェんだろ?」
「んん〜? だいじょうぶらよ! あのねこれねっ、さっきぺこ山さんが『ぼっちゃんが飲めないから』って持ってきれくれたかくてるなんだけど、すごいおいひぃんだ! そーだクンも一口飲んでみる?」
ニコニコと無邪気な笑みを浮かべながら、狛枝がずいっと出してきたカクテルグラス。中には生クリームなのか白っぽい酒が入っていた。グラスの底の方はその白にブラウンが混じっている。…チョコレートか? 何だか見るからに甘そうな酒だった。グラスを差し出されたのと同じタイミングで、向こう側から感じる視線が更に強くなる。止めろ、止めてくれ、日向ァ!! オレは無実だ。何もしてねーのにそんな睨むなよッ! ってか何でオメーら離れて座ってんだ! めんどくせぇえええ!!
「いや、いらねーから。…オメーが貰ったんなら、オメーが飲めよ」
「そ、そうだよね…。ボクなんかが口をつけたカクテルなんて、飲みたくない…よね。ごめん、左右田クン」
しゅんと肩を落とす狛枝。目を潤ませて、ちびりちびりとカクテルを飲んでいる。若干泣きそうになってるっぽくて、少し悪いことをしたか…とオレは反省した。しかしあんまりこいつと関わると、後で日向が怖いしな…。チラリと左を確認するとギリギリと歯を食い縛り、オレに眼を飛ばす日向の顔が見えた。こ、殺される…! 断っても殺される!!
「狛枝! そ、その…気持ちはありがたいんだけど、……あぁー。ほら! そんなにウメーんなら、日向に飲ませてやれよ。なっ? オレ、呼んできてやっから」
っしゃー、ナイスだオレ! この返しは完璧だろぉ! これで酔った狛枝から離脱出来るし、クソめんどくさい日向も一気に片付けられる。大団円だ。ソニアさんからは離れることになってしまうが、致し方ない。背に腹は代えられねーんだッ! オレはビールジョッキを手に取って、足早にそこから離れた。するとソニアさんがパッと席を立ち、えっ……ウソ…!! オレの方に近付いて……くる…!?
「ごきげんよう! えーっと、ソーダ、さん…でしたっけ?」
「は、はい!! そ、そうです、そそそ、左右田ですッ!!」
「お話は聞かせていただきました。わたくしあちらのテーブルにお邪魔したいので、ソーダさんはこちらへどうぞ! 日向さん呼んでまいりますね!」
「おお、おおおっ、お願いしまッず!!」
ヤベっ、緊張し過ぎて噛んじまった! やったぁあああ! ソニアさんとお話し出来たぞ! 間接的とはいえ、日向と狛枝のお陰だ。ソニアさんのぬくもりが残るソファに味わい深く座る。隣が田中だけど知らん。そしてソニアさんが呼んできてくれたのか、日向がグラスを持って狛枝の元へとやってきた。最初はオレと同じでビールだったけど、今は焼酎ロックに移ったらしい。氷の浮かんだグラスからカラカラと小さな音が響く。日向が自分の所へ来てくれたことがかなり嬉しいのか、狛枝はへにゃりと表情を崩す。日向の前だとあんな顔すんのか、あいつ…。初めて見たぜ。
「ひぁたクゥン…」
「狛枝、お前…顔赤いぞ? 飲み過ぎんなって言ったのに」
「んぅ…、だってぇ。おさけ、おいしいんだもん!」
日向は狛枝の隣に密着するように座り、子供相手にするみたいによしよしと頭を優しく撫でた。ただそれだけなのに狛枝は気持ち良さそうに目を瞑って、とろんと甘々な表情を浮かべるのだ。いつもなら周囲の目を気にする慎重な日向が、酔っ払ってぐでぐでの狛枝をそのまま受け入れている。…もしかして、日向も酔ってんのか!?
「おいおいおいおい…」
ビールをグビッと飲みながら、田中に気付かれないようにツッコミを入れる。…大丈夫かよ、これ。誰がどう見てもただのホモだぞ。奴らが恋人同士なのは一部しか知らねェってのに…。気楽に酒飲み交わして楽しみたいんだけど、オレは日向と狛枝の挙動が気になっちまう。
「これ…、ひなたクンに飲んでもらいたくっへ…。はい!」
「ありがとう、狛枝。それじゃ一口だけ」
2人の顔が、すごく…近いです。どのくらい近いかって言うと、もう5cm顔寄せたら……キ、キスとかしそうな距離だ。見ているこっちが恥ずかしい!! 日向と狛枝の唯ならぬ雰囲気を察知した奴も中にはいるようで、同じテーブルの七海はPSVITAからそっと視線を上げている。日向は狛枝からグラスを受け取り、クッと傾けた。
「ああ、美味いな…これ。飲みやすい」
「…ふふっ、でしょ?」
「でも結構アルコールきついんじゃないか? …何杯目だよ、狛枝」
「んん〜……? んんぅうう、……?? …あはっ、わかんなぁい!」
「はは…。分かんないのか、狛枝。はははっ!」
コツンと狛枝の額を小突いた日向。グラスを返された狛枝は日向に体を擦り寄せて、またたびを与えられた猫みたいに甘えている。カクテルを飲みながら、狛枝は上目遣いで日向を見つめた。日向は何も言わず、同じように狛枝を見つめ返している。何度も言うようだけど…、奴らの距離は5cmしかない。日向の顔が少しずつ赤くなっていく。
「どうした…、雑種。何を見ている…? っ!!?」
オレの視線の先を辿り、田中も気付いてしまったようだ。そうなってしまったら、他のメンバーに伝わるのは速かった。七海はゲームのスイッチをオフにする。小泉がカメラを持った手を震わせた。花村が鼻息荒く、席を移動し始める。トイレから戻ってきた弐大が「何じゃ?」と首を傾げた。西園寺はガタッと立ち上がって、背伸びをしている。澪田は楽しそうに「お? お?」と日除けを作るように手を額に添えた。九頭龍が辺古山に支えられ、体を起こす。罪木とソニアさんがぽかんと見つめ、終里と十神が料理で口をいっぱいにしながらも視線をこっちへ投げた。
「…狛枝、次はウーロン茶頼めよ」
「ん、あぃがと…ひなぁクン……」
飲み干した狛枝のグラスをテーブルに置き、狛枝を愛おしげに見つめた日向は頬に手を添えた。これは、ヤバい…。完全に2人だけの世界を作っちまっている。オレ達がさり気なく見守っているのを分かってないらしく、2人は周りには聞こえないような大きさの声でコソコソと囁き合っていた。そして同時に微笑む。
「……、さっきの酒…、もう1回飲みたいな」
「え…っ、あぁ、んっと…何だったかな。カクテルの名前、教えてもらったのに…」
「頼まなくて良いよ。まだ残ってるだろ?」
そう言われて狛枝はきょとんと首を傾げた。日向は何言ってんだ? カクテルは狛枝が飲んじまったじゃねーか。酔っててメチャクチャなこと言ってやがる。これはそろそろ…、介入すべきだよな? 納涼会って空気じゃなくなっちまってるし。カウンターから酒じゃないやつ適当に持ってくるか。ここまで来たら誤魔化しようがねーぞ、日向、狛枝! 自己責任だ! フォローはしてやるけど。
「日向クン、ごめんね…。ボク、全部飲んじゃったから…。お酒…、もうないよ?」
「ん? あるぞ。残ってるから、ここに…」
目が据わった日向が狛枝の唇を撫でる。おい、まさか…。おいバカ止めろ! オレの(心の中の)制止を聞きもせず、日向は狛枝目掛けて顔を近付けていった。そしてぴったりと合わせられる2人の唇。
「あ、あ、うわぁああああ!!」
「きゃああああああ!! ひ、日向さん、狛枝さん…!?」
「うっきょおおおお〜〜っ!! キスキス〜!」
合わさったそれらは離れたかと思えば、舌を絡めた深いキスへと変わっていく。………ああ、もうフォローなんて無理だわ。


2人の濃厚過ぎる口付けを皮切りに、納涼会会場は阿鼻叫喚に包まれた。

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47.熱帯夜の話 : 8/16
寝苦しくなって夜中に目を覚ます。最初は起き上がろうとは思わなかったが、体に感覚が戻るにつれて、ベッドに接している部分のシーツが湿っているのに気付いた。分かった途端に気持ちが悪くなり、眠れなくなる。
隣で寝息を立てている狛枝は全くもって起きる気配がしない。暑さ寒さにうるさいくせにこんな時は鈍感だ。
「いや、違うか…」
俺が本能のままに抱き壊したからだ。短い夏休みも終わってしまい、仕事が始まってしまったので狛枝とはゆっくり会えていなかった。だから今日は久しぶりに狛枝が俺の部屋に泊まりに来て、テンションが上がりまくっていたのだ。恥じらう狛枝を脱がせて、押し倒したあのシーンを思い起こすだけでまた勃ってきてしまう。
「……ん………〜っ」
寝返りを打つ狛枝を起こさないようにまたベッドに横たわった。これは1発抜かないと眠れないかもしれない。ベッドヘッドにあるティッシュの箱を引き寄せながら、俺は先ほど行った情事を頭に浮かべた。


……
………

「日向クゥン、もう1本!」
酒に弱いくせに意気揚々とチューハイを1缶空けて、狛枝は軽々振ってみせる。こういう時は口応えせず、黙ってお酌をするのが鉄則になっている。逆らったら大目玉を食らうし、そもそも必ず2本目を空けるまでに大体潰れてしまうからだ。
「ぷは〜っ! やっぱり夏に飲むお酒はおいしいね、日向クン♪」
それに酔っぱらった狛枝は半端なくエロい。素面は我儘でも、ほろ酔いの狛枝は素直でいつも以上に可愛い。
「キスしていいか?」
「ん? いいよぉ。……んっ、」
チュッと軽く唇に触れただけのキス。狛枝は機嫌良くチューハイに口を付けているが、俺はこれじゃ物足りない。瞼を半分落としながらも柿ピーを摘まみ、眠そうにテレビを見ている姿はまるで夜更かしをしたがる子供のようだ。
空になりかけた缶をそっと取り上げて、狛枝のことを抱き締めると、甘えるように顔を擦りつけながら抱き返してくる。完全に酔っ払ってるな。無意識なのか何なのか狛枝の太ももが下腹部に当たっている。
「……ひなたクン、勃ってるよ?」
「当たり前だろ。…狛枝、今すぐシたい。服脱がせていいか?」
「ん、うん。ねぇ…? 電気、」
明るいのを気にしてか、僅かに体を捩りながら脱ぐのを躊躇っている。Tシャツを捲り上げると白い肌が見えて、俺は思わずゴクリと生唾を飲み込んだ。こんなに明るい場所で狛枝の裸をマジマジと見る機会はあまりない。動きの鈍い狛枝の両手を上げさせて、Tシャツを脱がす。
とろんとした顔つきで体を隠そうと頑張っているけど、俺が手首を拘束した所為で、それすらままならない。首筋に顔を押し当てて、耳を舐めると狛枝は小さく喘いだ。体の各部を下るように舐めていき、臍まで辿り着く。スウェットの下の狛枝自身も硬く主張し始めて、俺はやんわりとそれを握った。
「あっ……あぁっ、ひな、たク…! ダメだよぉ…、ボク…っ」
「何?」
「か、感じすぎて…っ。ぁ、んッ、激しくしないでぇ…!」
肩で息をしながら、瞳を潤ませる狛枝。上気した頬に生理的な涙が流れる。そんな欲情した顔で言われても、説得力がまるでない。逆に煽ってるのか?と思うほど卑猥なセリフだ。
「後で『もっと激しくして』って言うのはどこの誰だ?」
「はぁ…っ、今日は、言わないもん。あっ…アア…ッん、ん……っ…あんっ!」
下も全て脱がせて、熱い中心を手で包むとビクンッと反応した。腰が俺の手に擦り付けるように揺れていて、お返しとばかりに先端を突くとダラダラと先走りを滲ませる。それを舌で舐め上げながら、後ろを解すと押し殺したような嬌声が上がった。柔らかい秘部に指を入れて奥まで進ませる。
「らめっ、ひぁたクン…! そんなにしたら、出…、アッ、…あんっ……あ、うぁあっ」
「ここ、だろ? 知ってるぜ、狛枝の好きな場所」
「……やぁっ! いや、い、イきたくないぃ…! まってよ…、ボク…、日向クンので、イきたい…」
「!!」
そんな強請られ方をして、落ちない男がいるだろうか。俺は既に臨戦態勢に入っていたモノを狛枝に押し当てた。ガクガクと震えながら足を広げる狛枝に、俺は徐々に体を進ませる。狭くて温かくて、気持ち良い。
「あっ、やっ、ひぁたクンっ、あああっん、ふぅ…っ! はぁ……ッ!」
脳裏に火花が散る。楔を奥の奥まで打ち込みながら、俺は段々と頂点へ登りつめていた。


……
………

「う…っ! あ、はぁ…」
ティッシュで白い欲望を受け止めると、頭から熱が逃げていく。真っ暗な寝静まった部屋の中、振り返ると狛枝は熟睡していた。脱力感が体を支配する。酒を飲んだ狛枝はそれはもう快楽に対して素直になるが、その反面持久力が半減する。でもあの溺れるような感覚は病み付きになりそうだ。
「……狛枝の体力を上げれば、何の問題もないな」
ふと思いついたことだが、意外にも名案に思えた。まずは食事改善と軽い体操からか…。ゴミ箱にポイッとティッシュを放り投げると、俺は次に訪れる熱帯夜を楽しみにしつつ、床についたのだった。

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48.プールの話 : 8/24
日向クンが飛び込み台から大きく手を振っている。ボクも手を振り返すと、日向クンはゴーグルを付けて、綺麗なフォームで水に飛び込む。ザバンッと大きな音がして、高く透明な水柱が光を纏いながら打ち上がった。

ここはただのプールではなく、競技にも度々使用される総合水泳場だ。まるでドラマに出てくるような広々とした空間で、メインプールは100mもあり、その他に50mのサブプール、今日向クンが飛んだ飛ひ込みプールまで完備されている。入り口でパンフレットを貰ってきたが、飛び込み台は10mの物まであるらしい。
あの高い台から下に向かって飛び込むなんて…。その様を想像してボクはゾクゾクと鳥肌を立てた。
「狛枝、やってみないかー? 飛び込み!」
「ボクはいいよ。…あ、遠慮しとくって意味だから」
プールから顔を出した日向クンが、観客席にいるボクに向かって声を上げた。ボクの断りを特に気にせずに日向クンは水から上がり、今度は別の飛び込み台に乗ろうと階段を登り始めている。まだやるのか…。
今日は日向クンの大学時代のサークルメンバーが集まるというので、興味本位で連れて行ってもらった。納涼会で顔を合わせた終里さんと弐大クンも来るっていうから、知らない人だけって訳でもないようだ。てっきり夜の飲み会だとばかり思っていたら、朝に叩き起こされて電車に乗った。この水泳場を午前の間だけ貸し切ってみんなで泳ぐというスケジュールだったらしく、水着を持っていないボクは慌てて近くの量販店に駆け込んだのだ。
「先に言っといてくれれば良いのに…」
例え言われてたとしても、ボクは水着を持っていないんだけど。集まったメンバーは当たり前だが体育会系の人ばかりで、男の人も女の人もみんながっしりとしてて均一のとれた体をしていた。飛び込みプールの隣にあるメインプールで会話を交わすことなくガンガン泳ぎまくっている。よく疲れないなぁとボクは感心しながらそれを目で追っていた。
飛び込み台に人影が見えた。言わずもがな日向クンだ。すらりと伸びた姿勢が、筋肉質の体をより綺麗に見せる。
恋人ということを差し引いても、同性として惚れ惚れする体つきだ。手足が平均よりは長く、無駄な所がない。あばらの浮き出たお腹を服で誤魔化しているボクとは大違い。チラリとプールの底を一瞥した後、日向クンは構えてピタリと静止する。
「あ……っ!」
日向クンが、飛んだ。揃えた腕の切っ先が風を切って、鋭くプールに突き刺さる。さっきより大きな水柱が上がった。


「狛枝も飛んでみれば良いのに…。きっもちいいぞー!」
つまらなそうにしているボクを見兼ねたのだろう、日向クンはわざわざ観客席まで来てくれた。
「小学校の夏合宿でね…、2mの崖から飛び降りろって背中押されて、ムチ打ちになったよ。それ以来トラウマなんだ」
「お、おう。…そうなんだ」
隣に座った日向クンからカルキ臭の混ざった冷たい水の匂いがする。滴り落ちる水滴をタオルでガシガシ拭きながら、「あ〜」と疲れたような声を漏らした。貸し切りの制限時間まではまだ1時間くらいある。
「何かごめんな。こっち入りづらかっただろ?」
「ううん、そんなことないよ。日向クンが泳いでるの見てるのボク好きだし」
「…なぁ、こっちのプール入らないか? お前もちょっとは泳いでみろって」
「うん、そうしよっかな」
折角来たんだし、日向クンが嬉しそうに誘ってくるのを断れるはずもない。別に泳げない訳じゃないし。
観客席から通路を通って、メインプールとは壁を隔てた向こう側にあるサブプールへと移動した。100mも凄いが、50mも十分距離がある。小学校の25mプールしか知らないボクはしばしその絶景に目を奪われた。
「ほら、お前はとりあえず準備運動だ。…っと相変わらず、体硬いな」
「うるさいよ」
日向クンに手伝ってもらい、準備運動を済ませた。コース台から飛び込む…のは気が引けたので端にある梯子に足を掛けて、ゆっくりとプールに浸かる。
「つ、冷たい……っ!」
温水プールだと思って舐めてたが、予想外に冷たい。でも足先から腰、肩に浸かっていくと、徐々に慣れてきて何だか潜っても大丈夫そうに感じる。ボクは一呼吸置いて、プールに体を沈めてみた。透明な水色の世界だ。照明の光が水中まで透過して、静かに煌めいている。コースを示す紺色のラインが何本も並んでいて、それを目で追っていると鈍い衝撃音が響き、水がざわざわと波を立てて揺れた。
日向クンだ。飛び込みから流れるような動きで、水底を滑る。まるで魚だ。足で水を蹴るだけで凄い速さで進んでいく。ボクが息継ぎをしようと、プールから顔を出した時にはもうコースの1/4まで泳いでいた。くるりと回ってリターンを決め、日向クンはあっという間にスタート地点に戻ってくる。
「あー、それにしても久々の100mは辛いぜっ」
「……すごい。何か感動したよ、日向クン! キミって実は魚なんじゃないの?」
「そうか? ただ泳いでただけなんだけど」
「ボクも飛び込んでみようかなぁ…」
日向クンは「お?」と反応した後、ニコニコ顔で「やってみろよ」とコースを指差す。全コースの真ん中の台だ。ボクは心の中で密かに気合を入れた。プールサイドをペタペタと移動し、コース台を真正面から見据えた。そこに立つだけでかなり緊張する。広々とした水泳場の中心。実際にここで競技する水泳選手は相当なプレッシャーだろう。
「ねぇ、絶対押さないでよ? …絶対だからね!」
「分かってるって」
大きく息を吸い込んで、さっき見た日向クンの構えを思い出しながら真似をする。だけど目の前で揺れている水面を睨み付けたまま、体が固まってしまって動けない。
「…狛枝?」
怖い訳じゃないんだ。飛び込み台なんかに比べたら1mにも満たない高さなのに…。何というかこの場の広さと静寂さに気圧されて、一歩が踏み出せない。ボクの時間はそこで固まってしまった。だから後ろで日向クンがどんな動きをしているかなんて、全く気付きもしなかった。
「よいしょっと!」
おしりに後ろから軽い衝撃があった。いつもなら何ともないその圧迫も、不安定な構えを崩すには十分な力で。
「え、ええっ!? 日向ク、ちょ、落ち…っ! あ、わぁあっ!!!」
ボクは呆気なくプールにドボンッと飛び込んだ。日向クン、これはフリじゃないんだよ…! そう抗議しようにも、口からはブクブクと泡が出てくるだけ。例え泳げてもパニックになってると、息も出来ないというのが分かった。
結局ボクの初飛び込みは、後から飛び込んだ日向クンに捕まって助けられるという何とも情けない結果に終わった。

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49.花火の話 : 8/31
しんねりとした夜風が流れ、狛枝の淡い色の髪がふわんと風に靡いた。今年の夏は9月まで暑さが続きそうだとテレビでニュースキャスターが伝えていたが、さすがに夜はかなり気温が下がり涼しい。もうすぐ学校の夏休みが明けるという時期に、丁度俺達の休みが重なった。
お互い教師だから夏休みは大して取れず、今日貰った休暇も学年主任が好意で取らせてくれたものだ。昨日仕事で学校に行った時に許可を貰ったので、特に予定も決めてなくて、結局夕方までバラバラに過ごした。
「日向クン、どこまで歩くの?」
傍らの狛枝が小首を傾げて訪ねて来たので、「すぐそこだから」と公園を指差した。この公園は以前学校からの帰り道に偶然見つけた所だった。目を惹くような遊具はなかったし大して広くもない敷地だったから、いつも素通りしていたけど、その日は少し違った。子供達が何人か集まって、バケツの周りで花火の準備をしていたのだ。どうやらここ一帯で唯一花火禁止を掲げていない公園らしい。
狛枝と2人で公園の名前が書かれた入口を潜ると、今日も先客らしい子供と保護者のグループや大学生らしいカップルが寄り添って花火をしている。
「ああ、花火か…。キミが持ってたバケツはそういうことだったんだね」
「俺バケツに水汲んでくるから、ちょっと待ってろ」
狛枝にそう言い、俺は持参した緑色のバケツを持って、水飲み場に行く。狛枝はキョロキョロと辺りを見渡し、花火をしても迷惑にならなさそうな遊具のない片隅のベンチへと移動した。思ったよりも人がいるな。男2人…しかもいい年をした大人が花火をしていておかしくないだろうか? 少し心配になってさり気なく周りの反応を窺ってみたが、みんなそれぞれ花火に夢中になっているようで、俺達のことは見向きもしなかった。
「……夜だし、そんな気にすることじゃないか」
「ん? 何か言った?」
「いや。…狛枝、花火開けてくれ」
「分かったよ。…んー、どれ先にしようか。いっぱいあって迷っちゃうね」
ゴソゴソとビニールバッグの中を探りながら、狛枝が何本か花火を取り出した。真剣な表情でそれぞれを見比べてから、無邪気に「日向クン、これとかどう?」と弾んだ声を掛けてくる。楽しそうな恋人の顔を見ると、俺も何だか嬉しい。
「いや、それはロケット花火だから他のにしよう」
「へぇ〜、これがそうなんだ。ロケットって大きい音が出るんだっけ。普通のが良いかな。ええっと……、これとか?」
狛枝が次に見つけたのは、くるくるとラメの入った紙が巻かれたオーソドックスなタイプの花火だった。うん、やっぱりこれが1番花火って感じがするよな。
「良いな! それにするか」
1つを狛枝に手渡され、持ってきたライターで着火した。もちろん火花が狛枝に掛からないように細心の注意を払う。パァッとその場が明るくなり、俺は眩しさに目を細めた。…こんなに明るかったっけ? 花火なんて子供の頃以来だ。
「お前のも点けてやるよ」
「うん。じゃあ、お願い」
花火の先端を重ね合わせて火を渡すと、シュッと音がして狛枝の花火からも明るい光が放射線状に放たれる。
「結構明るいな。…お! 最近のって色も変わるんだ」
「……綺麗だね」
本当に綺麗だ。花火の光で互いの顔がぼんやりと浮かぶ。狛枝は膝を抱えて、じーっと花火の光を見ていた。色が変わるごとにパチパチと瞳を瞬かせている。ふと視線を上げた彼は俺が見ていることに気付いたらしく、フッと軽く微笑んだ。あまりのカッコよさにドキッとして、俺は美麗な灰色の双眸から逃げるように俯く。紫からピンク、最後には白い光を飛ばして、花火は静かに消えていった。
「な、何だよ…。そんな顔してこっち見るなって」
「え? いやぁ、花火より日向クンの方が綺麗だよ。って言った方が良いかなって」
「………。それは言わなくて良いだろ」
寧ろそれは俺が言うべきセリフだ。ときめきをもたらす爽やかな微笑みと蕩けるような甘いセリフ。映画のワンシーンのように決まっていて、クサさなど微塵も感じないのは、最早セリフ云々ではなく言う人で違ってくるのだろうか。何だか悔しい。
狛枝に次の花火を渡して、また火を点けてやる。さっきのとはちょっと違う火花が雪の結晶のように散るものだ。そういえば狛枝にまだ話していないことがあったんだっけ。盆に1度だけ実家に帰り、きっちり家族と話をしてきた。その結果を彼に伝えなければならない。
「あのさ、狛枝。俺…、実家に帰って、ちゃんと婚約の話断ってきたから」
「えっ」
「直接親父に言ったんだ。それから元婚約者にも。俺は結婚するつもりがない。心から愛してる人がいます…って」
「………」
今まで曖昧にしていた俺が悪かったんだ。狛枝と付き合った時点で見切りをつけるべきだったのに、それをズルズルと引き摺ってしまった。俺の責任。
「その場じゃ煮え切らない態度だったな、相手は。でもな、昨日電話が掛かってきて『好きにしろ』って言ってきた」
「………。ごめんね、日向クン」
それを聞いた狛枝は悲しげに顔を歪ませ、小さな声で呟いた。彼の目元が花火の光にキラリと光る。涙…か?
「謝ることじゃない、狛枝。俺はいつだって、お前を選ぶから…」
「…うん、うん……っ。ありがとう…」
ごしごしと目を擦り、狛枝は涙を立ち切るように笑ってみせた。泣き笑いにぎゅっと胸が苦しくなった所で、2本目の花火がシュッと音を立てて消えていく。…結婚。同性愛者では元々なかったとはいえ、今自分達は同性同士で付き合っている。20台半ばを過ぎて、30歳に差し掛かると男も結婚を考える年齢だ。俺は別に良い。でも狛枝にも同じ業を背負わせるのは少し躊躇いもある。
「日向クン…?」
「あ、いや…。何でもない。…次のやつ、火点けようぜ」
8月も今日で終わりだ。しばらくは夏と同じような気候が続くけど、あっという間に秋がやってくる。狛枝と恋人同士になって、もう1年以上が過ぎた。彼を不安にさせないためにも、俺から誠意を見せたい。


何本も色々な種類の花火を試した。どれも綺麗だし、火花の散り方も面白い。ビニールバッグから段々と花火が姿を消していく。
「んぅうう、何かもうロクなの残ってないよ? どうしよう。……あ!」
ビニールバッグを覗きこんでいた狛枝は、得意気な顔で細い花火を取り出した。暗くて良く見えないが、色は紺色とピンクで、芯がないように曲がっている。渡されて初めて、それが線香花火であることが分かった。
「やっぱり、最後はそれだよな」
「…日向クン、多分そっちじゃないよ。火はこっち側」
「あ、あれ?」
どうやら俺は線香花火を反対に持っていたようだ。狛枝にクスクスと笑いながら指摘され、「からかうなよ」と釘を刺すも軽やかな笑い声は止むことはない。ライターでカチッと火を点けると、先端に玉がじんわりと赤みを帯びて盛り上がる。
「どっちが最後まで残ってるか競争しようぜ。負けたら奢りで」
「良いよ。負けないからね…!」
子供の頃もこうやって友達同士で競ったな。夏になると、もうあの頃には戻れないんだって、何だか急に切なくなる。センチメンタルってやつだろうか。
玉がパチパチと火花を発している。落とさないコツは無闇に動かさないことなんだけど、風がたまに強くなったりするから体の位置を調節しなければならない。狛枝は宣言した通り、本気のようで火花を見つめたまま動かなかった。2人の間でチリチリと小さく音が鳴っている。うーん、この勝負…一体どうなるんだ?
線香花火の寿命は短い。やがて火花が低調になってきて、元気がなくなってくる。俺と狛枝の火花の大きさはあまり変わらない。何だか微妙に勝てそうな気がしてきた。いや、でも俺のはもうすぐ火花がなくなりそうだ。ん? 狛枝の線香花火も勢いがなくなってきて…。
「あっ! あー…。…負けた」
先に落ちたのは俺の花火だった。僅かに遅れて狛枝の火の玉がポタリと地面に吸い込まれていった。
「ふふっ、ボクの勝ちだね! 帰り、何か奢ってくれるんでしょ?」
「ああ、男に二言はないぞ! …あー。あんまり高いのは、勘弁な?」
恐らくコンビニでちょっと高めのケーキやアイスを強請られるのだろう。花火は終わりだ。バケツの中の水を水飲み場で流して、花火のゴミをビニール袋へと突っ込む。狛枝は残りの花火が入ったビニールバッグを持ってくれた。公園で一緒に花火。それはそれで別に良いんだけど…。もっと気の利いた所連れてってやれば良かったかな、と少しばかり後悔する。
「狛枝。寒くなったら、温泉にでも行かないか? 地元じゃなくて、遠出して泊まりとかで豪勢にさ!」
「………。日向クン…」
「お前ともっと色んな所に行きたい。今年はこんなんだったけど、来年はどこかの花火大会とか行こう?」
「来年…? キミは来年もボクと一緒にいてくれるのかい?」
「? 当たり前だろ。確証がない未来の話は、嫌いか?」
俺がそう問い掛けると、狛枝はぶんぶんと勢いよく首を振った。そして頬を赤らめて、「来年…」としみじみと言葉を繰り返す。俺は狛枝と来年も一緒にいたい。そのために、変わらぬ愛を彼に誓う。みんなの前で狛枝にキスをしたのだって、もちろん考えがあってのことだ。心の中に硬い決意が生まれて、俺はやる気に満ち溢れてきた。狛枝と一緒にいれば、大丈夫。俺は幸せだ。
「うん、行こう。今年も、来年も…。ボクはキミと一緒なら、どこだって嬉しい」
「俺も。お前がいてくれるから、どんな所でも楽しいって思えるんだ」
それを聞き、目を細めた狛枝は俺の肩に手を置いて、耳元に唇を寄せる。遅れて囁かれた言葉にくらりと眩暈を起こしそうになった。同時に『ああ、こいつには敵わないな』と改めて感じる。狛枝は体を離して、クスッと俺を見て笑った。何て奴だ、また良い所を持って行かれた…! 今更ながらドキドキと鼓動が大きく響いてくる。少し高めのハスキーボイスが耳から離れない。


―――……愛してるよ、日向クン

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