// Mirai //

06.腹の虫の話 : 1/25
「ただいま〜。日向クゥン、ごはんごはん!」
合鍵でガチャリとドアを開いて、開口一番にボクが言った言葉がこれだ。先に帰ってきてたこの家の主がボクの声に気付き、キッチンから顔を覗かせる。部屋着用のジャージの上に、いつものエプロンをつけた日向クンだ。料理の最中なのか、手には菜箸を持っている。琥珀色の瞳がパッとボクに向けられた。
「おー、おかえりー。狛枝。っていきなりかよ!? まだメシ出来てねぇぞ?」
「じゃあ、ボクも手伝うよ!」
靴を脱いで、キチンと揃える。脱ぎ散らかすと口うるさい日向クンはすぐにボクを注意するのだ。お客さんの所にお邪魔したりする時はちゃんとしてるんだけど、どうも日向クンの前だと気が抜けてしまう。何だろう、気心が知れてる安心感ってやつかな?
今日のメニューは何だろう? 日向クンのご飯はボクの毎日の小さな楽しみである。日向クンと付き合う前のボクはそれはもう残念な食生活をしていた。レトルト、カップ麺、良くてコンビニ弁当…。味なんて気にしない。食べてしまえば何だって良い。そんな考え方だった。うーん、今じゃ考えられないね! もう2度とあの杜撰な食生活には戻れないだろう。
背広を脱ぎ、鞄と一緒にリビングのソファーの上にポンと投げて、キッチンへと踵を返す。ボクは日向クンの向こう側から漂ってくる料理の匂いをすんすんと嗅いだ。鼻を擽る香ばしい和風ダシ、それからツンとしたショウガの香りも混じっている。うーん、この匂いは…。
「ぶり大根!」
「正解だ!!」
キリッとした良い顔で日向クンが振り向く。ボクが当てたのが嬉しかったのか頭のアンテナが若干ピンとしている。ひょいっと横から鍋の中を見ると、ぐつぐつと渋い色したダシ汁の中にブリと大根が顔を覗かせていた。
「今日はブリのアラが安かったんだよ。結構脂も乗ってるし、我ながら良い感じの出来だ」
「へぇ〜」
満足気に腕を組んで、日向クンはニヤッと笑う。ふふっ、自画自賛しちゃって…。ボクは日向クンに気付かれないように忍び笑いをした。普段はボクがふざけてると、「お前は小学生か!」なんて呆れてたりしてるけど、彼も彼でたまに子供っぽい所がある。しかも自分で気付いていないのだ! そういう所も可愛くて、ボクは彼に首ったけなのである。
「腹空かせてんのに悪い…。もうちょっと時間掛かりそうだ。昨日の残りのひじきはあるけど、先に食べるか?」
「んー? 先にこっち♪」
抱き着くように日向クンの首に腕を回して、唇を近付ける。呆れたように笑った日向クンだっただけど、ボクの腰をグッと力強く寄せて、ちゅっと優しいキスをしてくれた。ふにっとした柔らかい感触に、じわじわと胸に熱が這い寄る。ああ、この瞬間が最高に幸せだ。1度触れただけでは物足りず、ボクは強請るように日向クンの唇を舐める。彼も薄く口を開いて、ボクの舌に自分のを絡めてくれた。
「はぁ…、ん…ふっ……ひなたクン、」
「……ん。狛枝…?」
「あっ、もっと…もっとぉ……っ!」
ガスコンロの火の音と換気扇の羽音に混じり、キスを交わす濡れた音が聞こえてくる。ピチャピチャと耳に伝わるそれに段々ボクはエッチな気分になってきた。どうしよう、止まらない。こんなにもボクは日向クンを求めている。いつも先に唇を離して、ボクにおあずけさせるのは日向クンの方なのに、彼もキスを止める素振りを見せない。寧ろ、向こうがボクにがっつくように唇を犯している。
「んぁっ、…ちゅ、んんッ、ふぁ……」
「こまえだ……、俺…、もう…!」
「…えっ? ……あ、……? わっ!」
背中にトンと当たる硬い壁の感触。もうこれ以上、後ろには行けない。壁際に追いやられて、ボクは逃げ道がなくなってしまった。日向クンが腕でボクの退路を絶ったからだ。眼前に迫る真剣な彼の瞳から目を離せない。まるで獲物を狙う獰猛な肉食獣のような…。そう、雄の顔だ。気付いた途端、ゾクリと背筋が逆立つ。日向クンは無言でボクの首筋に顔を埋める。彼の呼吸は荒く、ボクの首に掛かる吐息は熱い。ぺロリと皮膚を舐められて、生ぬるい舌の感触にボクは身じろぐ。
「ひ、日向クン……、ダメだよ…あ、っん、あんッ」
「狛枝、…いいだろ?」
「あっ……はぁ…やん…噛まないでぇ……っ」
ガチリと歯を立てられて、痛みと共に走る快感にボクは膝をガクガクさせる。カツンと床を叩く高い音がして、そっちを見ると日向クンが持っていた菜箸が転がっていた。余裕がないのか、日向クンは「ふーっ、ふーっ…!」と興奮気味に息を吐いている。その股間はエプロンの上からでも分かるほど、激しく勃起していた。
「ごめん、狛枝。俺、我慢出来ない…!」
ギラギラと光る瞳をボクの方に向けて、彼が形だけの謝罪をする。ボクを気遣っているように見えて、滾る欲望を隠そうともしない。こんなに激しく彼に求められることはとても珍しい。ボクが誘って、向こうも乗り気になって…というのがいつものスタイルだったから。これから繰り広げられるだろう行為に、ボク自身も大きく膨らみ、ズボンの布地を押し上げていた。
「はぁ…、いいよぉ。日向クン、来てぇ…っ」
日向クンの頬に手を添えて額にキスを落とすと、それが合図となったように日向クンは首筋に吸いついた。乱暴にネクタイを外され、首回りが引き攣ったように少し痛む。性急にYシャツのボタンが外され、その下に着ていたシャツを捲り上げられ、日向クンはガブリとボクの乳首に噛みついた。
「ああっ、あ…、痛っ、もっと、やさしくしてよ、日向クン…」
「はぁ、はっ、狛枝…! んちゅ…んん、こまえだ…」
ボクが嫌がってるのを見ると必ず止めてくれるのに、今の彼はどうやらそうはしてくれないらしい。ボクの胸にペロペロと舌を這わせて、空いてる手で乳首をギュッと強く摘まんでくる。その刺激に、ボクは思わず息を飲み込んだ。痛いのに、気持ち良い…。体に力が入らなくて、ボクはずるずると足を崩してしまう。
「ああっ、……あ、あ、あッ…!」
日向クンはボクの胸元をきつく吸い上げ、いくつもキスマークを残した。冬なので肌を見せることはないし、明日は休みだから別に痕が残っても良い。彼所有の証を刻まれると、本当にボクが日向クンのものになったような気がしてくる。後でボクも日向クンにキスマークを付けなきゃ…。快楽に揺らぐ思考で朧気に考える。
「アンっ、…ひぁたクン。きもちぃよ…。胸、感じちゃう…、ッはぁ」
「可愛いよ、狛枝…! もっと、欲しいだろ?」
「…あ、もっと……、日向クンの…ああ、ん…ンんッふ…んぁ…」
日向クンのゴツゴツした右手が、ボクの股間を弄っている。そんなんじゃ、じれったいよ。腰を揺らして、日向クンの手に擦り付ける。きもちいい、きもちいいよ…日向クン。ああ、このままキミと一緒に溺れてしまいたい。

ぐきゅるるるるるるるぅ……

蚊の鳴くような小さな音のはずなのに、何故かそれは良く響いた。ボクと日向クンは同時にその動きを止める。そして、まじまじとお互いの顔を見合わせた。
「………」
「………」
「………あれ」
「……俺では、ないな」
日向クンは真顔でそう言った。…嘘! ってことは、ボク!? うわぁ…、何てことだ。折角、日向クンとエッチなことして気持ち良くなりかけてたのに…! ボクは恥ずかしさと無念さに頭を抱える。間が空いたことが原因か、音の間抜けさが原因かは分からないが、ボクの熱はすっかり冷めてきていた。日向クンも今のでスイッチがオフになったらしく、冷静な表情でボクから体を離してしまった。あんなにギンギンだった中心も膨らんではいない。
「えーっと、メシ食ったら…しよっか」
「う、うん…」
がっかりと落ち込むボクの頭をポンポンと優しく撫でて、日向クンは苦笑いしつつ立ち上がった。ごめんね、日向クン。ボクのお腹の虫は空気を読んでくれなかったよ。……チャンス、逃しちゃったのかなぁ。本当にボクってついてない。小さく溜息を吐いてから、無神経な虫を満足させるために、ボクものそりと立ち上がる。
その日はちょっとダシが染み過ぎて、味の濃くなったぶり大根を食べた。そして……、

「狛枝、はぁ、んっ…ハ…っこまえだぁ…!」
「ひぁああッ! ひなたクン…! はげしっ、アンっあんッああん!!」
「ハァ、ハァ…! 狛枝、しっかり掴まってろよ!」
「あっあっ! やああっ、日向クン、すご、すごいよおおッ! ああああッ!」

しっかりきっちり激しくしてもらいました。

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07.恵方巻の話 : 2/4
電車から降りて、腕時計で時間を確認する。そろそろあいつにモーニングコールして起こしてやらないと…。そう考えた俺はポケットからケータイを取り出すと、リダイアルから最初に出た番号にコールした。
『ふぁーい…。もしもし……?』
「おはよう。おい、もう時間だぞ。起きろよ」
『んー? ふふっ、おきてるよ……。おきてるおきてる〜…』
絶対起きてないだろ。眠気を隠そうともしないとろんとした電話の向こうの声に、俺は溜息を吐く。
狛枝の寝起きは他の追随を許さない程度に悪い。目覚まし時計をいくつ掛けようが、どんな場所に置こうが、寝たままそこまで歩いていって、丁寧にスイッチをオフにしてまた眠る。スヌーズ機能? そんなもの、元を切ってしまえば何の意味もない。布団を引っぺがして起こしても、その1分後にはすやすやと寝息を立てていたりと、本当に性質が悪かった。
ここで粘らないと狛枝は二度寝してしまう。何だかお母さんになったような気分で俺は会話を繋げた。
「昨日はその…、俺のは挿れてないんだし、そこまで疲れてないだろ?」
『顎が疲れたよぉ…、日向クゥン……』
「だって、それはお前がっ!」
思わず受話器に声を上げると、周囲を歩いている通行人の視線が俺に集中する。いけないいけない。今は学校へと向かう通学路で、チラホラとうちの生徒の制服も目につく。目立つような行動は避けないとな。
『日向クンの恵方巻…、太くておっきくて…。喉の奥まで入れるの大変だったんだよ?』
「〜〜〜〜〜っ」
色っぽい吐息混じりの狛枝の声が耳に響く。電話は、良くない。否が応でも耳元近くで声を聞かなければならないから。あいつの声は心臓を鷲掴みにするような淫猥さを含んでいて、これから仕事に行くという今の時間とはかなり相性が悪かった。
『でもすごくおいしかったなぁ。熱くてビクビク脈打ってて…、ボクの舌に反応して白いタレまで出しちゃうし』
「狛枝……!」
『ねぇ、日向クン…。ボクの恵方巻はどうだったかな? 粗末なものだったけど…』
お前は俺をどうしたいんだ! 直接話しているのなら、そう言わざるを得ない会話だ。カーッと顔が熱くなるのを感じて俯いた。狛枝の恵方巻って言ったら、アレしかない。あいつは料理なんてしないんだから。感想を求められているのなら、無視することは出来なかった。受話器を覆うように塞いで、俺は声を潜める。
「美味かった…ぞ」
『ふふっ、ありがとう。でもキミは方角が真逆だったかもね。南南東でしょ? 今年の方角…』
クスクスと笑いを含んだ声で返される。『恵方巻』を食べた状況を思い浮かべて、俺は妙に納得してしまった。俺と狛枝は2人同時に互いの『恵方巻』を口に入れたのだ。片方の方角は自動的に逆になる。
「別に…。お前がこれで幸せになれるんなら、俺はどうだっていい」
『…っひ、日向クン…!!』
「仕事サボるなよ? 今日は学校でしか会えないんだからな」
『!? 起きた! 起きたよ、日向クン。待っててね、今すぐ会いに行くから!!』
プチッと会話半ばに通話が切れて、俺はケータイをポケットに戻した。俺達は教師なのであって。仕事をするために学校に行っている。だけど狛枝は半分以上、俺に会いに行くために通っているらしい。俺のことが好きで堪らないというオーラが透けて見えるのは、何とも幸せなことだ。最高に可愛い恋人なのである。俺はニヤつく頬を欠伸で誤魔化しながら、学校へと続く道を進んでいった。


「おはよう、ソニア」
校門へ入ろうという所だった。ツヤツヤとした長い金髪の後ろ姿を見つけて、俺は彼女に声を掛ける。俺の声にパッと振り返ると、海のように深い蒼瞳がキラリと太陽の光を浴びて煌めいた。
「日向さん! おはようございます」
職員室ではちゃんと先生呼びをしているが、普段はこんな風に砕けた口調だ。俺と狛枝とソニア…それから保健医の罪木は年が同じなので、割と仲が良く、学校が引けてからはたまに食事に行ったりしている。
「朝早いなんて珍しいな。何かあるのか?」
「ええ。新しく取り入れる英語教材のチェックをすることになっていまして。日向さんは部活ですか?」
俺は黙って頷いた。狛枝と一緒に学校に行くこともあったけど、週に3日は部活の朝練が入っているので、俺だけ先に学校に向かうのだ。
「そうそう、昨日は節分でしたね! わたくし、シェアハウスのお友達と豆撒きしましたよ。鬼は外〜、福は内〜って」
「俺も昔はやったな。豆ってぶつけられると意外と痛いんだよな。後、掃除するのが大変だし」
弟と一緒になって、節分を楽しんだのを思い出す。何だか懐かしい気分になってきた。ソニアは俺の感想に、楽しそうに「そうですね」と相槌を打つ。
「確かにお掃除には時間が掛かりましたね。年の数しかお豆が食べられなくて少し残念でした…」
「ははっ。そんな律義に守らなくたって良いんだよ。俺だって1袋全部食べたしな」
「そ、そうなんですね。では今日は余ったお豆を頂くことにいたします」
ソニアは日本の文化に詳しい。俺が知らないようなことも知っていたりする。節分の話で恵方巻の話題が出たらどうしようと内心ドキドキしていたが、豆撒きの話で終わってしまい、俺は一安心した。だってそれを聞かれても困る。俺は嘘が下手だから、変なことを口走っちまいそうだし。
「そういえば、来週はバレンタインですね。…日向さんは義理チョコ嬉しい方ですか?」
「ああ、もちろん!」
「そう言って頂けるとありがたいです。実は女性職員みんなでチョコを配る計画をしているのです。本命を優先して、受け取らない方もたまにいらっしゃったりするらしいので、一応聞いておこうと思いまして」
「男は大体貰って嬉しいもんだと思うけど。そういう奴もいるのか…」
「あまりにもモテ過ぎて、恋人が嫉妬してしまうとかですかね…。あ、ではわたくしはこちらで」
「あ、ああ」
軽く手を振って、ソニアは別の玄関口へとスカートを翻して行ってしまった。
「バレンタイン、か」
その単語を聞いて ふっと思い浮かべたのは、快楽に素直でいやらしい、最愛の恋人の顔だ。狛枝…。俺にチョコ、くれるよな? 付き合って初めてのバレンタイン。俺の期待はピークに達していた。だが相手はどうだろう? 狛枝はイベント事にはあまり頓着しないタイプだ。俺の誕生日は物凄く頑張ってくれたけど、果たして女性メインのイベントであるバレンタインは反応してくれるだろうか。心配だ…。今から意識付けするのは大切かもしれない。狛枝がいる時に何となく言ってみよう。そう考えると、今から来週が楽しみだった。

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08.本命の話 : 2/16
バレンタインって何のためにあるんだろう? ボクにとっては甚だ疑問なイベントの1つだ。だから何もしなかった。

大体ボクも日向クンも男なんだから、そういう乙女チックな類の物なんて掠りもしないのに。日向クンはふと事あるごとに「もうすぐバレンタインだな」なんて零すから、ボクはカレンダーで2月14日を自然と意識してしまっていた。
今年の2月14日は木曜日で平日だ。とりあえず形だけでもと思って、日向クンに職場の女性教師や生徒から貰ったバレンタインチョコを御裾分けしたんだけど、どうもそれが気に入らなかったようだ。1箱開けてから「…狛枝からは、ないのか?」と言われ、首を振ったら、すごく悲しそうな顔をしてたっけ。
「何かあげた方が良かったのかな…。いや、でも」
ボクが女役だからチョコをあげる側って考えが安易過ぎないかな? 別に日向クンからボクでも良いのに。でもこのまま何もあげなかったら可哀想だ。一昨日の様子を思い出して、ボクは決意する。日向クンにチョコを…!


日本のバレンタインの始まりはチョコレート企業の戦略だというのは最早有名な話。商品を売らせようと『バレンタインデーにはチョコレートを』なんてキャッチコピーまで作って。でもイベント事には何でも乗っかる日本人はまんまとそれにハマってしまったのだ。一時期より熱は冷めたものの、今でもチョコレート売り場に女性が殺到する光景は見られる。その経済効果はクリスマスに次ぐとも言われていた。チョコレート企業、恐るべし。
「ボク、料理苦手なんだけど…。チョコレート溶かして固めるくらいならいけるかな?」
女性に交じって売り場で買うのは理性が引きとめた。だけどスーパーで売っているような余り物のお買い得品を買うのも何だか味気ない気がする。…手作りって引かれる? ううん、日向クンなら大丈夫。よし、材料買ってこよう!

2時間後…
ボクが挑戦したのはミルクチョコレートのトリュフ。今思えば見栄を張り過ぎたのかもしれないな。湯煎にかける所までは上手くいった。だけどその後はレシピ通りに進めているはずなのに固まってくれない。
「何で固まらないのかな…。生クリーム、多過ぎた? んー…?」
ガナッシュの段階で進まなくなってしまった。分離したような不気味な色合いのチョコレートを見たボクはそれをシンクに流す。最初はレシピを見ずにチョコを鍋に掛けてしまって失敗。その次は湯煎の温度が高過ぎて失敗。更にその次は湯煎に使っているお湯の水蒸気が、チョコに混ざって固まらず失敗。手作りチョコってこんなに難しいんだね。5回目にしてやっと成功したけど、その時には買ってきたチョコが全て底をついてしまった。
「7時には日向クンが来る。それまでに何とか間に合わせないと!」
嬉しそうに笑う日向クンの顔が頭に浮かぶが、目の前の光景はそれを打ち砕くほどの破壊力を秘めていた。苦く焦げ臭いキッチンに、調理器具が散乱したテーブル。シンクにはドロドロのチョコレートが浮かんでいる。わざわざボクから呼び出したのだから、日向クンは期待してやってくるに違いない。当日に渡せなかった分、頑張らないとね!
「ふ……、ふふふっ。希望は絶望になんか負けないんだ…。ボクは必ずトリュフ作ってみせる」
後 3時間もあるんだから平気だ。投げ出したい気持ちを必死で押さえて、ボクはヘラを手に取った。

更に3時間後…
「遅くなったけど、ハッピーバレンタイン〜…。はい、日向クンお待ちかねのチョコ……、でーす…」
鍋敷きに鍋を置く。鍋の中には溶けたチョコレートの入ったボウルが、お湯に揺られてぷかぷかと漂っていた。ボウルに入ったどろりとしたチョコレートを日向クンは怪訝な眼差しで見つめている。だけどしばらくして口を開いた。
「え…、何だこれ。ホットチョコレート?」
「ううん。チョコレートフォンデュだよ。どうかな? 高級な感じするよね? はい、果物とマシュマロ」
ボクはさっと果物を乗せた皿を出した。そうだ、竹串も必要だよね。キッチンにある引き出しからそれを探し当てて、「召し上がれ」と日向クンに言いつつ渡すと、戸惑ったように「お、おう」と返される。ボクの顔を一瞬窺った日向クンだったが、さすがに察してくれたのか黙って食べてくれた。
「…うん、美味しいぞ。狛枝。丁度良い甘さだ」
「おいしい? 本当? …良かった。あ、ボクも食べる!」
「お前味見してなかったのかよ」
ちょっと怖かったからね。変な物は入れてないから大丈夫とは思ってたけど。早速イチゴを竹串に刺して、チョコレートにたっぷりつける。とろりと流れていくチョコレートを零さないように、下からパクリと口に入れた。
「ん〜っ!! おいしい! イチゴの酸っぱさとチョコの甘さが絶妙なハーモニーだね!」
「グルメレポーターみたいなコメントだな。何か俺より美味そうに食ってるし」
だって本当においしいんだもん。次は何を付けようかと、ボクはワクワクしながら果物の皿に目をやった。
「ありがとう。俺が食べたいって言ったから、わざわざチョコ用意してくれたんだろう? 気持ちだけでも本当に嬉しい。トリュフなんて難しそうなのに狛枝は良く頑張ったな」
「ふふっ、良いよ良いよ。ボクも食べたかったし…。って、え!?」
聞き間違いじゃないよね? 何で作ろうとしてたのトリュフって分かったの!? ボクがビックリして日向クンを見ると、彼は黙ってキッチンを指差した。あ…、ココアパウダーの缶。買ったのに結局使わなかったな。
「ぷっ、…作るメニューが自分の好きな物って辺りがお前らしいよな」
「む〜。ホワイトデーは日向クンが作るんだよ。ボクの5時間に及ぶ苦労が分かるってもんだね!」
膨れてみせると日向クンは「はいはい」と笑って、頭を撫でてくれる。日向クンなら失敗せずにちゃんと作れそうだな。手が離れるのとは逆に、日向クンの唇が近付いてくる。ふわりと触れるだけのキスはチョコレートの匂いがした。


「あのさ、狛枝。…これってやっぱりそういう意味、だよな?」
「…え? 何のことかな」
日向クンはスッと立ち上がると、ボクの前にしゃがみ込んだ。彼は顔を少し赤くし、口元を手で押さえている。そういう意味って何だろう? 首を傾げているボクの問いには答えずに、日向クンは床に敷かれているカーペットをベロリと捲り上げる。
「? 日向クン、どうしたの? カーペットなんて捲って…」
「……狛枝、脱いでくれ」
「ぬ、脱ぐって…。もしかして、パンツも!?」
「ああ。…全部だ」
琥珀の瞳がボクを貫く。日向クンにハッキリとした強い口調でそう言われ、ボクは反論する力も湧かなかった。散々彼と通じ合わせた体だ。服を脱ぐのに、今更恥ずかしさなんてない。きっとこのまま2人で気持ち良いことをするのだろう。でもこんな所で?という戸惑いもある。ここはリビングだ。床は木製のフローリングで、裸で横たわるとさすがに痛い。ベッドには行かないのだろうか?
見ると日向クンもジャージとその下のシャツを脱いで、上半身裸になった。厚みのある逞しい胸筋、引き締まって綺麗に割れた腹筋。男らしい無駄のない体が曝け出されて、ボクの胸はドキッとする。この体に抱かれることが出来るボクは、何て贅沢者なんだろうとすら思う。
ボクも彼に言われた通りに着ている物を全て脱ぎ捨てると、日向クンはその服をポイッと遠くへ投げた。それから考えるように顎に手を添える仕草をした後、脱いだばかりのジャージを床へと敷く。
「背中痛いかもしれないけど、勘弁してくれよ?」
「???」
ゆっくりとボクを床に置かれたジャージの上に寝かせた日向クンは、テーブルからチョコの入ったボウルを持ってくる。…まさか、これって。
「チョコ、そんなに熱くないな…」
「ひ、日向クン!? ちょっと待って…! あっ、…や、あああッ」
ボウルが傾けられて、中のチョコがゆっくりと一筋垂れてくる。生ぬるいベトベトした液体がボクにたらりと落ちて、その面積を広げるように流れた。あまりなことにボクの体はビクンと震える。日向クンは黙ったまま、空中でボウルの位置を移動させた。胸から乳首を掠め、腹から臍へと流れ、そして下半身の敏感な部分までチョコに塗れて、ボクはその光景に絶句してしまう。甘い濃厚な香りがぷぅんとボクの体から漂ってきていた。
「ははっ、全身チョコ塗れだな。…すごく、美味そう」
「あ……っ、あ、」
空になったボウルをテーブルの上に戻して、日向クンはボクに乗り上げている。息を乱して、興奮に赤く染まった雄々しい顔。このままじゃ食べられてしまう。体を捩らせるとトロリとボクの肌に掛けられたチョコレートが形を変えた。
「お前が作ってくれたチョコなんだ。全部俺が食うよ。お前ごとな」
いただきます。そう言ってペロリと舌舐めずりした日向クンが、ニヤリと歪んだ笑みを浮かべた。

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09.黒猫の話 : 2/22
「殺してやるよ、狛枝……」
「…ううっ、日向クン。もう、許して。見たくない、聞きたくないよ…!」
ボクの涙ながらの懇願に、日向クンはゆっくりと首を振った。答えは、否定。許してくれないんだ…。また殺されてしまう。絶望的な戦況に、ボクはどうすることも出来ずに彼を見つめるだけ。勝てる気がしない。日向クンは愛憎がたっぷり籠った微笑みをボクへと向けるだけだった。


1時間前…
仕事が終わり自宅で着替えたボクは、意気揚々といつものように日向クンのアパートに押し掛けた。
「すまない! 狛枝…。この埋め合わせは必ずするから!」
合鍵でドアを開けた先に待っていた彼が放った第一声。それにボクはきょとんとする。「おかえり」じゃないのかな…。パンッと某錬金術師の如く手を合わせた日向クンに首を傾げたボクは、履いていた靴を脱いで我が家同然の彼の部屋にずうずうしく上がり込んだ。
「日向クン、何の話かボク良く分からないんだけど…」
「えっ!? いや朝の連絡事項の時にさ、俺…代理でサッカー部の遠征の付き添い頼まれてただろ?」
「…ああ、そういえばそうだったっけ」
彼に言われて、ボクは頷き返す。確かにここ最近ベテランの体育の先生が急病で休んでいて、その代わりに日向クンが色々と仕事を押し付けられてるってのは聞いた。ボクの素っ気ない反応に、日向クンは少し渋い顔をした。2人の間の温度差に何やら感じる所でもあるようだ。彼はしょんぼりとした様子で口を開く。
「悪い。狛枝って察しが良いから、俺分かってるもんだとばっかり思ってて…」
「そんな、…日向クン」
「ごめん…。一方的だったよな」と日向クンは謝ってきた。頭のアンテナもへなへなと垂れている。ボクが悪いのに、そんな顔をさせるのが申し訳ない。ボクは黙って彼にぎゅうっと抱きついた。日向クンの広い背中に腕を回すと、日向クンもそっとボクを抱き返してくる。温かい彼の温度と馴染みのある匂いが伝わってきて、ボクは安心して目を閉じた。やっぱりボクは日向クンが大好きだなぁとしみじみ感じてしまう。
日向クンはボクの恋人だから、彼のことはいつでも気にしているつもりだ。日向クンの良く通る声は、ボクの耳にはそれはもう至上のオペラのように心地好い刺激を与えてくれる。他の先生が『日向』という単語を口にする度、耳をダンボにしてその言葉を一字一句逃さず聞いてしまう。つまりボクは日向クン専用の集音機を持ち、常に情報を把握しているような状態なのだ。
だけど今回はそれを逃してしまったらしい。うーん、悔しい…。ボクは日向クンのことを1番に知ってないといけないのに! 気を取り直して、ボクは日向クンに抱きついたまま問いかける。
「…それでその遠征は、ボクと何か関係があるのかな?」
「遠征の準備が明日。明後日が長野に遠征。ここまで言えば、分かるよな?」
「………」
今日は金曜日だ。半同棲生活を送っているボクと日向クンは、週末だけどちらかのアパートに入り浸って、イチャイチャらぶらぶ甘々に過ごしているのだ。だが彼の言うことには、土曜である明日は遠征の準備をし、日曜である明後日は長野へ行ってしまうらしい。
「ええっと…、明日も明後日も日向クンいないってことかい?」
「その通りだ!」
そんな力入れて言わなくても…。少しだけ体を離した日向クンは「ごめんな、狛枝…。ごめんな」と何度も呟く。『ごめんな』1回につき、キスを1つ。前髪の掛かった額、メガネを掛けていない目元、外の冷気で冷えた頬、赤くなっているであろう鼻の先。その優しい擽ったさにボクの方が待ち切れなくて、彼の唇に自分のを押し付けてしまった。食むように啄ばんで唇の柔らかさに胸が温かくなる。
2人とも社会人なんだから、仕事で土日を返上してしまうことなんて想定の範囲内で。寧ろ今まで予定が立て込むことなくイチャつけたことがすごく幸運なんだと思う。ボクは別に怒っていない。だけど日向クンは本当に悪いと感じているようで、いつまでもボクを離してくれなかった。
「……ねぇ、日向クン。とりあえずリビング行かない?」
「そ、そうだな。寒かったよな。気が付かなかった。…お前と抱き合ってると温かいし」
日向クンは照れたように顔を赤くした。そんなの、ボクだってそうだよ! ああああ、幸せ過ぎて死んでしまいそうだ。幸運の神様がボクを殺そうとしている。おお、怖い怖い。ボクはゾクリと鳥肌を立てながら、日向クンの後に続きリビングへ向かった。


「明日は10時からだから、今日はずっとお前の傍にいるよ」
「日向クン…」
キリリとした瞳を向けて、日向クンがボクに微笑みかける。心臓がトクンと静かに甘く波打った。ゴミムシに気を遣うなんてことしなくていいのに。ボクがキミを許さない訳ないじゃないか。「謝らないで」と言おうとして、ボクはハッとして、口を閉じた。…もしかして、これはチャンスなんじゃないかな? ボクの中の淀んだ黒が形を変えて、小さな悪魔を作り出す。
日向クンは基本的にボクに甘い。ボクがお願いすると割と何でもやってくれるし、クールな面ばかり見せているから分かりにくいけど、意外とボクとベタベタするのも好きなようだ。だけど彼にも一線というものがあるらしい。以前女の子がつけるような可愛らしいヘアアクセサリを、ボクが冗談で日向クンのアンテナに付けようとした時は、真っ赤な顔で「恥ずかしい、似合わない」と言って、すぐに外してしまった。どうやら彼は『自分が可愛い』ことには抵抗があるようだ。男なのだから男らしく。そういう信念があるようで、本気で嫌がっていた。

今の彼にそういうことをお願いしたら、ボクに対する負い目もあって、素直に聞いてくれるかもしれない。わざわざ自宅に戻って持ってきたアレを、日向クンは付けてくれる可能性がある! 思考の果てに出てきた結論に自然とにやけてしまう。日向クンに悟られないようにボクは表情をわざと険しくし、恭しく咳払いをした。
「は? 傍にいる…だって? 日向クン、良く考えてよ。そんな当たり前のことでボクが満足すると思う?」
「こ、狛枝…? ごめん…っ。…俺が出来ることがあれば、何でもするから」
何でもする、ね…。…ふふっ、ボクはこの言葉を待っていた。密やかに笑みを浮かべた後、チラリと日向クンを窺う。彼は若干泣きそうな顔になっていて、ボクの胸がざわざわと苦しさを訴えてくる。んぅうううう!! 日向クン、日向クン…、酷いこと言ってごめんね! だけどこれは希望のためなんだよ。キミが纏う穢れない光を、ボクは更に輝かせたいんだ。
「………。…本当に何でも聞いてくれる?」
「ああ! もちろんだ。俺は、お前のこと…あ、愛してる、から…!」
カアアアッと日向クンは耳まで赤くした。うわぁ…、何その照れながらの告白。可愛過ぎて鼻血が出そうだよっ。いや、ダメだダメだ。ボクは鼻の下を伸ばさないように努めて平静を装った。そして隣に置いていたワンショルダーバッグからある物を取り出す。それを見た途端、日向クンの一本気な表情からは力が抜け、面白いくらいに萎れていった。
「……何だよ、それ」
「何って、まぁ見たまんまだよ」
「いや、だから何で」
「猫の日だから」
「………」
日向クンはボクの言葉を聞いて、石のように固まってしまった。何とも微妙そうな表情で、その物体を見ている。今日は2月22日。今、ボクが日向クンに差し出しているのは猫耳カチューシャだ。円のように弧を描いた黒い合成毛のカチューシャに、三角形の大きな黒い猫耳が付いた、定番の萌えグッズである。
「まさか、狛枝…それを俺に……、」
「うん。キミに付けて貰いたくって、わざわざ家から持って来たんだよ?」
「いやいやいやいや! お前が付けるならともかく、俺が猫耳だなんてっ」
「……日向クン。何でもしてくれるって、言った…」
「う…っ」
わざと声を震わせて俯いてみせると、日向クンは苦しそうに言葉を詰まらせた。

ボクは懸賞が良く当たる体質らしく、葉書を出すと大抵何かしら商品が届く。お米とかお肉だと日向クンは喜んでくれるから、ボクは食べ物系に照準を合わせて小まめに筆を取っていた。松茸が当たった時は号泣してたっけ。でも狙っていない商品が当たることも多くて、その場合は人(主に日向クン)にあげたり、オークションで売ったりして小銭を稼いでいた。以前当たった猫耳カチューシャ。使わないなと思って放置してたけど、売らなくて良かった〜。
希望である日向クンに、更に可愛らしい猫耳が加わるんだ。鬼に金棒じゃないか…! ずいっと突き出した黒い猫耳カチューシャを、日向クンは仕方ないといった感じで渋々受け取った。
「狛枝…。これ、本当に付けないといけないのか?」
「ああ、ボクは明日も明後日も一人ぼっち…。日向クンはボクを置いて仕事。寂しいよ…」
「………っ、く…!」
日向クンは諦めたように、猫耳カチューシャを頭へと近付ける。そう、そのまま付けるんだよ。はぁあああっ、にゃんこな日向クンがもうすぐ拝めるんだ! 既に表情を抑えることも忘れて、ボクはハァハァと息を荒げる。期待に満ちたボクの視線を受け、日向クンは頭に猫耳を付ける…、その1歩手前でピタリと手が止まってしまった。
「…あの、狛枝。俺だけじゃ恥ずかしいし、お前が付けてるとこも見たいんだけど…」
「………」
なるほど、そう来たか。付き合い始めのイエスマンだった頃の彼とは少しずつ変わってきているようだ。ボクの言葉の隙間を縫い、鍔迫り合いで応戦することが増えた。多少反発された方が刺激がある。強引に責められるのだって悪くない。寧ろ酷く扱われる方が興奮するし、後に与えられる愛の深さも実感出来る。だけど甘いよ、日向クン…。キミがボクに猫耳を付けたいと言ってくることなんて、分かり切っていることさ。
キミは勘違いしている。それは猫耳が1つであるという前提で考えていることだ。ボクに唯一の猫耳を付けられたら、自分はそれを免れるとでも信じているのかい? ニヤリと笑ったボクは再びバッグの中を探って、それを取り出した。
「分かったよ。ボクも猫耳付けてあげるね。1人じゃないから恥ずかしくないでしょ? …日向クン」
「何…、だと…!」
バッグの中から出したのは日向クンとお揃いの猫耳カチューシャだ。だけど色は白。2つセットだったんだよね、これ。というかボクは何の懸賞に応募したんだろう? 全くもって謎だ。ニッコリと微笑んで、彼に猫耳装着を促しつつ、ボクも白い猫耳カチューシャを付けてみる。安物だからかカチューシャの先端が内側に丸まり、側頭部に突き刺さるようになっていた。食い込んだ所が少し痛むけどそこは我慢する。日向クンはボクのことをしばらくじっと見つめていたけど、意を決したのか脳天から勢いよくカチューシャを嵌めてくれた。
「狛枝ぁ!! これで…、どうだ!!!」
「うわぁぁああっ、日向クン…!! はぁんっ」
かわいい、かわいいよぅ、…日向クン! 劇的な日向クンの変貌を目の当たりにしたボクは顔を両手で覆って、ゴロゴロとカーペットの上を転がった。日向クンは男だ。平均以上の身長もあり、体育教師だから体格的にもしっかりとしている大人の男。だけどその頭に付いているのは愛らしい猫耳だ。もう1度言おう。180cm以上の身長と91cmの胸囲を誇る立派な体格の日向クンが、頭に黒い猫耳を付けている。
日向クンはさっき以上に顔を真っ赤にして、唇を噛み締めている。成人男性の頭に猫耳というアンバランスさと恋人の恥ずかしがってる姿に、ぎゅううううと心臓を押し潰されるような甘い衝撃が走る。これは、ヤバいね…! 黒猫な日向クンに悶絶し過ぎて、ボクは思わず涙が出てしまった。
「……狛枝! も、もう、いいよな? …これ外しても」
「ダメだよ、日向クン。明日の朝まで付けててよね」
「朝までって…! 似合わないだろ。俺がこんな、猫耳なんて…」
「そんなことないって。かわいいよぉ…! 飼いたいよぉ…!」
再び転がり出すボクに日向クンは困り果てている。日向クンが黒猫さんだったら、ボクは一生大事にするよ。ずっと離れないで、キミの面倒を死ぬまで見てあげるんだ。そう、死ぬまで…。………。ふと現実的なことを考えてしまい、ボクは瞬時に冷静になる。サッと起き上がり座り直すと、律義な日向クンは猫耳カチューシャを付けたままだった。
「ないない…。男に可愛いとかって。あ、いや、お前はめちゃくちゃ可愛いぞ! もふもふでふわふわのやつみたいで」
「あはっ、お世辞でも嬉しいよ。ボク達ってにゃんにゃんコンビだね! あ! ね、ねぇ…日向クン、」
「っダメだ!!!」
全部を言い終わらない内に、ボクの言葉は日向クンの張り上げた大音声により却下されてしまった。ええーっ、まだ何も言ってないのに! 口を尖らせて、ボクがじっとりと日向クンを見つめてると、彼は呆れたように片目を瞑った。
「どうせ写真撮りたいとか言うつもりだったんだろ?」
「何で分かるの」
「何となくだよ」
「………」
さらりと言い切った日向クンに、ボクは言葉を失ってしまった。何故かと言うと、正に彼の言う通りのことを言おうとしていたからだ。すごい、何で分かったんだろう…。以心伝心ってやつかな。段々と彼に近付いていっている証がまた1つ増えて、ボクの胸はほっこりと温かくなった。
写真は残念だけど、日向クンが嫌がるなら仕方ない。可能な限り網膜に焼き付けるとするか。……隙があるなら、隠し撮りしようっと。


猫耳をつけた大人の男が2人、炬燵に入ってぬくぬくと温まっている。「日向クンは耳が5つあるね」とボクが言うと、「頭のこれは耳じゃねぇから!!」と日向クンが返す。折角可愛い猫耳を付けているのに、いつもの口調だとなぁ…。うーん。ボクの心の中の悪魔が槍のようなしっぽをくねらせる。
「あのね、日向クン。……語尾に『にゃ』って付けてほしいな」
「いや…、狛枝。俺さ、これでもかなり頑張ってるんだぞ。それを更に『にゃ』って…」
「ああ、明日と明後日で48時間あるなぁ…。その間ボクらは離れ離れ。切ないよ…」
「………っ、く…!」
苦悶の表情を浮かべる日向クン。ああ、これなら拒否はされないな。何だかパターン入ったような気がする。それほどまでに彼はボクを2日間1人にすることに罪悪感を感じているようだ。利用してごめんね、日向クン。だけどもうちょっとだけボクのお願い聞いてほしいんだ。日向クンがわなわなと震える唇を開いていく。ボクはそれを固唾を飲んで見守った。
「…あの、狛枝。最初って勇気が要るし、お前に手本を見せてほしいんだけど…」
「………」
なるほど、ここまでがパターンなんだね! でもそんな些細なことをボクに望むだなんて、本当にキミはボクに甘いな。ボクが「お安い御用だよ!」と胸を張ると、日向クンは意外そうに口をポカンと開けた。そんなにビックリするようなことかな? ボクには良く分からない。
…さてと、日向クンに猫語で語りかける訳だけど、日常会話だとムードがないよね。そうだなぁ。例えばボクが猫だったら、初めて会った人間の日向クンに何て言うだろうか。遊びであるにも関わらず、ボクは大真面目にシチュエーションを考えた。ペットショップでショーケースに入れられて、もしくは段ボールに汚いタオルと共に詰められて。外をつまらなさそうに見ているボクの前に日向クンが現れたら…。そうなったつもりで、ボクは彼に言葉を投げかける。
「……ひにゃたクン、……ボクを飼ってにゃん」
「っ!!!!!??」
ボクがセリフを言うと、日向クンは顔を硬直させてしまう。…時が止まったのだろうか? ボクがそう錯覚しかけたその直後…彼は体をゆらりとさせ、前のめりにぶっ倒れた。ゴンッと鈍い音が炬燵テーブルから響く。…あれ? ええええっ! 日向クンがショック死したよ! どうしようっ。ボクの酷い猫語に仏の日向クンも卒倒しちゃった。どうやらセリフ選びを間違えてしまったようだ。ボクってセンスないし、きっと堪え切れなかったんだね。急いで近くに寄って日向クンを助け起こすと、彼はピクピクと震えながらやっとのことで体を起こした。
「大丈夫かにゃ? ひにゃたクン…。…ごめんにゃ」
「こ、こまえだ…っ、も、もう良いから。分かった、から…。手本見せてくれて、ありがと、な」
「? うん。もういいのかにゃ?」
「!! た、頼む…、普通に戻ってくれ! これ以上されたら、俺……胸が…っ」
「えええええっ! やだやだっ、ひにゃたクン、死んじゃ嫌だにゃ!!」
「うぐ…っ! …おい、人の話聞けって…、」
「分かってるよ。それで、日向クン。『にゃ』って付けてくれる…?」
ニッコリと日向クンに笑いかけると、黒猫な彼はやれやれといった面持ちになった。でもお願いはちゃんと聞いてくれるようで、嘆息しつつもテーブルに置かれたボクの手をぎゅっと握ってくれる。眉間に皺を寄せた難しい顔だ。男らしい彼の喉仏が間近にあり、唾液を嚥下する度にそれがゴクリと動く。ハッと息を吸ったかと思えば、未だに迷っているようで、日向クンの口から言葉が発せられることはない。
視線を泳がせ、身の置き所が無い彼の様子に、ボクはちょっと虐め過ぎたかもしれないなとぼんやりと考えていた。だけどいよいよ日向クンは決意したらしい。ボクの頭を優しく撫でた後、「狛枝…」と名前を呼んだ。
「今日の晩飯、グラタンだぞ……にゃ」
「っ!!?????」
あ、ボク今死んだ。そう思った時には既に遅く、ボクは日向クンの腕の中へどっと倒れ込んだ。逞しい彼の体がボクをしっかりと受け止める。何か語尾の付け方が間違ってるような気がしたけど、そんな小さな問題が消し飛んでしまうほど彼の言葉はセンセーショナルだった。ボクの背中に手を回しながら、彼は更に言葉を紡ぐ。
「付け合わせのサラダ作るの、手伝ってくれる…にゃ?」
「〜〜〜っ! ひ、日向クゥン…」
「包丁は危ないからダメだけど、手でレタス千切る位は出来るにゃろ?」
「ああああっ、日向クン!! レタスでも何でも引き千切るからぁああ!」
お願い、止めて! 耳を塞いでしまいたいけど、彼の声を逃すなんて勿体ないことボクには出来ない。何ということだ…。既にボクは日向クンに3回殺された。死因は心臓麻痺だ。日向クンの希望溢れる猫語はボクを殺してしまうほどの殺傷能力を有していた。若干棒読みな所がまたリアルだ。段々と日向クンはコツを掴んできたようで、自然な猫語になってきている。ボクのダメージ量が増えることは明確だった。
「グラタン作るのちょっと時間掛かるけど、待っててくれるよにゃ?」
「も、もちろん! 何時間だって待つよ!! 正座して、キミの料理する姿をしっかり見届けるよ!」
「いや、お前にはレタスを千切ってもらうにゃん」
「そうだねそうだったねっ!! キミを手伝わないでただ待ってるだなんて、おこがましいにも程があるよね!」
頭の中が沸騰し過ぎて、思考回路がめちゃくちゃだ。きっと日向クンの声が耳元で聞こえるのが余計にダメなんだ。ボクは日向クンの肩口を押して、彼の腕の中から逃れる。顔を上げたボクの瞳に、ほんのり赤らんだ頬の日向クンがチラリと映る。
「あっ!!?」
「狛枝…?」
しまった、忘れてた! 頭に警鐘が鳴り響くも、時既に遅し…。猫耳の日向クンが居心地悪そうにボクを見た。うわああああっ! 目の前に黒猫な日向クンがっ!! 狂ってしまいそうだ。絶体絶命とは正にこのことだ。どこにも逃げ場がない。幸運の神様だけでなく、日向クンもボクを殺そうとしているんだ!
「大丈夫にゃ? 狛枝…。熱でもあるんじゃないか……にゃ?」
「ないよ! 至って健康だよっ! 日向クンに言われた通り、毎日温かくして寝てるからね!」
「それなら良いけどにゃん。まぁ…お前が風邪引いても、ちゃんと俺が看病してやるからにゃ。安心しろ」
「……あ、ありがとう! 日向クン。キミは最高の恋人だよ!!」
「それは違うぞ!…にゃ! 休日にお前をほったらかして仕事に行くダメダメな恋人…、だろ?」
「ひ、…日向クン。怒らないで。お願い…っ、もう止めて、許して…。ボク死んじゃうよ」
「………。止めてやらないにゃん。お前が先にやってきたんだろ? 俺の気も知らないで煽りやがって……にゃ」
「ごめん、ごめんって。ボクが悪かったから…。我儘言ってごめんなさいぃ…」
もうボクは10回くらい死んでいる。彼が言葉を発する度、心臓がぎゅっと強く締め付けられて苦しいんだ。吹っ切れた日向クンは恐ろしい。彼は羞恥心をかなぐり捨て、何度も言葉の刃をボクへと振り下ろした。ダメだよ、日向クン。苦しい苦しい苦しい。止めて、お願い…、ボク本当に死んじゃう…!
「狛枝。……俺の言うこと、何でも聞くにゃか?」
「聞くよっ、聞く聞く! 日向クン。…何でも聞くから!」
「いや、やっぱダメだにゃん。…このまま続けるぞ……にゃ」
「っうぁ、ああああ……っ、日向クン、日向クン…!」
ボクは一体何回死ねば良いんだ! 悲痛さを滲ませたボクの声に、日向クンは薄らと笑う。楽しそうにくつくつと破顔した彼がボクの唇に指を滑らせ、そのまま口付けを落とした。
「殺してやるよ、狛枝……」
「…ううっ、日向クン。もう、許して。見たくない、聞きたくないよ…!」
ボクの涙ながらの懇願に、日向クンはゆっくりと首を振った。答えは、否定。許してくれないんだ…。また殺されてしまう。絶望的な戦況に、ボクはどうすることも出来ずに彼を見つめるだけ。勝てる気がしない。日向クンは愛憎がたっぷり籠った微笑みをボクへと向けるだけだった。
ボクがいけなかったのだ。彼を本気にさせてしまったから。ふんわりと優しいキスがボクの唇に何度か触れた。穏やかに目を細めた日向クンは、ボクの生死を決定づける言葉をとうとう口にした。


「猫耳で、お前を萌え殺すにゃ」

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10.白猫の話 : 2/22
「あっ……、ひ、なたクン…、そこ、いやっ………いやぁ……っ、あ、っん!」
「いや、じゃなくて…いい、だろ。それに大事なこと忘れてるぞ…」
「んふ、んん、……にゃっ、きもち、いい、にゃあ……、ひにゃた、クン…! ううっ」
明かりを落とした室内で、白猫が俺の腕の中でピクンと体を震わせる。「もう死にたくない」。涙目でそう言った狛枝を俺は許した。土日に一緒にいられないのは本当に悪いと思っている。狛枝も恐らくは休日出勤の理不尽さを理解してくれていた。だけど今日は猫の日だったから。ああ見えて、狛枝は子供じみた悪戯が好きだ。イベントを利用して、俺に構ってくれるように仕向けたんだろう。
俺の猫耳と語尾を外す代わりに、狛枝の語尾に『にゃ』を付けてくれと頼んだら、彼はそれに従ってくれた。料理を作りながら、晩ご飯を食べながら、テレビを見ながら。猫の言葉でニコニコと話しかける狛枝に、俺の心臓は何度も痛みを訴えたが、とうとうここまで辿り着くことが出来た。今2人は体を繋げて、気持ち良さに全身を委ねている。
「あ、あ、あ……っ。んぁっ、いいっ、にゃぁ…! ひ、ひにゃたクン……も、きもちぃ、にゃ?」
「ああ、すごく…きもちいいよ。……ん、」
俺がそう答えると狛枝は満足したように、柔らかく笑った。ふわふわの髪でカチューシャ部分が隠れていて、狛枝に本当に猫耳が生えているように見える。世界で1番愛しい、俺だけの猫だ。痩せ気味の肩甲骨の浮く背中を掻き抱くと、汗で濡れているのか腕が滑った。唇を合わせて舌を絡めると、狛枝と俺の間で彼の本能がビクビクと涙を流す。
「ひにゃたクン……、好きだにゃ…、大好き……にゃ…っ」
「…俺も。好きだよ、狛枝。俺にはお前しか、いない…!」
「にゃあ…っ、にゃっ、あっ、んん、にゃぁあ!」
可愛い。見た目とかそういうのじゃなくて、中身がいじらしくて可愛いんだ。そんな彼を俺は愛してしまった。腰をぐっと進めて突き上げると、鼻にかかるような溜息を漏らして、俺の背中に爪を立てる。白猫は俺を潤んだ瞳で見つめると、『もっとして』と腰を厭らしく揺らしてみせた。どうせ明日は会えないんだ。抱き壊してもいいよな?
「狛枝、一緒にイこうか…。ふっ、く……、んん、はぁ…、」
「あ、それ、ダメ…。イく……にゃ、あ、あ、あああッ!」
ぶるっと体を震わせた狛枝に追い立てられ、俺も奥へと欲望を吐き出す。しばらく互いの吐息だけが寝室に響いた。


「ふふっ、ひーにゃーたークン♪」
甘えたがりの白猫はゴロゴロと喉を鳴らしながら、俺に頬擦りする。柔らかい毛並みをそっと撫でて、彼の桜色の唇にキスを送った。
「…狛枝。明日明後日1人にしちまうけど…、我慢出来るか?」
「平気さ。仕事なんだから、仕方ないよ。帰ってきたらいっぱい構って、ね?」
「ああ」
言われなくてもそうするつもりだ。スッと白い指先で俺の輪郭を撫で、ミステリアスに笑う狛枝。その仕草が痺れるほどカッコ良くて、俺は少しドキドキしてしまう。
「日向クンのことも、うんと構ってあげるからね…。寂しくても泣いちゃダメだよ?」
「!! 狛枝…、ありがとう」
礼を言うと、狛枝は「どういたしまして」と目を細めた。俺の気持ち、気付いてくれてたんだな。うん、2日もお前に会えなくて、俺も寂しいよ。本当は仕事を投げ出してでも傍にいたい。でもそれは無理だから。2人顔を合わせて、ベッドの中で笑い合う。次に会えたら、狛枝にたくさん構ってもらうんだ。そんな願望を胸に抱き、俺は白猫を腕に収めたまま、うとうとと眠りの世界へと落ちていった。

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