// Mirai //

11.炬燵の話 : 3/1
ダイニングテーブルに頬杖を突き、壁に掛けてあるカレンダーを一瞥する。銀行で粗品と一緒に貰ってきた、何の変哲もない大判のカレンダーだ。つい昨日まで広大な雪山に登山家が登っている写真だったのが、今では小川に雪解け水が流れる写真に変わっている。…2月、早かったな。きっかり4週間しかないから当たり前か。俺は小さく溜息を吐いた。今日から3月だ。
「………。狛枝ー?」
出てこないとは分かっているものの、何となく呼んでしまう。台所からリビングまでは隔てる物が1つもなく、部屋の中央に鎮座した炬燵テーブルの全貌が視認出来る。今はテレビも点いておらず、時計の秒針が動く音が空間に響いているだけだ。静かだな。俺はじっと目を閉じ、耳を澄ませる。すると秒針の音に紛れて、炬燵布団が擦れる微かな音が聞こえた。
「おーい、まだそこにいる気か? ………。はぁ」
返事はもちろんない。俺はイスから立ち上がると、ゆっくりと足音を潜めて炬燵へと近付いた。紺地に桜の花が散りばめられた鮮やかな色の炬燵布団は、俺と狛枝で一緒に買いに行ったお気に入りの一品である。柔らかいカーペットを踏み締めた先、炬燵のある一辺で俺は足を止めた。目下に見える彼の『しっぽ』にクスリと小さな笑みを零しながら、俺はその場にしゃがみ込んだ。炬燵には誰も入っていない…かのようで、実はいたりする。ふわふわの白い髪の毛がもふっと炬燵の縁から覗いていた。そう、狛枝がいるのだ。
「狛枝? そのままだと逆上せるぞ…?」
「〜〜〜! 〜〜…っ」
何か言っているようだが、残念ながら布団越しで聞き取れない。柔らかそうな癖っ毛に指を絡ませて、その感触を楽しんでいると、炬燵布団がもぞもぞと動いて、『しっぽ』はひゅっと中へと吸い込まれてしまった。ああ、俺も嫌われたもんだ。しばらくその場で待っていると、またごそごそと紺色の布が歪み出す。今度は何だ? やがてズボッと勢いよく飛び出た白い手には、狛枝が着ていたフリース―――正確には俺の―――が握られていた。…どうやら暑かったようだ。
「はいはい」
苦笑いしつつ俺が受け取ってやると、手渡した感覚が分かるのかするりと腕が引っ込む。狛枝が炬燵に潜り込んで、もうかれこれ15分は経っているだろう。完全なる籠城。彼なりの自己主張なのだろうか、狛枝は頑なに炬燵から出ようとしなかった。俺とさほど変わらない図体を丸めて、そう広くもない炬燵に収まっていることを考えるとちょっと面白い。でもあまり長く炬燵に全身を入れていると、体に悪いだろうと思う。俺はそれだけが心配だった。


何故こんなことになったのか…。事の始まりは俺が晩飯の時に何気なく言った一言だった。
『もう、3月か…。そろそろ炬燵、仕舞おうかな』
なめこの味噌汁を啜りながら、口を衝いて出た俺の言葉。その時の俺は何も考えていなかった。ただ実家と同じサイクルで考えると、時期的に丁度良いかななんて。パッと頭に思い浮かんだから言っただけで、大して意味もない。だが予想に反して、とある炬燵ファンの心に致命的なダメージを与えることに成功してしまったらしい。
『あはっ、日向クン…。冗談、だよね? ふふふっ、ありえない…、ありえないよ…!』
『? …あー、最近暖かいと思うんだよな。炬燵の代わりに電気カーペットでも敷いて、』
『は?』
『………。いや、あの…。炬燵はさ、もう良いだろ?』
『は?』
狛枝の不気味な半笑いは、瞬きの間に見下げるような冷たい表情へと変化した。有無を言わせない女王様オーラが彼の体から滲み出ていて、全身にぶわりと鳥肌が立つ。あの時は怖かったな。風邪を引いた時と同じ悪寒が体を駆け巡ったし。あれに罵りの言葉でも追加されていたら、変な方向に目覚めていたかもしれない。まぁ、それは置いといて。狛枝にとって炬燵という存在は、とても大きなものだったのだと改めて思い知らされた訳だ。

狛枝と炬燵の付き合いはそう長いものじゃない。出会いは去年11月の終わり頃、場所は俺のアパートだ。狛枝の実家には炬燵がなかったらしい。初めて炬燵を見た彼は目が点になっていた。俺が座るように勧めると、狛枝は恐る恐る布団に手を伸ばし、緩慢な動作で炬燵をじっくりと観察した。その様子は俺からしてみれば、かなり新鮮だった。様々な方向から布団を捲って覗き込み、スイッチをカチカチといじり、手を入れてその温度を吟味してから…。やっと炬燵に足を入れたのだ。
話を聞けば、狛枝の実家は洋風で統一された内装で、幼い頃から床に座るという習慣が全くなかったそうだ。更に炬燵という純和風かつ実用的なインテリアは彼の心を掴んで離さず、出会いから1週間もせずに狛枝は炬燵の虜となってしまった。トイレと風呂と寝る以外はほとんど炬燵でゴロゴロしている。炬燵でみかんを食べ、アイスを食べ、焼酎を煽る。物を取りたい時は俺に甘えた声を出せば、その望みはほぼ叶うという何とも自堕落な生活だ。それを許したのは俺でもあるのだけど。
『はぁああああっ、足から腰にじんわりとくるこの温かさ…。…これが、希望なんだね……!』
『狛枝、食い散らかすな。みかんの皮片付けろ』
『誰が炬燵を考え出したか分からないけど、発明者は天才に違いないよ! ボクは心からその人に感謝するね。素晴らしい…、素晴らしいよぉ…っ!』
『………』
元々面倒臭がり屋で怠惰な狛枝とそれを温かく包み込む炬燵の相性は抜群で、その近さは俺が嫉妬心を抱いてしまうほどだった。前に冗談で「俺と炬燵、どっちが好きなんだよ?」という、『私と仕事、どっちが大事なの?』的な質問をしたことがあるのだが、その時の狛枝がいつになく真剣な表情で腕を組み出したのがすごく印象的だった。あれは地味に傷付いたぞ。


「ほら、出てこいよ…。狛枝」
「………日向、クン」
優しく声を掛けると、するすると炬燵布団からもさもさの頭が突き出てきた。炬燵に籠った熱で、狛枝の頬は綺麗な薔薇色に染まっている。眉間に皺を寄せた少し不機嫌そうな顔で、俺に視線を投げる狛枝。かわいいな、ちくしょう。拗ねていても可愛いなんて、反則だろ。頭を軽く撫でると、上目遣いの灰色の瞳がじっとりとこちらを見つめていた。
「狛枝…」
「……嫌だよ、出ない」
「何でだ? そのままだと脱水症状起こすだろ」
「………。だってボクが出たら、日向クン…、炬燵片付けちゃうんでしょ…?」
「…あのな、俺はそこまで鬼じゃないぞ」
俺が首を振ると、狛枝は口を噤んでしまった。しかし俺の言うことを聞いてくれるのか、ガタガタと炬燵を揺らしながら中から這い出てくる。むわっとした熱気と共に、マジックショーの如く炬燵から決して小さくはない体が現れる。狛枝は消沈した面持ちでちょこんと座った。汗で乱れた髪が顔についていたので、それを取ろうと頬に触れると燃えるように熱かった。そりゃそうだよな、ずっと炬燵に潜ってたんだから。Tシャツのままの彼に、俺はさっき脱いだフリースを肩に掛けてやった。
「日向クン。暑さ寒さも彼岸までって言うよね? だから春分の日まで待ってほしいんだけど…」
「………」
狛枝は伏し目がちの表情でポツリと言葉を漏らす。駄々を捏ねる子供っぽさの反面、説得は妙に理論的だ。でもさすがに春分の日までは長いと思うんだよな。黙り込んでしまった俺に、狛枝は何かを察したようで、軽く唇を噛んだ。
俺は狛枝と争っている訳ではない。倒すべき目標は狛枝ではなく、炬燵である。怠惰という呪いを掛けられた狛枝は、可哀想に炬燵に囚われてしまったのだ。これが眠り姫だったらキスで呪いが解けるのだが、果たしてこの美しい白銀の王子は俺のキスで目覚めてくれるのだろうか? そうはいかないんだろうな…と思いつつ、俺はほんのり温かい彼の頬に手を添え、唇を合わせる。
「っ、ひなた、クン…」
「狛枝が寒い時は、俺が温めるから……。それじゃ、ダメか?」
「………っ、ぁ」
口を開きかけた狛枝にまたキスを落とす。ちょっとクサかったかもな。ムズ痒い気持ちが胸の内側でざわざわと落ち着かない。ちゅっというリップ音を立てながら唇を離すと、狛枝はとろんとした赤い顔で俺を見つめていた。
「……日向クン、本当に? ボクのこと、あっためてくれる?」
「お前が『嫌だ勘弁してくれ!』って言っても、離してやらないよ…」
さぁ…呪いよ、解けろ! 最後のダメ押しとばかりに狛枝の背中に腕を回し、ぎゅっと抱き締める。火照った狛枝の体から熱が流れ込んできて、俺も同じ温度になっていく。狛枝は俺の肩口に顔を擦りつけるようにして甘えてきた。しばらく2人とも動かないまま、時間だけが過ぎていく。ああ、堪らないな。好きな人に抱き締められる感触、鼻を掠める肌の匂い、そして染み渡る温かな温度。好きな人の体温はいくらでも欲しいんだ。狛枝の熱を炬燵になんて奪われたくなかった。やがて狛枝は腕の力を抜いて、俺から僅かに体を離し、向き合った。
「ひなたクン…」
「ん?」
「………。ボクも炬燵片付けるの、…手伝うよ」
「いいのか? 狛枝…」
こくんと頷く彼に、俺は驚きを隠せない。何と白銀の王子に掛かった呪いは、しがない男のキスにより解けてしまった。狛枝は目尻を下げ、俺に穏やかな視線を向ける。手触りの良い薄い色の髪、陶器のようなすべすべの白い肌、不思議な輝きを宿す灰色の瞳、可愛らしい形の桜色の唇が間近にあった。狛枝は俺の頬から唇に掛けて、長い指を滑らせる。
「ボクのこと、温めてくれるんでしょ? …今みたいに」
極上の笑みに思わず見惚れてしまい、俺は言葉が出て来なかった。美しい灰色が近付いて来たかと思えば、再度唇にふにゃりとした柔らかいものが触れる。狛枝、狛枝…。口づける度に、トクンと心臓が軽やかな鼓動を立てたのが分かった。どうやら俺に掛かった呪いはキスでは解けないらしい。きっと永遠に狛枝に囚われたままなんだろうな。俺は薄く目を瞑り、狛枝から与えられるキスに溺れていった。

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12.花粉症の話 : 3/7
平日の朝、ボクはいつも慌ただしく出掛ける仕度をしている。生来寝起きが悪いボクは、日向クンがいないと朝起きるのも一苦労だ。その上 癖の強いこの髪質が厄介で、今日みたいに毛先がフリーダムに暴れていると整えるのに時間が掛かってしまう。ヘアジェルを馴染ませ、ドライヤーでブローをして、何とか髪のボリュームを戻す。
日向クンみたいに短かったら手入れがしやすいのかな。(頭のアンテナはどうやらセットしなくてもあのままらしいけど) でも彼は会えば必ずボクの髪の毛を梳いて、「お前の髪、柔らかくて気持ちいいな」って褒めてくれるから、中々髪を短くしようという気にならない。ボクは日向クンに撫でられるのがすごく好きだ。
ドライヤーのスイッチをオフにしたボクは、洗面所の鏡でおかしな所がないか色々な角度から細かくチェックをする。日向クンの前に出るのに手を抜く訳にはいかないからね! …うん、大丈夫そうかな。
「よし……」
1人そう呟いて、ボクは洗面台から離れた。リビングのテレビは点けっぱなしで、朝のニュース番組が小さな音で流れている。ええっと、テレビ消さなきゃ。リモコンはどこだったかな? テレビ台、テーブル、カウンターとウロウロ探して、やっと見つけたリモコン。テレビに向かって、電源を押すとふつりと音と色が途切れた。日向クンのアパートに入り浸っている所為か、この部屋が自分の家だという自覚はあまりない。なので勝手が分からないことなんかもしょっちゅうだ。冷蔵庫の中は空に近いし、物の置き場所もいつも忘れる。
付き合って半年ほどした時に日向クンから『同棲しないか?』って提案されたけど、ボクはそれを断った。ボクが同棲したくないのにはいくつか理由がある。男同士で同じ職場に通っているからなんてのはもちろんだけど、1番は日向クンの負担になりたくないからだ。別に日向クンに不満がある訳でもないし、別れを告げようなんて考えたこともない。ボクは日向クン以外考えられないけど、日向クンにはボク以外の道がある。もしボクよりも魅力的な人が現れたら、邪魔にならないよう潔く身を引きたい。………いや、そんなの嘘だ。本当は日向クンと誰かが幸せになるのを見たくない。彼に捨てられる前に逃げ出したい。ボクは、弱虫なんだ。
同棲することで日向クンを縛りたくない。だけど彼の傍にいたい。そんなジレンマの末、ボクは未練がましく日向クンのアパートのすぐ近くに部屋を借りたのだった。客を待つ娼婦の待機場所のような空っぽの空間だ。我ながら女々しいよね…。


スーツに着替えたし、後は家を出るだけだ。ああ、早く日向クンに会いたいな! 今日はどんなジャージだろう。爽やかなホワイト、シックなブラック、情熱的なレッド、理知的なブルー、お洒落にブラウン…。彼の出で立ちを脳裏に浮かばせ、ボクは頬を緩めながらウキウキと革靴を履く。そして鞄を手に取ろうとして中身をチラリと見ると、ケータイのランプがチカチカしているのに気付いた。
「…あれ?」
ぽわりと淡いピンク色の光は日向クンの印だ。メールとは光り方が違う。もしかして日向クンから電話が掛かってきてたのかな? 首を傾げながら画面を起動すると、案の定5分ほど前に彼からの着信が入っていた。モーニングコールとは時間が違うその呼び出しに、ボクは「ん?」と眉を寄せる。どうしよう…。電話してみようかな。それとも日向クンの家に寄ってみるか。歩いてすぐだし。そう思いつつ玄関を出ると…。
「………」
ゴーグルにマスクを付けた男がアパートの門の前に立っていた。……うわっ、すごく怪しい。思わず体が引いてしまう。一体何なんだろうこの人…と警戒しているボクに、その男は真っ直ぐ近付いてきた。あれ、良く見たらその頭のアンテナは…。
「おはよう、狛枝」
その声は良く知っている恋人兼同僚の声だったので、ボクはホッと安心して息を吐いた。前途の通りゴーグルとマスクを装着した不審者なのだが、一応は日向クンだ。目の縁を密閉する形のグレーのゴーグルはどう見ても競泳用だ。そして顔の下半分を覆っている超立体型マスクは、隙間が出来ないようにきっちりテーピングされていた。それで息出来るのかな…。
「お、おはよう。……何だ、日向クンだったんだ。どうしたの? そんな格好して…。通報されるよ?」
「前に1回通報されかけたけどな。じゃなくて! 俺だって好きでこんな格好してる訳じゃないんだ。花粉症でさ…」
マスク越しのくぐもった声で「世界が黄色いんだ…」と日向クンはぼやいた。ゴーグルの向こうにある彼の目は、徹夜明けの漫画家のように血走っている。そういえば日向クン、花粉症だったっけ。去年の春は鼻水とくしゃみと目の痒みですごく辛そうにしていた。その時彼が花粉症なのを初めて知ったけど、体育教師で健康的な日向クンがあんなに弱るなんて信じられなかったな。ずずっと鼻を啜る日向クンにボクは心底同情する。
「花粉症か…。日向クンが苦しんでいるのに、ボクには手を拱いて見ていることしか出来ない…! ……絶望的だね」
「はぁ…、去年はここまで酷くなかったんだけどな」
「ところで日向クンが朝来るなんて珍しいね。何かあったの?」
そもそも職場が同じとはいえ、いつもは別々に学校に向かっているんだけど、何でボクの家まで来たんだろう。もしかしてさっきの着信が何か関係あるのだろうか? 日向クンに問いかけると、彼は怪しい姿のまま弱々しく肩を落とした。
「狛枝の顔が見たくて…。お前がいないと、この地獄の季節を乗り越えられる気がしない」
「え……っ」
今、ものすごい告白を聞いた。花粉を完全防備した(傍から見たら)怪しい男と真正面から向かい合ったまま、ボクは視線を動かすことが出来なかった。丁度アパートの前を通りかかったのか、ゴミを出しに来た近所のオバサンが怪訝な表情でボク達を見ている。
「ひ、日向クン…。今の……」
「俺はお前がいないと生きられない」
日向クンの真剣な眼差しに、ボクは涙が出そうになった。この瞬間を人生の1ページに刻みつけたい。日向クンに「お前がいないと生きられない」って言われた…! 口を薄く開いたままのボクに、日向クンは何度も大きく頷く。日向クンは…、ボクなしじゃ生きていけないの? …本当に? 湧き立つような喜びが全身を包み込んだ。ボクは思わず片手で口を覆う。
「あ、ありがとう。…日向クンにそう言ってもらえて、ボクすごく嬉しい…!」
「狛枝……」
ゴーグルのスモーク越しに、日向クンが目を細めたのが分かった。ボクらは黙って、視線を絡ませ合う。きっとボクの顔はタコのように赤くなってることだろう。彼に必要とされている。あんまり弱みを見せない日向クンが、ボクを頼ってくれてることが嬉しい。心が高鳴って、天国に飛んで行ってしまいそうな心地だ。花粉症で不調な日向クンには悪いけど、すごく幸せな気分だった。
チラリと周囲に視線を走らせるといつの間にかオバサンはもう1人増えていて、2人してヒソヒソと囁き合っていた。大丈夫かな。…本当に通報されそうな気がする。日向クンはゴーグルで視界が狭くなっているのか、周りのことなんかお構いなしにボクを抱き締めようとしてきた。
「狛枝、こまえだ…!」
「! っダ、ダメだよ…、日向クン。近所の人…、見てる、から」
ボクは慌てて、それに待ったを掛ける。オバサン2人が「大丈夫?大丈夫?」というような視線を送っているからだ。見られてるのはどうにも落ち着かないな。とりあえず邪魔者を追い払おう。オバサン2人にボクがニコッと営業スマイルを向けると、彼女達はあからさまに安心したような顔をしてどこかへ立ち去ってしまった。…ふふっ、チョロいね。あの手の人間には愛想を振り撒いておいて損はない。周りからの視線を消したボクは改めて日向クンに向き直る。
「ああっ、日向クン。…可哀想に。代われるならボクが代わってあげたいよ…っ!」
「ありがとう…、狛枝。その気持ちだけで十分だ」
「うーん、風邪だったらキスで移してもらえるのにね。あ、薬は飲んでるの? 花粉症のってあんまり効かないのかな」
「え? 薬って…?」
「………」


数日後、日向クンは普通のマスクだけで何とか業務をこなしているようだ。全く、花粉症の薬を飲んでなかったなんて…。日向クンってどこか抜けてるよね。まぁ、バカな子ほど可愛いって言うし。…ボクはおバカな日向クンも好きだから良いけど!

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13.誤解の話 : 3/14
期末テストも無事終わり、今は試験休みに入っていて、学校にいるのは教師ばかりだ。試験から解放された生徒達は今頃羽を伸ばしていることだろうと少しばかり羨ましく思う。3月は年度末だけあって、やることが意外と多い。受け持ちクラスの通知表の評価、その他諸々の事務処理。陸上部の初夏の大会は申込期限が近いし、収支報告も全部出てきていない。来年度の受け持ちについても手を付けず仕舞いだ。おまけに俺は花粉症。まぁ、薬のお陰で大分改善されたけどな。
そんな悩み多き季節である春。3/14のホワイトデーというこの日、また1つ俺の悩みが増えた。

狛枝の様子がおかしい。

いつからだ?と考えても明確に起点が分からないものの、絶対に俺に対して余所余所しくなっている。今だってそうだ。俺の机から2列挟んだ窓際の席にいる清廉な彼に強い視線を送るも、チラリと灰色の瞳が一瞬だけ向けられるのみ。いつもなら吐息を零すほど優しく美しい微笑みを見せてくれるのに、その気配も全くない。冷徹な銀縁メガネの奥のネフライトはパソコンのモニタをぼんやりと見つめている。やがて狛枝は疲れたのかメガネを外し、眉間を摘まむように指を当てた。
「………」
「………」
頼む、こっち向いてくれ! そんな念を込めつつ狛枝をじーっと見つめるも、彼は訝しげにメガネを掛け直すだけで。頑なにこちらを見ようとしないその態度に、得体の知れない恐怖が俺をじわりじわりと追い詰めていく。これは怒ってる…のか? …そうだよな、そうに違いない。職員室には教員が俺と狛枝を除いて2、3人しかおらず、この無言の攻防に気付く者はいなかった。
何か原因があるのか? もしかして俺が知らない間に、あいつの気に障るようなことをしてしまったのか? ざわざわと心が落ち着かないまま、俺の指はキーボードの上を右往左往する。何か手を打った方が良いのは分かる。だがどうするべきか…。狛枝は理由もなく謝られることを嫌う。付き合い始めの頃に先手必勝とばかりに頭を下げたことがあったが、「キミ、本当に分かってるの?」と溜息混じりに返され、冷や汗を流した覚えがある。なので単純に謝るのはダメだ。
「とりあえず、考えてみるか」
原因を。俺は腕を組み、口の中で呟いた。狛枝に直接聞きに行くのは最終手段として、自分で出来る限りのことはしてみようと思う。パッと思い浮かばないが、集中すれば答えが見つかるかもしれない。ぐーっと伸びをした後、肩や首をぐるぐる回し凝りを解す。体から力を抜き、リラックスをすることが大事だ。大きな深呼吸を1つして、俺は静かに目を閉じた。考え事をする時の俺のクセだ。
視界をシャットアウトすることで集中力を高め、頭の中に浮かんでくるシーンを繋ぎ合わせて、原因となる出来事を探るのだ。黒く深い記憶の海にいくつもの白がふわりふわりと浮かんでいる。どれも狛枝との思い出だ。もうすぐ付き合って1年になる彼との大切な記憶がキラキラと光輝いて、俺の傍を通り抜けていく。目を細めて微笑んでいたり、涎を垂らして眠っていたり、物欲しげに熱い視線を送ったり。どんな狛枝も可愛くて好きだ。今は少し不機嫌そうだけど、絶対に普段の優しい彼を取り戻したい。息を吸い込み、真正面を見据える。よし…! いくつもの狛枝との記憶を横目に、俺は真っ黒い海へと飛び込んだ。


3/13 18:14
授業がないお陰で早めに学校が引けるのはありがたい。明日はホワイトデーだ。女性教師へのお返しのまとめ買いを頼まれていた俺は大型雑貨店へと来ていた。予算と合いそうな値段の瓶詰めキャンディーを見つけて、カゴの中へとどんどん放り込む。ああ、『あいつ』へのプレゼントも買わないとな。ホワイトデーフェアから少し離れた所に、ヘアアクセサリのコーナーを見つけた俺は会計を済ませた後に足を向けた。

3/13 19:35
玄関を開けると、微かに空きっ腹を刺激する良い匂いと温かな空気を感じた。狛枝が来ているのは分かっていたけど、晩飯の下準備をしていたとは驚きだ。「日向クンに任せっぱなしは良くないからね」と笑う彼は、俺がいつも料理の時に付けているクリーム色のエプロンを身に纏っていた。……何だ、この色気は。すごくそそるぞ。俺が持っていた紙袋を見て、「ああ、ホワイトデーのお返しね。ご苦労様」とゴソゴソと中身を確認していた。

3/13 20:08
向かい合って、狛枝と晩飯を食べた。今日のメニューは鮭のホイル焼き。オーブンに入れるまでの準備を狛枝がしてくれていたお陰で、そんなに待つことなく食事にありつけた。不器用な彼が魚をどうやって捌いたのか気になったが、スーパーの下拵えサービスに頼んだらしい。無言で箸を口に運ぶ狛枝。俺が何度か話しかけても、上の空なのか生返事しか返さない。「具合でも悪いのか?」と聞いてみても、「別に。元気だよ」と微笑むだけだった。

3/14 07:03
いつものモーニングコールだ。最初は6:30に電話したんだけど、何故か出なかった。まだ寝ているのか、仕度で電話が取れないのか。ダメ元で今電話したら、数回の呼び出し音の後にローテンションな狛枝の声が聞こえた。「寝てたのか?」と聞くと、「起きてたよ」とややつっけんどんに狛枝は答えた。眠いから機嫌が悪いのか? しばらく無言になったから、「おい、寝てないよな?」と冗談混じりに笑うと、「日向クンは好きな人いるの?」と聞かれた。

3/14 08:24
ギリギリの時刻に狛枝が職員室に来た。俺はさっきの電話が気になっていたけど、学校という公の場では中々狛枝に声が掛けられない。もちろんすぐに受け答えはした。「お前以外にいない」って。だけど狛枝は「ふーん」と興味なさそうな声を発して、「それじゃ」と一方的に電話を切ってしまった。俺の答えが間違っていたのか? いや、そもそも何であいつは『俺の好きな人』をわざわざ聞いてくるんだ。おかしい、何かがおかしい…。

3/14 12:15
昼休みに、女性教師達にホワイトデーのお返しを配る。「ありがとう」と素直に喜ぶ人もいれば、「あら、本命かしら」と茶目っ気たっぷりに返す人もいた。ソニアにキャンディーを渡すと「まぁ、可愛らしいですね!」とニッコリと笑ってくれて、用意した甲斐があったなと清々しい気持ちになる。「そういえば、今日はどういたしますか?」と聞かれたので、あのことかとすぐにピンと来た。今日引けたら駅で待ち合わせをすることになったんだ。

3/14 16:48
狛枝の様子がおかしい。いつからだ?と考えても明確に起点が分からないものの、絶対に俺に対して余所余所しくなっている。今だってそうだ。俺の机から2列挟んだ窓際の席にいる清廉な彼に強い視線を送るも、チラリと灰色の瞳が一瞬だけ向けられるのみ。いつもなら吐息を零すほど優しく美しい微笑みを見せてくれるのに、その気配も全くない。冷徹な銀縁メガネの奥のネフライトはパソコンのモニタをぼんやりと見つめている。


こんな所か…。俺は閉じていた目をゆっくりと開いた。ハッキリと異変を感じたのは今朝の電話だろう。だけどその前後で俺が狛枝に何かしたとかそういう覚えは全くない。もっと前か? 昨日の夜に帰りを迎えてくれた時は「おかえり、日向クン」と甘えるような声で俺に抱き着いてきた。触れるような軽いキスを交わすのもいつもと同じだ。あの時の彼が不機嫌だったとは思えない。
「うーん……」
片付けるべき仕事を放り出して、俺は真剣に考え込んだ。時間を割いてでも考える価値があるからな。俺にとって愛しい恋人である狛枝は、仕事なんかよりもよっぽど重要なのだ。もっと些細な変化はなかっただろうか? 晩飯の時には会話もぎこちなかったし、既に狛枝の機嫌を損ねていたのかもしれない。帰宅してから、食事を摂るまでの約30分間に一体何が…? そこに確実に答えはあるんだ。俺が直接何かしたのではないのなら、間接的なことだろう。
俺の頭の中に文字がチラつき始める。後もう一息だ。原因となるある物の正体まで、手が届きそうな所まで来ていた。文字1つ1つを慎重に並べ替えていく。そう、3/14が誕生日である彼女に買った物があった。きっと狛枝はそれを見て、誤解してしまったに違いない…!

プレゼント

文字が組み合わさり出来たその言葉に、俺はハッとした。…そうだ。ギフト用のラッピングをお願いして可愛らしいピンク色の包装紙に包まれた七海へのプレゼントを、ホワイトデーのお返し用キャンディーと同じ袋に入れていたんだ。俺が帰宅して、その袋の中を見た狛枝はどう思っただろう。艶やかなリボンが綺麗に巻かれたプレゼントは、ホワイトデーに本命に送るお返しに見えただろう。
俺はガタッとイスから立ち上がった。原因さえ分かれば、後は誤解を解くだけだ。もうこれ以上、狛枝に避けられるなんて俺には堪えられない。早く、早く…! 俺だけにいつもの優しい微笑みを見せてくれ。足早に事務机の傍をすり抜けて、狛枝の席の横に立つ。彼は何事かと俺を黙って見上げ、メガネのブリッジを流れるような動作でスッと上げた。
「すいません、狛枝先生。少し、よろしいですか…?」
「どうぞ」
「っ、いや…、この場ではちょっと。込み入った話ですので」
校内でこんなに緊張したやりとりは今までなかっただろう。敬語も慣れない。仕事で必要ならば会話も辞さないが、俺は今すごく私的なことで狛枝に話し掛けているのだ。狛枝は少しハッとしたようだったが、すぐに表情を消してしまう。
「……分かりました」
そして小さく了承の返事をした。間近でメガネを掛けた狛枝をじっくり見ることなんてなかった。2人きりの時に見慣れている怠惰で淫らな姿とは異なる、学校での清廉潔白で一糸乱れぬ凛とした出で立ち。とても同一人物には思えない。確かに見知った恋人であるはずなのに、別人を相手取っているかのような新鮮さ。カッチリと着こなしているスーツのボタンを外して、その隙間に指を滑らせたら…。メガネの向こうの灰色はどんな形に歪むのだろうか。
「とりあえず、出ましょうか」
俺の鼓動の高鳴りに気付いているのか、余裕のある動作で狛枝は職員室の外を指差す。ふしだらな妄想に思考を奪われかけていたが、頭を振ってそれを追い出す。狛枝の誤解を解いて仲直りしようって時に何を考えているんだ、俺は! ………。何もかも狛枝が厭らしいのがいけないと思うのは良くないと分かっているけど、そう考えずにはいられないほど狛枝は全身から蠱惑的なオーラを滲ませている。
職員室から出た狛枝はすぐ脇の階段をさっさと登っていってしまう。俺から呼び出したにも関わらず、狛枝の方が率先して動いている。どこに行くのだろうと首を傾げつつ着いていくと、渡り廊下を通り、部室棟まで歩を進めていった。試験休みなので活動している部もあるはずだ。狛枝はある1つのドアに手を掛けて、スタスタと中へ入って行ってしまった。
「天文部…」
ドア脇に掛かっている寂れた表札にはそう書かれていた。廃部寸前のこの部の顧問は紛れもなく狛枝だ。彼の後に続いて中へ入る。ベニヤ板の長テーブルとパイプ椅子、見るからに古めかしい望遠鏡以外は特に何もない質素な室内が目に飛び込んできた。白けた黒板には天体の位置と動きがチョークで細かく書き込まれ、隅の方には落書きと呼ぶには手の込んだ銀河の絵が描かれていた。
「さぁ、日向先生。お話とは?」
長テーブルに後ろ手を突いて、狛枝は首を傾げてみせる。顔に浮かんでいるのは、学校で垣間見せる人を寄せ付けない冷たい微笑みだ。この場には2人だけで話を聞かれる心配はないというのに、飽くまで彼は教師という態度を崩さない。それだけ機嫌が良くないということか。俺はぎゅっと拳を握り締め、狛枝を見つめた。
「狛枝、誤解なんだ。俺はお前が不安になるようなことは何1つしていない」
「…何のことですか? 話の筋が読めませんよ、日向先生。ボクにも分かるように説明してほしいな」
「お前…、あのプレゼント見たんだろ?」
「………。キミの本命、だよね。それがソニアさんってことなの?」
段々と狛枝の言葉が崩れてきている。彼は手でさらりと髪を梳き、これ見よがしに溜息を吐いた。
「ソニアじゃない。というかあれはホワイトデーのお返しじゃない。誕生日プレゼントなんだ」
「ふぅん。ソニアさんの誕生日は10月じゃなかったっけ?」
「そうだな、10月だ。あれは七海の誕生日プレゼントだ。お前は覚えてないか? 七海の誕生日」
「………」
記憶を探るように狛枝の顎に指が添えられた。俺は七海と高校卒業後も頻繁に連絡を取っているが、狛枝は年に1度の忘年会くらいでしか彼女とはあまり顔を合わせていないだろう。誕生日を知らなくてもおかしくはない。
「……じゃあ、ソニアさんに話しかけてたのは?」
「ソニアと七海はルームシェアしてるんだよ。ソニアに七海のシェアハウスを紹介したのは俺だからな」
狛枝は「あ…」と小さな声を上げた。どうやら合点がいったようだ。長い睫毛を揺らし、彼はバツの悪そうな顔で俺に視線を寄こした。
「…ごめんね、日向クン。誤解だったんだね…。ボクを一心に想ってくれていたのに、キミの気持ちを疑うなんて。バカなことをしてしまったよ」
「いや、俺が言わなかったのが悪かったんだ。こっちこそ、お前を不安にさせちまって、…ごめんな」
誰にも見られてないよな? 今更ながら部室のドアが閉まっていることを再確認した俺は、狛枝の唇にちょんとキスを落とした。顔を離した途端、狛枝から顔を近付けられ、俺にお返しのキスが送られる。何度も何度も小鳥のように口付けを交わしていたのが、段々と吐息に熱が籠り、舌をねっとりと絡め合う濃厚なものに変化していく。
「あ…、日向クン……ッ、あんっ、んん、」
「っふ…っ、狛枝、先生…」
「あはっ、それは反則だよ…。…日向先生?」
「……お前もだろ?」
「…そこまで言うなら……、んっ、先生らしく、問題でも出してみようか」
狛枝は唾液に塗れた唇をぺロリと舐めた。そして緩急をつけた手付きで俺の体を撫で回しながら妖艶に笑う。
「簡単な証明問題だよ、日向先生。ジャージで脳筋なキミにも分かる、すっごく易しい問題…」
ジャージというのは差別用語に入るのだろうか。ツッコむ余裕すらなく、俺は言葉の先を促す。
「はぁ……っ、あ、……ん、早く、言え…よ」
「今すぐに……、ボクへの愛を証明してくれるかな? 出来るよね、日向…先生」
体を引き寄せられ、耳元に湿っぽく息を掛けられる。ゾクリと全身に甘い刺激が走り、何だか意識が朦朧としてきた。狛枝の体に腕を回すと、ピクリと彼が身じろぐ。ザラザラしたスーツの生地を背中から尻へと撫でていく。ここは学校だ。生徒達の知的好奇心を高め、学力と協調性を養うための教育の場である。そこでこんな行為に及ぶなんて…。迷いがある俺の考えが手に取るように分かるのか、狛枝は更に畳みかけてきた。
「ボクの体…、スーツの下でどうなってるか、見たくない? ハッキリ言って、すごいよ…。ほら、ココとか」
「っ! こま、えだ……!」
手を取られ、導かれた先は狛枝の股間だ。ふんわりと膨れたそこは温かい。スーツを膨らませるその熱の正体を想像して、ドクンと全身の血が湧きたった。
「ふふっ、…日向先生も同じかな? ねぇ、ボク達こんな状態で職員室なんて戻れないよね…」
「で、でも……」
「大丈夫さ、人なんて来ないよ。ふ、んんっ……それとも日向クンは…、ボクを不安にさせた負い目はないのかな?」
「あ、いや…! ……そんな、ことは」
「ボクもキミに謝りたいんだ。キミを少しでも疑ったこと、本当に後悔してるんだよ。だからそんな気持ちを起こさせないようにしてほしい。はぁ……っ、証明問題だよ、日向クン。ボクの奥深くに、キミの愛を刻み込んで…?」
蕩けたような狛枝の顔が迫ってきて、唇を塞がれる。甘い甘い誘惑。この手を振り払って部室から出て行く理性など、どこにも残っていなかった。俺は熱が巡り始めた体を狛枝にぐっと押し付ける。
「良い子だね。優秀な生徒は好きだよ…」
唇を撫でる白い指を軽く咥えると、彼は満足そうに灰色の美しい瞳を細めた。そうだよな、今すぐに問題解かないと…狛枝先生に叱られる。心の中でそんな言い訳をしながら、俺は長テーブルに狛枝を押し倒し、そのスーツの合わせに右手を滑り込ませたのだった。

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14.修了の話 : 3/21
「狛枝先生、1年間お世話になりました!」
職員室から入ってきたや否や真っ直ぐボクの席まで近付いたその生徒は、勢い良くその頭を下げた。その間、僅か5秒。突然の出来事にボクはあんぐりと口を開けて、真っ黒い彼の脳天を見つめるだけだった。
「あ、あの…、キミは?」
「…っすいません。おれのこと、覚えてませんか? 去年まで天文部の部長やってた―――」
照れたような面持ちで告げられたその名前に聞き覚えはなかったが、姿勢を戻した彼の顔は確かに記憶の片隅にあった。ボクが唯一顧問を務めている天文部にいた生徒だ。ボクがこの学校に転任してくる前から、部員数は部活を名乗れるギリギリの人数5人をキープし続けていたらしい。その内訳は兼部をしている生徒ばかりで、部長ともう1人の後輩以外は幽霊部員も同然の寂しい部活だった。
「もちろん、覚えているよ。キミ、3年生だったよね? もう卒業式は大分前に終わっているんじゃないのかな?」
制服の襟元についている学年章をチラリと盗み見ながら、ボクは無難に会話を続ける。卒業式は3月の始めにあった。ボクは高3を受け持っていなかったら、式に参加はしなかったけど。
「ああ。卒業式の時は後輩とゆっくり話せなかったし、修了式には顔を出そうと思って。狛枝先生も卒業式にはいらっしゃらなかったですよね?」
「そうだけど…」
ということは彼はわざわざボクに礼を言いに、着る必要のない制服を身に纏い、学校まで足を運んだというのか。奇特な人間もいたものだとボクは感心してしまった。顧問とはいえまともに部活動に顔を出さず、きっちりと言葉を交わしたのも決定された予算を告げる時だけだった。そんな部に無関心な顧問に何を感謝すると言うのだろう?
「天体の軌道や周期を分かりやすく説明して頂いて、すごく勉強になりました。計算式とかはちょっと難しかったけど。おれはただ……星を見て、それに纏わる神話とかそういうのしか知らなかったから…」
「…そう。キミのお役に立てたのなら、良かったよ」
大学で気まぐれに学んだ天文学の知識で、ここまで喜ばれるとは思わなかった。自然とふっと口元が緩んでしまう。純粋にこうして生徒に謝意を表されるなど初めてだった。生徒達に慕われ懐かれている日向クンとは違って、ボクは基本的に生徒には関わらないスタンスを取っている。コミュニケーション能力が著しく低いボクは、どこまで生徒に踏み込んで良いのか分からないのだ。日向クンはその距離を取るのがすごく上手い。
「大学でも天体観測のサークルに入るつもりです。なかったら作ります!」
「ふふっ、素晴らしい心意気だ。キミは本当に星が好きなんだね…」
「………」
「? どうかしたのかい?」
「あ、いえ…。おれ、狛枝先生のこと……ちょっと、怖い人だって…、思ってたから……。ごめん、なさい」
視線を泳がせた彼は途切れ途切れに言葉を零した。あはっ、本人の目の前で怖い人って言っちゃうんだ。この子は面白い子だな。ボクはぷっと吹き出してしまった。
「別に謝らなくても良いよ。きっとみんなそう思ってるから」
「で、でも! 今分かりました、狛枝先生……、取っ付きにくいってだけで怖くないです」
「っ…ふふふ。キミ、素直過ぎるよ」
「え、あ……とりあえず、その、…これからも天文部のこと、よろしくお願いします!」
彼はまた深々と頭を下げる。ボクも漸く席から立ち上がり、彼と真正面から向き合った。天文部にこんなに良い子がいたんだな。もっと部活動に携われば、楽しく交流出来たかもしれない。ボクも日向クンみたいに…。ううん、彼のようには無理かもしれないけど、自分なりに天文部を盛り上げていきたい。そんな前向きで瑞々しい気持ちが泉のように湧いてくる。
「分かったよ、なるべく力を尽くすね。ほら、もう顔を上げて…」
「? ……狛枝先生」
「卒業、おめでとう。キミの新しい門出を心よりお祝いします。大学でも頑張ってね」
「はい! ありがとう、ございます…!」
目に涙を浮かべながらも彼はニコッと笑って、職員室を出て行ってしまった。その姿を見送りながら、ボクは改めて思った。そうだ、自分は先生なんだって。ただ勉強を教えて、生活を指導するだけじゃない。彼らが楽しい学校生活を送れるようにより良い環境を作らなくてはならないのだ。気付かせてくれて、ありがとう。ボクも顧問頑張るね。先週してしまったことを心の中で懺悔しつつ、ボクは席へと再び座った。


つい1週間前のことだ。真面目で星が大好きな天文部部長には、とてもじゃないが言えない話。ボクは日向クンと部室で体を重ねた。密室で彼と2人きりになった時から、ボクの頭の中は浮気疑惑よりも日向クンと厭らしいことをしたい欲求が占めていた。前から憧れてたんだよね、学校で人知れずセックスするの。お互い教師で日頃から近くにいるのに、何も出来ないなんて勿体ない。いつでも日向クンを受け入れられるように、スーツの内ポケットにはコンドームを用意したりして。それはボクにとって願掛けというかお守りのようなもので、まさか本当に使うとは思っていなかったけど。


……
………

学校の部室棟。試験休みでも自主練のために活動をしている部はある。今だって1枚ドアを隔てた向こう側からは生徒達の楽しそうな談笑と足音が微かに聞こえていた。日常と僅か数mのこの場所で、ボクと日向クンは密やかに体を触れ合せている。睦言を囁く勇気なんてない。本当は彼の名前を呼びたかったけど、誰かに聞かれたらと思うと気が気でなかったから。
『……っ、はぁ……、ん、』
『…、くっ………、ハ、あぅ……』
ボクを長机に押し倒して、日向クンはボクの唇に熱烈なキスを送っている。絡まった舌が離れ、至近距離でボクらは見つめ合った。赤い顔で短く呼吸をする日向クンがボクを見下ろしている。捕食されると錯覚しそうなほどに、彼は飢えた目つきをしていた。
『、あ…っ……』
日向クンがボクのネクタイを乱暴に引き抜いた。素早くYシャツのボタンを外され、乳首をベタベタに濡れた舌で犬のように舐められる。ああ、もう…我慢出来ないよ! 胸ばかり責める日向クンの頭を手で押さえると、彼は動きを止めてくれた。身振り手振りだけでのセックスは意外とすんなり進む。手を引いて起こしてもらい、ボクらは抱き締め合った。
『んく……、ぁ……ふぅ、……う、』
耳を軽く甘噛みされ、ぶるりと鳥肌が立ち上がる。日向クンはボクを壁に追いやって、背中側から回ってきた左手で前を触ってきた。くちゅ…、くちゅん…と水音が下半身から聞こえてきている。浅ましいボクの欲望は、彼に与えられる快楽にビクビクと小さく震えていた。ああ、すごくきもちいい…。決して激しくはないけれど、ゆりかごで優しく揺さぶられるようなうっとりとした心地好さだ。学校という場所であるからか、身に迫るスリルが一層それを強くする。
日向クンの太くて熱いモノはボクのおしりの間に擦りつけられ、そこからしとどに垂れた体液が流れていた。やがて彼は指でボクの1番疼く場所をグリグリと押してくる。
『っ! 〜〜〜っ、……はぅ…』
鋭く走る快楽に声が出そうになったボクは慌てて自分の手で口を塞いだ。ダメ、そんなに、したら…、すぐに……! 日向クンの方へと顔だけ向けて、首を振る。だけど彼は止めてくれない。つぷ…っと指が内側へと埋め込まれて、ボクはビクッと大きく体を跳ねさせる。いつも彼に受け入れてるそこは大した抵抗もなく何本も指が入っていく。バラバラに動かされて、口を押さえている掌が涎で濡れていく。ああっ、ああ…! 日向クンの指がボクの中で暴れてるよ! ずちゅずちゅと抜き差しされて、膝を突きそうになるのを力強い腕で支えられる。
『……ひっ…あ……ぅあっ…!』
視線で限界を訴えると日向クンはコクンと頷いて、長机にうつ伏せになるようにボクの体を移動させてくれた。挿入に備えて入り口を指で広げてくる彼にゾクゾクしつつも、ボクは縺れる手でスーツの内ポケットからコンドームを取り出す。それを見た時の日向クン、間抜けな顔してたなぁ。何で持ってるんだよと言わんばかりの呆れ顔だったけど、素直にそれを受け取って歯で封を切った。しばらくゴソゴソしていたけど、すぐに硬い感触がその場所に触れる。
ああ、早く…早くぅ…! 狂っちゃうくらい、ぐちゃぐちゃに突きまくって!! ずぷりと体を割って入ってくる愛しいもう1人の日向クンを、ボクは悦びに戦慄しながら奥深くへと導いた。


……
………

「狛枝先生?」
「えっ、……ああ。日向、先生」
先週の出来事を思い出していたボクの頭の上に、聞き慣れた声が降ってきた。見上げるとそこにはスーツを着た日向クンが立っている。今日は修了式だから、ジャージは着なかったらしい。日向クンが学校で話し掛けてくるなんて珍しい。ふと職員室を見渡せば、ボクと日向クン以外は出払っているのか誰もいなかった。
「少し休憩しませんか?」
職員室と繋がっている教師専用の休憩室のドアを指差しながら、日向クンはボクを誘った。そうだね、ボクもキミと話したい気分だったよ。「ええ、良いですよ」と返事をして、休憩室へと歩いていく彼の背中を追う。休憩室にも人はいなくて、きっと日向クンはそれを知っていてボクに声を掛けたんだなと気付いた。
「コーヒーで良いよな?」
「うん」
休憩室は結構広くて、設備も整っている。ソファーセットにテレビ、テーブル。壁際のコーナーにはエスプレッソマシンや給湯器が設置されていて、様々な種類のティーパックもずらりと並んでいる。日向クンはボクの好きなフレーバーをエスプレッソマシンにカチリと嵌める。そして自分は緑茶のティーパックを紙コップに入れて、給湯器からお湯を注いだ。
「熱いから気をつけろよ」
「これくらいなら平気さ」
コップを渡されて、ソファに2人並んで座る。苦いエスプレッソを舌で舐めるように飲みながら、ボクは日向クンを見やった。彼もコップに口をつけ、緑茶をちびちびと飲んでいる。特に話がある訳ではないらしい。窓から差し込む夕日のオレンジ色を横目にボクも日向クンも黙ったままだった。
「さっきさ……」
「え?」
「…天文部の奴と話してただろ。あの時のお前……、尋常じゃないくらい嬉しそうな顔してた」
「ああ、顔に出てたんだ。あはっ、自分でも驚いちゃったよ。ボクにお礼を言いたいだなんて、酔狂な生徒もいるんだねぇ」
「ん? 俺は酔狂だとは思わないけどな」
「……そう、…かな」
「お前、すごく頑張ってたよ。朝も嫌だ嫌だ言いつつもちゃんと休まず来てたし、数学の課題とか試行錯誤しながらしっかり作ってたし。授業についていけなさそうな生徒の面倒だって、さり気なく見てるって聞いたぞ。天文部だって礼を言われるくらいのことしたんじゃないか?」
「………」
ボクのこと、気にしてくれてたんだね。涙が出そうになるのを堪えて、少し冷めてきたエスプレッソをゴクンと飲み込む。口の隅々まで広がる苦みにホッと息を吐く。
「ありがとう、日向クン。ボク、キミに認められるのが1番嬉しいよ…」
「…4月から3月まで、色々あったよな。狛枝先生、1年間…本当にお疲れ様」
日向クンはそう言って、空になった紙コップをコトンとテーブルの上に置き、右手を差し出してきた。精悍な顔立ちが優しく歪んで、琥珀の瞳は綺麗に細められている。今日は修了式。年度の終わりの日。ボクも飲み終わったコップを同じように置いて、日向クンの右手にそっと自分の手を繋げた。握手…。ゴツゴツしてて温かい彼の手にぎゅっぎゅと握られ、ボクは胸がいっぱいになった。


「また4月から一緒に頑張ろうな!」
「ふふっ、これからもよろしく。日向先生…」

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