// Mirai //

26.以心伝心の話 : 5/3
「帰ってくるの何時になりそうだ?」
ゴミ箱に溜まっているゴミを袋にガサガサと突っ込みながら、俺は受話器に話しかける。ゴールデンウィーク後半初日。今日は燃えるゴミの日ではないが、久しぶりにお客さんが来るので人目につく所はなるべく綺麗にしておきたいという、どうでも良い俺のこだわりから絶賛掃除中である。ポロッとゴミ袋から零れ落ちた紙くずを拾いながら、俺は左耳に意識を集中させた。耳の内側に密やかな息遣いが聴こえている。狛枝だ。
『んん〜、天文部が3時くらいまでで…、その後ちょっと仕事してから帰るよ。だから…』
「学校出るのが5時とかか?」
『そうだね。あ…。何か足りない物あるのなら、外いるついでに買って帰るけど』
「………」
買っていくではなく、買って帰るという言葉に何だか心がほっこりした。狛枝は俺のアパートを『帰る場所』だと思ってくれてるんだ。自然と頬が緩んでしまう。ああ、狛枝と一緒にいられて良かった。彼に心も体も癒されて、時間がとても穏やかに流れて。些細なことでも何だって幸せに感じる。
「…いや、いいよ。客が来るって言っても、主役はお前なんだから。真っ直ぐ帰ってこい」
『うん! 分かったよ。……ねぇ、日向クン』
会話が途切れる間際に、狛枝が何か言いたげに俺に呼び掛ける。「ん?」と短く返すが、返事が中々返ってこない。もう1度声を掛けようと息を僅かに吸い込んだ所で…
『…ちゅっ』
擽るようなリップ音が鼓膜を突っついた。
「!!?」
ピクンと体が跳ね、遅れて腰元から上へゾクリと何かが走る。手の中のケータイがするりと滑り落ちて、紙くずに満たされたゴミ袋の中にボシュッと音を立てて落ちた。言葉では言い表せない妙な感覚。ドクンドクン…と波打つ鼓動が聞こえる。とてもうるさい。全身が心臓になったかのようだ。
「………」
数秒間、俺はそのまま立ち尽くした。勝手に脳みそが何度も何度も狛枝のキスの音を繰り返している。ヤバい、このままだと…。素直に反応し始める下半身に気付かないフリをして、ゆっくりとした動作で俺はゴミ袋からケータイを拾い上げた。無論通話は切れていて、画面は狛枝が撮った星空の待ち受けになっている。
「ったく…、はぁ……」
ぶつけたくてもぶつけられない悶々とした気持ちが膨らんで、良く分からない文句が口から飛び出てしまった。俺は大きく深呼吸してから、さっきまで会話をしていた恋人に想いを馳せる。昨日から今日に掛けて、狛枝が顧問を務める天文部の合宿があり、珍しく離れて一晩を過ごした。合宿場所は学校だが、生徒がいる手前おいそれと連絡は出来ない。夜中に1度電話で話したが、5分ほどで狛枝から切ってしまった。
会いたい、会いたい。狛枝に会いたい。良い年をした大人の男が恋人に会いたくて堪らなくてしょんぼりしてますだなんて、情けなさ過ぎる。俺はぐしゃぐしゃと頭を掻き乱して、ゴミ袋をベランダの隅に置いておこうと窓際に近付いた。が、そこでまた溜息を吐きたくなる光景に出くわしてしまう。ガラスの向こう側の自分は大分切羽詰まった顔をしていた。


俺はケータイをダイニングテーブルの上に置き、部屋の中をぐるりと見渡す。昼前くらいからやっていた掃除も粗方終わりそうだと、腰に手を当ててぐっと体を逸らした。ゴールデンウィークだから遊びに行こうと左右田と九頭龍から誘われたのだが、行きたい場所が纏まらず結局俺のアパートで飲み会となった。先週狛枝の誕生日だったのを告げると、2人とも「祝杯だ!」とばかりに張り切ってくれているらしい。
「あいつらが来るのが先か、狛枝が帰ってくるのが先か…」
掃除機のコンセントを抜いて、クローゼットに仕舞う。これから適当に摘まめそうな物を作るか。俺は台所のフックに引っ掛けてあったエプロンを手に取った。


……
………

ピンポーン♪

インターフォンが鳴る音で俺はオーブンの残り時間を確認しつつ、「はーい」と返事をした。オーブンの中のオレンジ色の光に包まれているクッキーは丁度良い色具合で、焦げずに焼き上がりそうだった。今の時間は5時半を過ぎたくらいだ。狛枝は仕事が長引いてるのかな? エプロンを外してテーブルに投げ、玄関へと向かう。スコープを覗くと派手な赤色の頭をした男とやや低めの位置に短い亜麻色の髪の男が見えた。会うのもかなり久しぶりだ。ウキウキした気分で俺は玄関ロックを外した。
「九頭龍、左右田! いらっしゃい」
「よぉ、来てやったぜ」
ニヒルな笑みで片手を上げる九頭龍。以前からTシャツなどのラフな格好よりスーツなどのカチッとした服装を好む彼は、今日も黒いジャケットにズボンとカッコ良く決めている。足元はツヤツヤとニスで光るお洒落な黒いレザーシューズで、九頭龍の拘りを感じてしまう。…何だか背が伸びたような気がするけど、気の所為じゃないよな?
「ちーっす、おジャマしまーす」
そしてギザギザの歯の隙間からベロッと舌を出している左右田。春夏用なのか薄い素材のライダースジャケットにカーキ色のミリタリーパンツを着ていて、編み上げブーツを履いていた。高校時代と比べて髪も服も色味は落ち着いたものの、やっぱり賑やかな印象がある。左右田自身から滲み出ているのかもしれないなと何となく思った。
「とりあえず上がってくれよ。スリッパいるか?」
「いらね。……あれ? 狛枝いねェのかよ」
左右田はキョロキョロと辺りを窺う。そして俺以外の人の気配がしないことに首を捻った。
「ああ、あいつは部活の顧問で学校に顔出してる。もうそろそろ帰ってくると思うよ」
「ふーん。テメーも狛枝もマジで学校の先生なんだな。…実際そういうの目にすっと違うな」
しみじみと呟いた九頭龍はスリッパを履いて、廊下を歩いて行った。後に続く左右田もうんうんと黙って頷いている。みんな高校の時の印象が強過ぎるのか、立派に社会人をしているのを見ると確かに驚く。年を重ねているんだから就職やら何やらは当たり前のことなんだけど。
「適当に寛いでてくれ。ところで左右田…。すごい荷物だけど、それどうしたんだ?」
「へ?」
左右田は何故かスーパーの袋を両手に提げている。買い出しに行った主婦の如くパンパンに膨らんだそれを指差すと、九頭龍がぷっと吹き出した。くくっと顔を苦しそうに歪めながら彼は話し始める。
「こいつさ、オレが狛枝の誕生日プレゼント用意したの見て、さっき慌てて買って来たんだぜ?」
「バッ! 九頭龍、オメー! それは言わなくたってイイだろッ!」
カーッと顔を赤くしながら左右田は九頭龍に噛みついた。ああ、なるほどな。九頭龍は手に縦長の紙袋を持っていた。恐らく酒の類だろう。それを見た時の左右田は手ぶらだったようだ。堂々とそのまま来るのも気が引けたんだな。何ともこいつらしい。涙目になりながら「ちくしょう…」と呟いていた彼に、俺は笑いかける。
「たくさん買ってきてくれたんだな。サンキュー、左右田。それにしても…、これ一晩じゃ消化しきれない量だぞ」
「べっ、別に大したことねーしッ。今日がダメでも明日食べればイイっつの。なるべく日持ちするの選んだから…」
ごにょごにょと口籠る左右田は俺と視線が合うと、ふいっと顔をそっぽに向けた。その仕草を誤魔化すように、彼はドサッとスーパーの袋をテーブルの上に置く。袋の中からは缶ビールの6本パックやらお菓子やら摘まみやらがじゃんじゃん出てきた。本当にすごい量だ。冷蔵庫に入れた方が良さそうな物を選別していると、九頭龍が紙袋を「これも冷やしておいてくれ」と差し出してきた。
「九頭龍もありがとうな! 酒、だよな? 狛枝、すごい喜ぶと思う」
「ダチの誕生祝いに贈り物は当然だ。好みが合うかどうかは知らんがな。狛枝が飲めなかったら、日向が飲め」
つっけんどんに返されたが、照れ隠しなのはすぐに分かった。バツが悪そうに眉間に皺を寄せているのは照れている証拠だと前に辺古山から教わったから。「あいつ最近酒に慣れてきたし、色々試し飲みしてるから多分大丈夫だ」と言うと、「そうかよ」と舌打ち混じりに返される。ここで笑うと本気で怒られそうなので、俺は一生懸命表情筋を引き締めた。
「九頭龍、ちなみに何の酒だァ?」
「こら、左右田! 勝手に開けんな。テメーに買ってきた訳じゃねーんだっ。…こりゃ焼酎だよ。兼八」
「うおおおおッ!! すっげー、兼八かよ。しかも一升瓶! ヤベー、テンション上がるわー」
「だから、テメーのじゃねーって何度言ったら…!」
一升瓶の箱を巡ってバトルしている2人を微笑ましく見守っていると、アパートの壁のずっと向こうから微かな音が聴こえてきた。空耳…、じゃないみたいだ。自分でもそれが何なのかハッキリは分からない。だけど体がうずうずしてきて、俺はすっくと立ち上がってしまった。
「? 日向……、どうしたんだよ」
箱を取り合いながら、左右田が俺を見上げる。三白眼が不思議そうに俺を捉えているが、その問いかけに俺は答えることなく呆然としていた。空耳だと思っていた微音はさっきよりもしっかりと聴こえてきている。コツ、コツ、コツ…。耳を澄ませないと聞き取れないほどのすごく小さな音。音の響きと間隔にハッとした俺は玄関へと自然と足を動かしていた。
「おい、日向?」
リビングからの九頭龍の声が遠ざかる。さっきまでの気の所為は確信へと変わっていた。ずっと離れていた彼と会える。待ち望んだ再会に俺はドキドキしながら玄関の鍵を開け、ドアをそっと押した。
「あれ? 日向クン! 丁度良かった〜。鍵が鞄の奥に入っちゃって中々取れなかったんだ」
「………」
ほんわかとした微笑みを携えた狛枝がそこに立っていた。学校から自宅に戻らずそのままこっちに来たのかスーツ姿にメガネを掛けている。何だろう、胸の鼓動が鳴り止まない。たった1日離れていただけだったのに、何十年も待っていたかのような感覚。それほどまでに俺は狛枝に恋焦がれている。
「ふふっ、2人とももう来てるみたいだね! ……日向クン?」
「狛枝……」
中へと入ってきた狛枝が靴を脱ごうとするのを制して、俺は彼の細い腰に腕を巻き付ける。靴置き場にいるからか視線はいつもより下だ。戸惑ったような表情を浮かべるその顔を優しく撫でて、俺はぽやんと薄く開いた桜色の唇に自分のそれを近づけていった。
「おっ、狛枝じゃねーか。……つーか、日向よぉ」
九頭龍の呆れかえった声が聞こえて、俺は体の動きをピタリと止めた。そうだ、忘れてた! 今は左右田と九頭龍が来てるんだった。恐る恐る首だけで後ろを振り返ると、顔を真っ青にして叫喚している左右田とどこか力の抜けた表情の九頭龍が立っていた。
「いや、まぁ…テメーらがそーいう関係なのは知ってっけど。いざ見せつけられるとビミョーに複雑だぜ…」
「ご、ごめん。どういう訳か、体が勝手に動いて…」
「パブロフの犬かよ! …それより何で分かったんだァ? 狛枝が帰ってくるだなんて。電話来た気配もなかったしよぉ」
頭をボリボリと掻きながら左右田は疑問の声を上げる。騒いでいた2人には聞こえなかったんだろう。でも俺には分かった。狛枝の靴がアスファルトを叩く音だって。優雅で軽やかなそれは決して他の人間には出せない。彼だけの音だ。道を通る人全員の音が分かる訳ではない。ただどんな靴を履いていようが、狛枝だけは分かるんだ。
「足音…したから」
「え? オレ何にも聞こえなかったぜェ。九頭龍も気付かなかったよな?」
「ああ。……でも、ありえない話じゃねーな。オレが家に帰ると、いつも閉めてた鍵が開いてて、ペコが玄関先で三つ指ついて待ってるから。それがずっと不思議だったんだが、なるほど……足音、か」
顎に指を添えながら、九頭龍がそんなことを言った。左右田は「ケッ、リア充め…」とブツブツ言いながら、リビングへと引き返して行く。
「ったくいつまでもベタベタしてんじゃねーよ。オラ、狛枝! 今日の主役はお前だぜ?」
「九頭龍クン…」
狛枝の表情が見る見る内に明るくなる。1週間遅れだろうが何だろうが、誰かに誕生日を祝ってもらうのはとても嬉しいことだ。名残惜しくも狛枝の腰から手を外すと、彼は困ったように笑いながら靴を脱いで玄関に上がった。擦れ違いざまに「後で、ね?」と耳元で囁かれて、俺の心臓がまたも騒ぎ始める。左右田達が帰るまでおあずけか。心の中でとほほ…と嘆きながら、俺は狛枝生誕祝賀祭会場へと向かうのであった。


……
………

誕生日を祝おうなんて空気は最初の30分くらいしかなかった。酒が入れば、みんな好き放題に騒ぎ出す。テーブルを4人で囲んで、俺が作った料理や左右田が持ってきたお菓子を適当に摘まみながら、色々な話に花を咲かせる。九頭龍は狛枝以上に酒が弱いらしく、焼酎を2、3口飲んだ後は黙ったままボーっとお菓子を摘まんでいた。左右田は缶ビールを次から次へと空けていて、大分ハイペースだ。
「へぇー。意外と飲めんじゃん、狛枝。前は早々に潰れてたよなァ?」
「うん。ちょっとずつ飲んでたら、慣れてきたみたい。だけどあんまり飲むとやっぱりすぐ酔っちゃうよ」
九頭龍から送られた焼酎をチビチビ飲みながら、狛枝は少し赤い顔で左右田に返事をした。灰色の瞳はしっかりと視点が安定しているのでまだそれほど酔っていないようだ。だが油断は禁物。長い睫毛に縁取られた美麗な双眸がこちらへ向けられて、名前を呼ばれる。
「ねぇ、日向クン…」
「ちょっと待ってろ」
彼の言いたいことを察知して、俺は頷いて立ち上がる。冷蔵庫の扉を開いて、狛枝用にストックしてあるミネラルウォーターを手に取った。それから食器棚から注いで飲む用のグラスも。コトンとグラスを狛枝の前に置いて、トクトクと水を注いでやると、狛枝はニッコリと微笑んで「ありがとう、日向クン」とペコリと頭を下げる。
「……おい、日向。今のは何で分かったんだ?」
「ん? 何がだ?」
「だ、だってよぉ…。狛枝はオメーの名前しか呼んでねェんだぞ? それが何で水だって分かんだよ?」
ビールをグビグビと煽る左右田から質問が飛んだ。……何で分かるか、だって? そんなの…、
「何となく、だけど」
「はぁ!? 何となくだぁ? おい、狛枝。オメーは水が飲みたくて、日向に声かけたんだよな?」
「うん、そうだよ。九頭龍クンのお酒、えーっと…兼八だっけ? すごく美味しいんだけど、ちょっと度数高めだったみたいでさ。でも水割りにするのは勿体ないし、休みながら飲みたいなぁって思って。それで水が欲しくて、日向クンにお願いしようとしたんだよ」
やっぱり当たってたか。良く分からない満足感に俺はふぅと息を吐いた。狛枝が焼酎に口をつけた後、ペロッと唇を舐めながらグラスをじーっと見てたからな。あれは気に入った酒を飲んでいる時の仕草だ。どうでもいい酒なら水割りにしてしまうが、お気に入りは薄めて飲みたくはないらしい。だけどアルコール度数がキツい物をずっと飲んでいられるほど、狛枝は酒に強くない。なのでいつも水を間に挟んで休憩を入れながら飲むのだ。
「正解とか、マジかよ…。日向って人の心読めんのか!? 読心術ってやつ?」
「そんな大袈裟な。今のはたまたまだろ」
人の心を読むだなんて大それたこと、平々凡々な俺に出来る訳がない。狛枝とは長く一緒にいるからか大体の行動パターンとかクセとかを知っていて、そこから推測しているだけに過ぎない。あいつの全部を理解していると考えるほど傲慢じゃないぞ。
「あー、ちょっとオレに試させてくれよ。……なァ、日向」
俺に心が読めるのか確認したいようだ。左右田は畏まって俺に呼び掛けてくる。物は試し。乗ってやるか。じっと向けられる赤い瞳から訴えかけるメッセージを受け取ろうと、俺も真剣になって視線を返す。左右田の伝えたいこと…。それを頭ではなく、心で感じるんだ! 見つめること数秒。俺はすぅ…と静かに深呼吸した。直感だったが、間違いない。
「………分かったぞ、左右田」
「お、おう…!」
「トイレならそこ出て左のドアだ」
「ちっげーよッ!!! ポテチ空けちまったから、代わりのスナック的なのくれって…、ああああっ、もう!」
「……すまん」
左右田は頭をグシャグシャと掻き毟った。そこまで悔しがる必要があるのか俺には分からないけど、彼的には相当ショックだったようだ。おかしいな。分かったような気がしただけか? 狛枝なら割と当たるんだけどな。左右田は立ち直ったのか髪を整えて正面に向き直った。
「よし、実験を続けるぞ! 狛枝、今オメーがしたいこと…紙に書け。そんでオレにだけ見せろ」
「えっと…、左右田クン?」
「狛枝、気が済むまで付き合ってやってくれ。どう見ても諦めそうにないし」
「うん。それじゃあ…」
狛枝はコクンと頷いて、左右田からボールペンを受け取った。食べた後のチョコレートの包み紙に思案しながら、文字を書き記していく。もちろん実験提案者が手元をガードしているので、見ることは不可能だ。書き終わったらしい狛枝のメモ書きを見て、左右田はニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「よし、これで裏は取れたな。……日向ァ、狛枝が何考えてっか分かるか? 当ててみろ!!」
ニヒヒッと得意気になっている左右田に少しイラッとしてしまうが、それはまぁ良いだろう。俺は狛枝の灰色の目をじっと見つめた。うっとりと潤んでいる美しいネフライト。無造作にうねっている髪と酒に酔って朱に染まった顔が隙だらけでものすごく可愛い。キスしたいな。煩悩に負けそうになりながらも、俺は狛枝を穴の開くほど見つめた。
「………」
そういえば酒は飲んでいるけど、あまり食べてないような気がする。だけど俺が作った料理は完食してたよな。慎重にテーブルを観察すると、摘まみや乾き物はたくさんあったが、甘い物が1つもないことに気がついた。もしかしたらと考えて、俺は台所へ向かう。ケーキは時間が掛かるからクッキー焼いたんだよな。第1弾で焼き上がったのは全部食べ尽くしたけど、クッキーの種はまだ残っている。冷蔵庫からラップで包まれたそれを手にして、俺はリビングへと戻った。こぶし大ほどのクッキーの種を狛枝に見せてみる。
「狛枝、…クッキー食べたいか?」
「なっ!!!」
引き攣った声を上げたのは狛枝ではなく、左右田だった。狛枝はきょとんとしていたけど、しばらくしてふにゃりと蕩けるような微笑みを見せた。この反応を見ると、今回も当たったようだ。左右田はガタガタと震える手で、折り畳んだチョコレートの包み紙をゆっくりと開いた。そこには狛枝の綺麗な字で『日向クンのクッキーが食べたい』と書かれている。
「…おい、九頭龍。今の見たか? こいつらテレパシー…ってもう潰れてるッ!?」
「チッ。……うっせー、潰れてねーよ。ねみーんだよ、オレは……」
九頭龍はテーブルに突っ伏して、左右田を邪魔そうに手でヒラヒラとあしらっている。狛枝は心配そうな顔で、空になった九頭龍のグラスにミネラルウォーターを注いであげていた。
「その内復活するだろ。寝かせておいてやろう」
「そうしようか。無理に飲ませちゃうと、ボクらが辺古山さんに怒られちゃうもんね。あ、日向クン」
「ああ。……丁度良いやつあったかなー。探してくるな」
俺達の会話にまた左右田が唸り声を上げる。迷うように視線を泳がせた後に、俺と狛枝を交互に見やった彼は「おい!」と言葉を投げかけた。
「今のは、何だよ?」
「「風邪引くといけないから、毛布を……あっ」」
最後の呟きまで見事に被ってしまい、俺達は顔を見合わせ、声を立てながら笑ってしまった。対する左右田は驚いている…というより、若干怯えているようだ。
「オメーらすげーっつーより、すごすぎてこえーよッ! どーいう原理なんだ!! 読心術の域超えてっぞ!」
「読心術というより、目とか仕草で分かるんじゃないかな? ボクだって日向クンが何したいかとか何となく分かるよ」
恐怖でテンパっている左右田を尻目に、狛枝は熱っぽい視線をこちらに向けた。俺が狛枝のしたいことを感じるのと同じように、彼も俺のしたいことに気付いてくれるのだろうか。今まで一緒に生活した記憶を振り返ってみると、確かにそうだったような気がしてくる。狛枝にメールをしようと思っていて、同じタイミングでメール受信することはしょっちゅうだ。だけどあまりにも普通過ぎて、そういう認識は全くなかった。
「じゃあ逆もやってみよーぜ! 九頭龍の毛布はその後だッ」
「左右田、これで最後だからな」
「わーってるよ。もう言わねェからよ! 頼む、狛枝…!」
両手をすりすりと合わせて、左右田は狛枝に頭を下げる。狛枝は俺よりかは迷惑に思っていなかったらしく、「別に良いよ」と左右田の肩を軽く叩いた。今度は今までと違って、俺の言いたいことを狛枝が読み取ることになる。まずは何を伝えるか考えないとな。ええっと、俺が今したいことか。1日ぶりに狛枝と会った時のときめきを思い出す。九頭龍と左右田がいなかったら、あのままキスしてたかもしれない。もしくは玄関でその先のことまで…。
体に触れて、抱き締めて、優しく撫で回して。したい、したい、キスしたい。柔らかい唇に口付けて、舌を絡めて、体の全てで狛枝を感じて。そんな望みを視線に込めて、狛枝を真剣に見つめる。狛枝、狛枝、狛枝…。しばらくして彼は目を丸くした後、困窮したように顔を伏せた。酒で酔って赤くなった頬が更に赤みを増す。そして恥ずかしそうにモジモジしながら、ぽつりと声を漏らした。
「………日向クン、今は…無理だよ」
「あ……」
伝わったんだ。俺の考えてることが狛枝に。明確に言い当てられてはいないが、絶対に伝わったという確信があった。それを証明する術は今はないけれど。その事実に俺はぎゅっと心臓が締め付けられる。
「ちょ、狛枝!? おい、分かったのか? 日向の言いたいこと!!」
左右田は驚愕するばかりで、俺達の交わす視線の意味を知る由もない。俺はズキズキと痛む心臓を抱えたまま、狛枝の潤んだ灰色を見つめる。彼の涼やかな両目が妖艶に細められ、形の良い唇が「あ、と、で」と声なき声で囁いた。

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27.聞き耳の話 : 5/3
クラクラする。頭が回って、全身の感覚が狂う。どっちが上でどっちが下だ? 右に傾き、左に傾き。揺れる、揺れる。地面が揺れている。オレ今寝てるんだよな? 体が沈み込んで起き上がれない。……いや、起きる必要ねェか。だって誰も起こさねーし。寝てていいんだ。寝よう。だってすっげェねみーもん。
「左右田……?」
「日向クン、静かに…。彼、爆睡してるみたいだから」
「何だ、こいつまだ寝てんのか。狛枝…」
「うん、お布団なら用意したから。…あっ、日向クン髪濡れたままだよ?」
狛枝がタオルで日向の髪を拭いてるのか、バサバサと布がはためく音がする。んだよ、あいつらまたテレパシー使ってんのか。つーかマジで何なんだ。何で分かるんだ、お互いのことが。長年連れ添ったただのオシドリ夫婦じゃねーか。ちくしょう、リア充め。爆発しろ。
「髪乾かしてくるから…、狛枝。そしたら…」
「うん、分かってるよ。さっきからシたくて堪らないって顔してる」
「悪い…。嫌だったか?」
「そうじゃないよ。ボクだってお客さんがいる手前、必死に隠してたんだ。…んっ、日向クン」
あ…、今ちゅって聞こえた。………。こいつらキスしやがった。オレが寝てる傍で! くっそ、くっそー!! ムカつく。……ってかするって何を? 日向と狛枝は恋人同士だ。ということは…。いや、待て。おいおい、まさか本気じゃねェよな? オレが寝ながら混乱していると、片方の足音が遠ざかっていった。
「左右田ク〜ン? ……ダメだ、起きなさそう」
耳の傍で狛枝の声が聞こえて、体がビクッと痙攣したが、瞼を開く気にはならなかった。今は起きたくない。オレは嘘を吐くのが下手だ。日向と狛枝がキスしたのを知ってることが必ず顔に出ちまう。それであいつらと気不味い雰囲気にはなるのは勘弁してほしい。このまま寝てやる…。左右田 和一、お前になら出来る! 心を落ち着け、睡魔に身を委ね、めくるめく眠りの世界へと旅立つのだ。そう考えると段々眠れそうな気がしてきた。後少し、後少しだ…。
「日向クン、左右田クンを寝室に運びたいんだけど…。手伝ってくれる?」
「あー、どうするか。引き摺ってったら起きるかな」
「いくら左右田クンでもさすがに起きちゃうんじゃないかな。起きなかったら逆にすごいよ」
絶妙なタイミングで会話のキャッチボール。寝るに寝れねェじゃねーかッ! 頼む、引き摺ってでも良いから布団に運んでくれ。カーペットの上じゃ微妙に寝にくいから!
「……面倒だしほっとくか」
「折角お布団敷いたんだけどね…」
日向、諦めるな! 狛枝、もっと粘れ! そんなオレの心の叫びを知らない2人はほのぼのと話を続けている。
「さっき辺古山からメールがあったぞ。九頭龍が家に着いたってさ」
「そうなんだ。九頭龍クン、お酒抜けてからはしっかりしてたからね」
「狛枝は上手くセーブしてたな」
「誕生日の時みたいに二日酔いで苦しむのはごめんだったからね。…日向クンは結構飲んでたね」
「……ああ、酔ってるよ。左右田と同じペースで飲んでたら大分…。なぁ、狛枝……」
日向の呼び掛けに、狛枝がクスクスと笑っている。何だ? 会話が突然切れたな。耳を澄ませてると、ちゅく…ちゅく…と小さな水音が背後から聞こえてきて、オレは体を強張らせた。
「あ……っ、ダメ…、だよ。ん…っ、日向クン……あんっ」
「さっき『後で』って言ってただろ? いつまで待たせるんだよ」
「だってまだ、左右田クンが……ふっ、んっんッ、あはぁ…、いや…」
ちょっ、待て待て待て待てェーーーーー!! ここでおっぱじめるのか? オメーらに常識はねーのか? お願い、止めて下さい! 高校からのダチでイタイケな童貞である左右田 和一さんが隣に寝てらっしゃるんだぞーーー!?
「あぅッ……あ、やだッ、ひぁたクン…そこ、だめぇ…っ、アンッあ…んっ」
「ちょっとだけ…。ちょっとだけだから、狛枝。…ダメか?」
ダメに決まってんだろーがッ! しかも何だよ、その『先っちょだけ』みたいな言い回し。いくら下手に出てもダメなもんはダメなんだ! 嗚呼、高校随一の常識人である日向が暴走するなんて…。頼みの綱は狛枝か。狛枝、首を横に振ってNOだ! 日向を止められるのはオメーしかいねェんだ。届け、オレのテレパシー!!
「……んッ、いい…よ。本当に、ちょっと…、だけだから、ね? はぁ…アッ、きもちぃ…」
「狛枝、ここ弱いもんな。……もう濡れてるな。直接触るぞ…」
「はぁあんッ、いやっ、そんな…いじっちゃ……待って、んぁ、出ちゃうよぉ…!」
狛枝ァアアア!! で、出るって何? 何がッ!? 冷や汗をダラダラ流しているオレの隣で、厭らしい液体ダラダラ流しちゃいます☆ ってふざけんな! ぐちゅぐちゅと濡れた音が更に大きくなって、鼓膜の奥で反響している。オメーら、オレの存在忘れてませんか!? ここに、オレが、寝てます!!
「ひなたクン、あっ、日向クンのも…、ボクのと一緒に、はぁっ、……くちゅくちゅ…しよ?」
「く……、うぁ…こまえだ、それヤバい…! 裏側の筋が、球も擦れて……きもちいっ」
「あは、良かったぁ。ボクも、すっごく、…気持ちイイよぉ…。日向クン、っ日向クン…!」
「ハァハァ…っ、狛枝、狛枝…。んっんっ…ふっ、はぁ、あ、もう、ダメ、だっ……っ!!」
日向の苦しげな呻き声と共に、部屋の中が一瞬静まり返った。2人の荒い息遣いだけが聞こえてくる。うわあああ…。しっかりばっちり聞いちまったよ。くぅ…! 寝てれば良かった! うわあああ…。うわああああ…! オレは悔しさに涙を滲ませながら、心の中で悲鳴を上げる。日向と狛枝は何か囁いていたが、良くは聞き取れない。ふと脳天がぐらりと大きく振れて、強烈な眠気に引き込まれる。……オレの記憶は、ここでふつりと途切れた。


……
………

チュンチュンと穏やかなスズメの囀りが外から響いて、朝の暖かい光が体全体を包み込む。良い感じの倦怠感が体に付き纏ってんな。あー、良く寝たー…。………。ハッ!!
「おはよう、左右田クン」
「!? ぎゃああああああ!! こ、狛枝ぁああああ!!」
目の前に狛枝のどアップがあって、オレは勢い良く叫び声を上げた。だけど白い髪をふわふわさせた彼はそれを想定してたらしく、驚きもせずにニコニコと笑っている。相変わらず不気味な奴だな。苦手ではあるが、嫌いじゃねぇんだ。断じて。
「気分はどう? すっきりしてるかな? はい、水」
「あ、……サンキュー」
水の入ったコップを手渡されて、グビッと一口飲んだ。狛枝は飲み会の時とは違う、大きめのTシャツとゆったりとしたパンツスタイルだった。恐らく寝巻だろう。いつもの胡散臭い笑顔のままベッドの縁に腰掛けている。
…あれ、ベッドがあるってことはここは寝室か? リビングで寝てたハズなのに、オレはいつの間にか寝室?に移動してて、ちゃんと布団で寝ていた。日向が運んでくれたんか? 良く見ると狛枝の背後に見覚えのあるアンテナ頭があった。日向はまだ寝てるのか。すやすやとベッドで寝息を立てている彼はキチンとパジャマを着ていた。何となくホッとしてしまうオレ。
一息に水を飲み干して、空になったコップを狛枝に手渡すと、奴は眉をハの字にしてみせた。そしておずおずと「あのね…」と口火を切る。
「左右田クン、昨日はごめんね?」
「……え。………。オメー、まさかっ!!」
狛枝の謝罪の意味を考えて、1つの答えに行きつく。狛枝がオレに謝るようなことって言ったら、夜のアレしかねェじゃねーか! こいつはやたらと洞察力が鋭い。狛枝は昨日オレが起きてたことを知ってたんだ。金魚のようにパクパクと口を動かしているオレに、狛枝は「ふふっ」と悪戯っぽく笑った。
「寝たフリだなんて、キミも人が悪いなぁ。でも大丈夫、日向クンは気付いてなかったから」
「そーいう問題じゃねーよ! オレがどんだけ苦労したと思ってんだ!」
「いつ起きるかなって待ってたんだけど、ずっとあのままだったね」
「待つなよ、起こせよ! ってか全体的にもっと気遣えよ!」
「本当にごめん。日向クンがすごい乗り気だったから、結局最後までシちゃったんだ。すごかったなぁ…」
夢見心地にとろんとした顔の狛枝はスッと髪を耳に掛けた。白い首筋がチラホラ赤くなってる。童貞のオレでも分かるぞ。キスマーク、だ。…ん? 今こいつとんでもないこと言わなかったか? オレは周囲を急いで見渡した。ベッドヘッドにあるのはコンドームの箱(Lサイズ)。ゴミ箱に投げ捨ててあるティッシュに包まれた何か。オレが覚えてるのはこいつらの触り合いら辺まで。
「……さ、最後まで?」
「うん! 最後まで!」
満面の笑みで答える狛枝に、オレは思いっ切り絶叫した。その声で日向が漸く目を覚ましたのは言うまでもない。

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28.彷徨の話 : 5/10
春の爽やかな日差しに、俺は手で日陰を作りながら空を見上げる。イベントがある時って大体晴れるんだよな。何故だか分からないけど。不思議だ。今日は球技大会で、俺は校庭で種目の1つであるサッカーを見ている。『見ている』というより『審判をしている』って言い方の方が正しいかな。ボールを追って右に左に掛け摺り回る生徒達を見守りながら、横目でピッチ脇に置いてあるデジタル時計の数字を確認した。
「そろそろ終わりだな…」
首から提げているホイッスルを唇に当て、いつでも鳴らせるようにする。パッとデジタル時計の赤い数字が0で揃ったのを見て、俺は吹笛した。ピーーーッと高く響き渡るホイッスルに、試合に出ていた生徒達は一斉にこちらを向く。
「試合終了だ。みんな、整列!」
ダラダラと疲れを体に纏わせた両チームが対面に並び、号令にそって頭を下げる。さて、これで一仕事終えた。後はのんびり競技を見学しながら、狛枝を捜すとするか。俺は校舎近くの主催者テントに立ち寄り、タオルとペットボトルの水を手に取った。
狛枝はどこにいるんだろう? 俺の思考回路は本能に忠実で、目の前の仕事をやっつけて心が落ち着くと、すぐに彼のことを考えてしまう。午前中に体育館でバドミントンの試合をボーっと眺めていた―――正確には指揮していた―――狛枝だったが、昼休憩時には彼のファンらしき女子数人に引っ張られていってしまった。それ以来見ていない。そのまま午後になり、仕事の合間にちょこちょこ捜しているのだが、どうにも見つからないのだ。
あの部活発表会以来、狛枝の人気は急上昇した。誰がどこからどう見ても超がつくほどの美形なので、「狛枝先生カッコいい!」と元々隠れファンはいたらしい。ただ狛枝は親密ではない相手に対して、自分を曝け出したりはしない。更に取っ付きにくい雰囲気も相まって、生徒達が集まってくるような人柄ではなかった。それが例の天使の微笑みを見せてからそれがガラリと一変した。ファンクラブが発足し、隠し撮り写真が横行するなどという、俺にとっては不届き千万な状況になってしまった。狛枝は「キミが気にすることじゃないよ」と相変わらずへらへらしてたけど。
「ファンクラブ、か……」
いや、別にそんな子供が作ったお遊びクラブに入りたい訳じゃないけど! 例えばの話。そう…もし、だ。もし入るとしたら会員No.000は俺しかいないだろ。………。とりあえず狛枝を捜そう。校庭ではサッカーとテニスがまだ続いているが、どこにも彼は見当たらない。だとすればバスケとバレーがやってる第一体育館、バドミントンの第二体育館、卓球の第三体育館。それらのどこかしらに狛枝はいるはずだ。校舎の東側からは体育館に続く渡り廊下が出ている。片っぱしから覗いてみようと俺は渡り廊下へと足を向けた。


「いない……」
体育館を順に覗いていったが、狛枝の姿はどこにもいない。俺が彼の姿を見逃すはずはないから、気付かなかったということはありえない。体育館倉庫で男子生徒に襲われたりしてないかという心配も僅かながらあった。だから倉庫もさり気なく確認したけど、誰もいなかったんだよな。
「どこ行ったんだよ、あいつ…」
腕を組んでうんうん唸っている俺を生徒達が擦れ違いざまにジロジロ見ていたが、気にする余裕はない。競技の先導をしたり、タイムスケジュールや審判をしたり、備品の管理をしたりして、俺は疲労困憊していた。早く狛枝で癒されたい。ここまで狛枝が見つからないのはどう考えても不自然だ。これは意図的に俺から隠れていると見て間違いないだろう。
後、捜すべき場所は…と俺は思考を巡らせる。どこかの教室でサボってるのか? 体力のないあいつなら想像に難くない。そう思った俺が校舎へ行こうと渡り廊下を引き返しかけたその時だった。
「あ、日向先生!」
前方から明るく人懐っこい声が聞こえて、俺は顔を上げる。その声は、狛枝か…!?
「苗木…。それに、石丸」
体育着を着た苗木と石丸がこちらに向かって歩いていた。苗木と狛枝はとても声が似ている。たまに気を抜いている時に苗木の声が聴こえて、ドキッとしたことは不覚にも何度かあった。狛枝の方が少しだけ低くて抑え目で色っぽいから、意識して聞けば全然違うんだけど。ニコニコと笑っている苗木の後ろには、ゾロゾロと数人の男子生徒達が続いている。確か、葉隠に桑田に大和田…かな。
「苗木、試合は……って、どうしたんだ? 頭、怪我したのか!?」
笑顔で気付かなかったけど、苗木は頭に氷嚢を当てていた。慌てて駆け寄って、怪我をしたらしい左後頭部を見ようとするが、苗木は「えへへ、大丈夫」と照れ臭そうにはにかむだけだった。
「バドミントンの試合で、足がつっかえたみたいで、転んじゃって…。あはは、ボクってドジだから」
「大丈夫か? それ、腫れてるんじゃ…」
氷嚢があるから触るに触れず、俺は膝を折って苗木の顔を窺い見た。
「ちょっとズキズキするけど平気。さっき石丸クンと狛枝先生に保健室に連れてってもらったんです」
「……っ!」
「はっはっはっ、スポーツ精神に則って張り切った結果だ! だが罪木女史が診て下さったからもう安心だろう! 感謝したまえよ、苗木くん!!」
石丸の声が頭に響くのか、苗木は苦笑いをしている。だが気の優しい彼はそれくらいのことでは怒らない。怪我の方は俺が心配するほどじゃないようだ。
「ところで、後ろの奴らは?」
「そうだ、日向先生。彼らは不謹慎にも保健室で惰眠を貪っていたのだ! だから風紀委員である僕が責任を持って、回収してきた。こら、君達! 反省しているかね?」
石丸がキリリと眉を吊り上げ、後ろを振り返ると、サボり3人組はダルそうに揃って返事をした。
「石丸っちは厳しすぎだべ…」
ドレッドヘアで盛り上がった髪が特徴で無精髭を生やしている葉隠。狛枝の担任しているクラスだったよな。体育着に愛用の腹巻を巻き、どこかおじさん臭い奴だ。良く分からない占いに凝ってたり、文系のはずなのに何故か理系クラスに所属していたりと謎が多い。
「ふぁーっ、オレまだねみーんだけどー」
葉隠の隣で欠伸を噛み殺すのは桑田だ。髪を赤っぽいオレンジ色に染めていて一見するとチャラいが、実は驚くほど純情らしい。同じクラスの舞園にゾッコンで、積極的にアプローチしているというのは風の噂に聞いた。部活をサボったりもするが、野球に対する姿勢は中々真面目だ。
「……あの女も迷惑だっただろうし、反省はしてるけどよ」
大和田はくぐもった声を出しながら、頭を掻いた。明るい茶髪をリーゼントにしたヤンキーだが、見た目ほど問題児じゃない。1年の頃はキレやすかったのが、石丸と交友関係を築いて大分軟化した。他の生徒達とも打ち解けているようで、俺のクラスの江ノ島よりは全然素直だと思う。
「もうすぐ終わるから、それまでは頑張って外にいてくれよ?」
「はい! みんな出場するの終わったから、これからバレーの試合を見に行くんだよね?」
「だって舞園ちゃんが出るんだぜ!? これは見にいかねーとヤベーだろ…!」
苗木の振りに桑田が興奮気味に返す。本当に純情なんだな、と俺は微笑ましくその様子を見ていた。
「そうか。あの、ところで……狛枝、先生はどこにいるんだ? さっきまで一緒だったんだろ? 備品のことで聞きたいことがあってさ」
この切り返しは不自然じゃないだろうか? 先ほど苗木が発言した『狛枝先生』という単語がずっと頭に残っていたのだ。
「そーいやー、狛枝っちどこに消えたんだべ?」
「兄弟と一緒にオレらを追い出して…、あー? あいつ、いつの間にかいなくなってたな」
「罪木先生と話してたし、まだ保健室にいるんじゃないかな?」
「……そうか。ありがとう」
なるほどな。保健室にいる可能性は高い。その場にいた邪魔者を追い出した後に、自分はちゃっかりそこにいついたということか。実にあいつらしい。ちょっと叱りに行ってやろう。自然と頬が緩んでしまうのを生徒の手前我慢しながら、俺は狛枝に会いに行くために保健室を目指した。

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29.かくれんぼの話 : 5/10
カチャリとドアノブが回された音が聞こえ、ボクは浅い眠りから鬱蒼と目覚めた。ボクの周囲を取り囲んでいるのは真っ白く薄いカーテン。その向こう側からは眩しい太陽光が透け、生徒達の弾むような歓声も耳に届いた。初夏の麗らかな日中。さすがに猛暑とまではいかないが、外にいると少しばかり日差しが痛いと感じる程度には暑い。だけど今ボクのいる保健室は程良く空調が効いていて、ベッドで眠るにはこれ以上ない心地好さだった。
「はい、あれ…? どうしましたぁ?」
罪木さんの鈴を転がすような声とギィと事務用のイスが軋む音が同時に聞こえた。もう時間的に球技大会も大詰めを迎えていて、どの競技も決勝戦まで来ているだろう。怪我をしたり、熱を出したりといった生徒は早々に掃けてしまい、サボり目的の輩も先ほど追い出した。ドアから見て、右手側にあるベッドスペース。2つあるベッドの内、手前にはボクが寝ているから、カーテンが引かれている。白い布に囲まれたこの静かな空間は、ボクだけの天国である。
「狛枝先生、いるか?」
カーテン越しの大好きな彼の声にボクはハッと完全に覚醒する。あんなに重かった瞼が軽く持ち上がった。日向クンだ…。日向クンが、ボクを捜しに来てくれた! 嬉しさと興奮で心がいっぱいになりながらも、ボクは屈んだまま彼に気付かれないように、そろそろとベッドから降りた。立ち上がってカーテンに影が写ったら、ボクがいるってバレちゃうからね!
「あっ、あの…いえ、さっきまでいらっしゃったんですけど…」
気弱そうな罪木さんの声が日向クンに答えた。そうそう、そういうことになっている。匿ってくれってお願いしたら、それくらいならと彼女は快く返事をしてくれた。ああ、でも罪木さんは嘘が下手なんだっけ。ベッドから抜け出して彼女からは丸見えの位置にいるボクを、チラリと心配そうに見たから。


ボクは1人遊びをしていた。別に厭らしい意味じゃない。そう、これはかくれんぼだ。
ボクは昔からかくれんぼが得意だった。神社の軒下、公園の茂み、建物の隙間…。子供ならではの体の小ささを生かして、狭い所に体を忍び込ませる。鬼になった子が隠れているボクのすぐ近くで、キョロキョロしているのを見るのが愉快だった。陽が落ちて、カラスが鳴いて、月が昇って…。きっと誰かが見つけてくれる。そう信じてずっと待ってたけど、結局一緒に遊んでいた子は捜しに来てはくれなかった。誰もがボクを見つけられずに諦めて帰るんだ。そのお陰で何回か警察沙汰になって、やがてボクはみんなに疎まれ、仲間に入れてもらえなくなった。
「………」
昼休みに女子生徒に引っ張られていくボクを日向クンが名残惜しそうに見てて、それで何となく火が付いてしまった。着火したのは、ボクじゃなくて日向クンだ。寂しさと嫉妬の籠った琥珀の瞳でボクをじりじりと焦がした。あの哀愁漂う表情が、ボクを見つけられない鬼の子と重なったんだ。そうだ、かくれんぼをしよう。突然思い立った子供染みたバカな遊びだった。
午後になり、ボクは日向クンから逃げることだけに集中した。割り振られた球技大会の仕事が終わる度に、キョロキョロとボクを捜し回る彼の姿はとても滑稽だった。それはもう背筋がゾクゾクして、快感を覚えるほどに。校庭をうろつく彼を3階の教室の窓から悠々と眺め、体育館の客席から全体を見渡す彼の視界から逃げるように物陰に身を潜めた。だけどその追いかけっこもいよいよ終わりが近付いている。ボクは息を殺して、ベッドとベッドの間の隙間にしゃがみ込んだ。
「何だ、いないのか…。あいつどこにいるんだ?」
どこかしょんぼりしたような日向クンの声色に、またボクの体の奥で何かがゾゾゾッと這い回る。ああ、堪らない! キミは本当に可愛いね。大好きだよ。そうやってこの後も健気にボクのことを捜してくれるの? ふふっ、ボクもキミに会いたいな。だけどもうちょっと焦らさせて? そうすればきっとまた会えた時に嬉しさも一塩だから。ボクに再会したキミは、どんな顔をするんだろう? キミに会えたら、ボクはどんな気持ちになるんだろう? 想像するだけで楽しい。
罪木さんは思案顔をしていたが、日向クンにボクの所在をバラすつもりはないらしい。両手を胸の前で組んでしおらしく俯いていた。
「うゆぅ…お力になれなくて、すいませぇん」
「いや、罪木の所為じゃないよ。他の所捜してくる。じゃあな」
カチャリ…、バタン…。ドアが閉まった音だ。どうやらボクがここにいないと判断したのか、保健室から出て行ってしまったらしい。なーんだ。ベッドを覗かれるかもと懸念したのに、張り合いがないね。隠れずとも寝たままでも良かったかもしれない。大きく息を吐きながらボクは立ち上がった。さて危機は去ったし、もう一眠りするかと今まで寝ていたベッドのカーテンをシャッと引く。
「みーつけた」
「……え?」
「狛枝…、やっぱりここにいたか」
「あれ、日向…クン?」
ベッドの向こう側には腕を組んだ日向クンが立っていた。拗ねたような顔でボクをじっと見ている。これは…、結構怒ってるな。ボクは困ったように笑ってみせるが、彼の険しい表情は変わらない。うーん、どうしよう。というか日向クンは保健室を出て行ったはずなのに何で? ボクの思考を読んだのか、日向クンは呆れたように溜息を1つ吐いた。
「出る振りしたんだよ。そう簡単にお前を捕まえられるとは思ってないからな」
「あは、キミにしては上出来だよ。…こう来るとは考えてなかったね」
あれ? あれあれあれあれ? まさか日向クンに寝首を掻かれるとは…。ボクは少し甘く見ていたかもしれない。彼を…というか、彼のボクに対する執念かな。待ちに待っていた日向クンを目の前にして、ボクの全身が歓喜に包まれる。彼の周りだけキラキラ輝いていて、夢のように美しい。
「狛枝…」
フッと目だけで笑った日向クンが、罪木さんに聞こえないような小さな声でボクの名前を呼んだ。迷子になった男の子がやっとのことで母親に会えた時のような安心した笑顔。これは、想像していたよりもすごいね。キュンと心臓が甘い音を立てて、その締めつけられる様にボクは思わず吐息を漏らした。ああ、日向クン、日向クン、日向クン…! 今まで逃げててごめんね。ボクはキミのことが好きだから、つい虐めたくなっちゃうんだ。……いや、違うかな。追いかけて捜してもらうことで愛を測ってる。どこまで許されるか試してる。ずるくて臆病なボクでも、キミは好きでいてくれる?
「隠れても無駄だぞ。絶対見つけるから」
日向クンは強い口調で言い切った。そうだね。キミはいつだってボクを見つけてくれるんだ。またかくれんぼしようか。日向クンはボクを諦めずに捜してくれる。キミのそういう所が好きだ。ボクが鬼になったら? もちろん、必ずキミを見つけるよ。こんなに愛しいキミを諦められる訳ないからね。
「…うん。見つけてくれて、ありがとう」
「おう…」
ボクが微笑んでお礼を言うと、日向クンは少しだけ顔を赤くした。

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30.順位の話 : 5/10
太陽が照りつける校庭を横目に、俺は革張りの長イスに腰掛けていた。保健室は怪我をした生徒の付き添いで良く訪れていたが、ゆったりと腰を落ち着けたことはあまりない。大きめの窓がいくつも並んでいる保健室。校庭が満遍なく見渡せる絶好のポジションで、ここにずっといなければならない罪木が退屈することはないのだろうと少し安心した。
保健室の主である罪木は冷蔵庫からガラスポットを取り出し、3つ並べたコップに慎重に麦茶を注いでいる。どうやら無事に注げたらしく、「はい、どうぞ」と笑顔で俺と狛枝にコップを手渡してくれた。「ありがとう」と受け取り、それをグッと一息に飲み干す。冷えた液体が喉を落ちていく感触が爽快だ。
「日向クン、良い飲みっぷりだね! 惚れ惚れするよ」
「なーにが『惚れ惚れするよ』だ。こっちはお前を捜し回って疲れてるんだよ。それを人の気も知らず、寝てやがるとは…」
「ボクは自慢じゃないけど、本当に体力がないんだ。…それはキミが1番良く知ってるはずだけど?」
「……うっ」
上目遣いに意味深な視線を送られ、俺は言葉に詰まる。言外に夜のことを言っているのだろう。先に音を上げるのはいつも狛枝の方だから。俺達の関係を知らない罪木は狛枝の言葉をそのまま受けたのか、「お2人は仲良しなんですねぇ」と目を細めていた。
「あー……。悪かったな、罪木。狛枝が巻き込んだみたいで」
「えっ? …そのぅ……私、迷惑だなんて思ってませんよぉ。狛枝さんはここに集まってた生徒さんに、注意して下さいましたし…」
狛枝の代わりに謝ると、おどおどと罪木が言葉を返す。槍玉に挙がっている当の本人は飄々とした顔をしていて、何のダメージも通っていないようだ。俺から1人分間を空けて座った彼は麦茶の入ったコップを両手で持ち、それに唇をつけて少しずつ飲んでいる。くっ…、何だその女子のような飲み方は…! 可愛過ぎる!!
「日向クン、そんなに目くじら立てなくても良いんじゃないかな? ほら、球技大会も佳境だよ」
「そうですねぇ…。今日1日長かったですぅ」
狛枝ののんびりとした声に、罪木もおっとりと同意を示す。俺は言葉も出ない。何だろう、このゆるふわな空気は。2人だけが違う時間の流れを生きているのか? まぁ、でもこういうのも悪くないか。罪木が空になった俺のコップに気付き、おかわりをトクトクと注いでくれる。ふぅと息を吐いて、一口それを飲んだ。
さっきまで狛枝が寝ていたベッドはカーテンが引かれている。隣には薬や医療用の消耗品が入っている扉付きの棚。ドアから見て左側は角のスペースが仕切られており、簡易型のドアがついていた。目盛りがついた身長計測板、大きめの体重計がその脇に置いてあり、壁にはカレンダー、体の仕組みを表したポスター、視力検査表や保健室だよりがマグネットで貼られている。
窓際には青々とした観葉植物の鉢植えが2つ並んでいる。それからサボテンの小さな鉢も3つ。事務机の上にも真っ白なカラーが水色の花瓶に活けてあった。罪木は植物が好きなんだろうか。机の上、綺麗にしてるんだな。資料が少し積み重なっている以外はあまり物がない。ただ傍に設置されているサイドテーブルには、ぬいぐるみやお菓子の缶がたくさん積んであった。
「罪木ってこういうの好きなんだ…」
コップを持ったまま立ち上がった俺は、サイドテーブルに置いてあるぬいぐるみを指差した。全長20cmほどのサイズの白と黒のクマだ。中央から真っ二つに白と黒が分かれていて、向かって左側の白は黒いツヤツヤの目がついて可愛い表情なのに、右側の黒は稲妻のような赤い目で口元は肉食獣のようにギザギザの歯が生え、何だか禍々しい。こういうアンバランスなのが流行りなのか? 何ともシュールだと俺は思った。
「あ、それはですねぇ…。江ノ島さんが誕生日プレゼントにって、私にくれたんですよぉ!」
プレゼントが相当嬉しかったのか、罪木は頬を染めて嬉しそうに笑った。江ノ島からか。そういえば似たようなクマの髪飾りを頭につけてたな。あれ、そんなことより今…。
「罪木、誕生日なのか?」
「はいぃ…。一応明後日なんですけど日曜なので、生徒さんからは今日頂きましたぁ」
「へぇ、そうなんだ! 罪木さん、誕生日おめでとう」
「ごめんな。俺知らなかったよ。誕生日おめでとう、罪木」
「えへへぇ、ありがとうございますぅ…!」
罪木は幸せそうだった。ぬいぐるみの周りにあるお菓子も生徒からのプレゼントなんだろうか。本当にみんなから慕われてるんだな。白黒のクマは正直俺には分からない感性だったが。
「あれ? このカード…」
クマの腕には小さな白いカードが挟まっている。『江ノ島 盾子』と書かれたそれに俺は見覚えがあった。確か先月江ノ島に渡された名刺だ。特に用途もなさそうだし、机の中に仕舞ったままのはずだ。カードをじっと見ている俺に気付いたのか、罪木は喜々として話しかけてくる。
「それ、江ノ島さんの名刺なんですよぉ。『先生には特別だからね』って頂いちゃいました」
「罪木も貰ったのか。俺も前に江ノ島に渡されたぞ」
俺の返事が意外だったのか、罪木は「え…」と小さく声を発した。唇を戦慄かせ、真っ青な顔で俺をじっと見つめている。何だかその視線にゾッとし、背筋がぶわりと逆立った。何だろう…。こんなこと言いたくないんだけど、病的なものを感じ取ってしまった。
「……罪木さん?」
怪訝そうに狛枝が問いかけると、罪木はパッと顔を上げて、ぎこちなく微笑んでみせた。
「あ、ごめんなさいぃ…。日向さんも受け取ってたんですね、それ。……ちょっとビックリしてしまって」
「メールアドレスも乗ってるし、SNSのアカウントもあるね。プライベートなのかな?」
「あんまり配ってないみたいですよ。生徒でも持ってる子少ないみたいで…」
狛枝も興味ありげに名刺を覗き込んできた。罪木に言わせると結構なレアアイテムらしい。こんなの誰が欲しがるんだろうな。首を傾げた俺の内情を察したのか、狛枝はくくっと笑った。
「聞いた所によると江ノ島 盾子は人の心を掴むというか、話している人の1番柔らかい所を的確に突いてくるらしいよ。それに魅力を感じる人は多いんじゃないかな」
「? …俺には良く分からないぞ」
そうだろうか? 別に普通の女子高生だったと思う。ちょっと凶暴で意地悪だけど、話してみればしっかり答えを返してくれるし、そこまで歪んでない。
「彼女は…すごいです…。私のことを唯一分かってくれる人。全てを曝け出しても、それを罰して、許してくれるんですぅ…」
「罪木…?」
「っあ、いえ。何でもないですよ…」
若干おかしなことを聞いたような気がしたけど、これは聞かなかったフリをするのが正解なのだろう。チラリと横目に狛枝を見ると、彼は小さく俺に頷いた。狛枝も聞いてたんだな。罪木は俺達のやりとりに気付くことなく、パッと明るい表情で話題を転換させる。
「そういえば日向さんは見ました? QRコードのリンク先」
「……QRコード、って…何だっけ?」
「日向クン、まさかQRコード知らないの?」
目を丸くした狛枝に俺は「くっ」と言葉を詰まらせた。知らない訳じゃない。聞いたことはあるけど、具体的に何なのかすぐに頭に思い浮かばないだけだ。苦虫を噛み潰したような表情の俺に、狛枝は生温かい視線を送ってくる。何も言われてないのに、バカにしてるのがすごく伝わってくるぞ!
「QRコードはこれですよぉ。このマークを特定のアプリで読み取ると、アドレスに飛べるんです」
「あー…、それか。見たことあるな。アドレス、だったのか…」
罪木の指差した先の幾何学模様の四角いマークに軽く頷いた。それを読み取ってどうこうってのは今までやったことなかった。プリインストールアプリしか使わないから、それ以外のことは良く分からない。必要になった時には狛枝に聞いてるからな。別に苦労はしないんだ。
「こんな風に読み取るんです」
机の上に置いてあったケータイを手に取り、罪木が名刺に画面を翳す。ピピッと電子音を立てて、画面が文字列に切り替わった。一瞬の読み込み画面の後、どこかのサイトが表示される。罪木が無言でケータイを手渡してくれたので、俺はそのまま受け取った。横からぐいっと狛枝が押してきて、2人で顔をくっつけて、ディスプレイに食い入るように視線を落とす。
「タイトルはないけど、この高校に関するサイト…みたいだね」
「もしかして…学校裏サイトってやつか!?」
「…わ、私も最初はそうかな?って心配したんですけど…。違うみたいですぅ。実名登録なんですよ」
実名登録? 上から読み進めていくと、チラホラと見知った生徒の名前が散らばっている。会話をしているようだけど、途中から割り込みが入ったり、ふつりと内容が途切れたりで話を追っていくのが難しい。
「これ、霧切校長に報告した方が良いんじゃないかな?」
「そう思ったので言ってみたんですけど、校長先生は既にご存じのようでしたぁ…」
なら安心だろう。指で下へ下へと動かすと、何やらコンテンツが密集しているスペースに辿り着いた。その中で興味を引かれたのは『Ranking』という項目だった。何の気なしにそれをタップすると、ずらりとその下に折り畳まれていたリンクが並ぶ。
「日向クン、教師のランキングがあるよ!」
「へぇ…。本当だ。『付き合いたい教師ランキング』か…。………」
適当に飛んだランキング結果に、俺は思わず眉間に皺が寄った。狛枝が、2位…! じろりと隣を見ると、彼は「あはっ」と軽快に笑った。そうだよな、そりゃ嬉しいよな。俺は悔しいぞ。こんなにたくさんの生徒に好意を寄せられてるなんて。俺の狛枝なのに…。不貞腐れた俺の様子に、狛枝は慌てたように画面を指差す。
「ね、ねぇ、こっちは? 『友達になりたい教師ランキング』! 絶対日向クン、1位だよっ」
「………」
狛枝の言う通り、そのランキングは俺が1位になっていた。だけどそんなもの嬉しくも何ともない。狛枝はそれで俺の機嫌が直ると思っていたようだが、変わらない俺の表情に小首を傾げている。
「ええっと……あっ! これは? 日向クン。『押し倒したい教師ランキング』」
これはどっちかっていうと女の先生が載るんじゃないのか…? っていうかお前は俺がこのランキングに載ると本気で思ってるのかよ。そう心の中で毒づいたものの、狛枝の指示されるままにそのリンクを開く。
「あれ? 日向クン、載ってないねぇ」
載ってて堪るか。案の定、1位は罪木だった。可愛らしくスタイルも良く、優しく穏やかな保健の先生。さぞ男子は罪木にムラムラしているだろう。このランキングに載らない方がおかしい。罪木 蜜柑は多数の男子生徒から票をもらっており、ぶっちぎりの1位だった。そこまでは良かった。ふと俺はその下の名前を見てしまったのだ。
「……何で、お前が載ってるんだよ」
「え、えっ…?」
『押し倒したい教師ランキング』堂々の第2位はまごう事なき、俺の恋人―――狛枝 凪斗―――の名前が刻まれていた。


「ひ、日向ク…、日向先生。待ってって…」
「………」
何で狛枝が2位!? しかも、押し倒したい教師だと! …許さん。一体誰が投票してるんだ。全くもって腹立たしい!
罪木にケータイを押し付けるように返して、俺は保健室を飛び出した。どこにもぶつけられない苛立ちが体の中をガンガンと大暴れしている。ああ、この憤りを誰にぶちまければ良いんだっ!
「日向っ、先生!」
「…こまえだ、せんせ……」
一際強く呼ばれて振り向けば、ハァハァと息を切らした狛枝が立っていた。困ったように眉をハの字にして。彼は一息つけたのか、額に浮かんだ汗を手で拭った。ぼうっとした双眸、上気した頬、半開きの唇。汗で湿ったTシャツは布地が薄いのか、彼の美しい柔肌がほんの少し透けて見える。今更ながら、すごく無防備な格好だった。俺は唇を噛む。こんな姿でうろついてたら、どこぞの馬の骨にランキング通りに押し倒されるのが関の山だ。俺のイライラが嵩を増していく。それに気付かない狛枝は、やれやれといったように腕を組んだ。
「もう、何怒ってるの? ちょっとは頭冷やしなよ。たかが子供のお遊びで、」
「……怒りたくもなるだろ。お前は…分かってない」
そう、全然…何も分かってない。あれだけ票を集めておいて、真に受けるなだなんて…。狛枝には自覚がない。危機感が足りない。同性にどう思われているか、俺が教えてやらないとダメだ。それにこの狂おしいほどの熱情を吐き出してしまいたい。
「っひな、」
「思い知らせてやるからな…」
今夜、覚悟しとけ。地を這うように低い俺の声色に、狛枝はヒクリと顔を引き攣らせた。

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31.暗闇の話 : 5/10
あの時の日向クンは子供のようだった。物事が自分の思い通りに行かなくて拗ねている子供。だってそうでしょ? ボク達の上辺だけしか知らない連中が、勝手にイメージしたものを自分の主観だけで証拠もなく語る。そんなもの虚像に過ぎない。気にする必要ないんだ。
だけど日向クンは違った。生徒達の戯れに腹を立てるだなんてと、呆れ返るボクを彼はキッと睨みつけた。ボクは忘れていたんだ。明るく爽やかな日向クンが、ボクに関してだけは女よりも嫉妬深く、寒気がするほど残酷だって。
「思い知らせてやるからな…」
そんな呟きと共に向けられたのは、2月の太陽のように冷たい視線だった。


球技大会が終わり、いつものように半同棲状態の日向クンのアパートに着くや否や、彼は1人でさっさとシャワーを浴びに行ってしまった。普段なら家主である自分よりもボクを優先してくれる日向クンなのに珍しい。汗塗れで臭いが気になったのかな? その時ボクは漠然とそう思っただけで、深くは考えていなかった。
やがて日向クンがお風呂場から出てきて、入れ替わりにボクがシャワーを浴びる。日頃運動をする習慣がない所為か、全身が筋肉痛だった。後で日向クンにマッサージしてもらおうかな。弐大クン直伝のアレはボクもお気に入りだ。気持ちの良い脱力感と爽快感が堪らない。今のボクは目を閉じればすぐに眠りに落ちてしまいそうなほど眠かった。きっと日向クンも1日中動き回って疲れているだろう。2人で抱き合いながら、優しさに包まれて眠るのだ。彼と過ごす穏やかな小夜に幸せを噛みしめながら、廊下へのドアを開くと、そこには思いもよらない光景が広がっていた。
「……え。何で…真っ暗、なの?」
さっきまで点いていたはずの電気が消えていて、アパートの中は薄暗かった。後ろ手に洗面所の電気を消そうとしていた右手がピタリと止まる。何が起きているんだ? 物音1つしない空間にボクの息遣いだけが聞こえている。そうだ、日向クンは…? リビングにいたはずの彼を探すために、ボクは恐る恐る暗闇に足を踏み出した。
「……日向クン。いるんだよね…?」
そろりそろりと歩きながら、ボクは深淵に向かって呼び掛ける。だけど返事はない。ドア脇の電灯スイッチをパチリと押してみたけど、反応しない。相変わらず室内は暗いままだったけど、幸いにも雨戸は開いていたので、カーテン越しに月明かりが薄らと見えていた。リビングにある物の輪郭が分かって、ボクは小さく息を吐く。キョロキョロと辺りを見回してみたけど、日向クンはどこにもいない。
「………」
ボクの胸の内側が前触れもなくざわめく。その淀んだ音は止むことなくボクを背後から追い立てた。日向クン、日向クン、日向クン…。どこにいるの? ボクを1人にしないでよ。……怖い。嫌だ、嫌だ…。置いていかないで…。ゾクゾクと全身の肌が粟立ち、ボクはそれを抑えようと両手で体を掻き抱く。ゴクリと唾を飲み込んだ。体はシャワーで温まっていたはずなのに、額には冷や汗が浮かび始める。
「ひなた…クン…」
名前を呼ぶ声が、震えていた。瞬きをする目に涙が浮かんできているのが分かった。怖いよ、助けて…日向クン。左手で壁に手を突きながら歩いていくと、壁紙とは違う木の感触が指先に触れた。多分、寝室のドアだ。
「先に寝てるだけか…」
そう、だよね。肩の力がゆっくりと抜けていく。ボクの思い過ごしだったんだね。きっとこのドアを開いた先にはベッドに寝っ転がった日向クンがいる。寝惚けた顔つきで微笑んで、ボクを手招きして布団の中に誘うんだ。その逞しい腰に腕に巻きつければ、すぐに心地好い眠りへと落ちるだろう。ホッと胸を撫で下ろして、ボクは手探りでドアノブを回した。
「日向、クン……?」
ボクは呟きの後、唇を噛み締める。雨戸は閉まっており、そこに光はない。目を凝らすと僅かに暗さの違う黒が組み合わさっていて、物の輪郭がやっと分かる程度だ。ここも電気のスイッチが点かないのか。何だか作為的なものを感じ取って、ボクは寒気がしてきた。
寝室に人の気配は全くなかった。愛しい彼の影がどこにも見当たらない。どこに行っちゃったの? 日向クン…。ボクに黙ってどこかへ出掛けちゃったのかな。心細さに涙を堪えて、ボクは誰もいないベッドへと近付く。だけど眠る気にはなれなくて、ボクはその場で立ち竦んでしまった。その時だ。真っ暗な無音の空間で、背後の空気がゆらりと動いたのが、生乾きの毛先を通して伝わった。
「………」
「…ん? っ!? なっ……」
背中に、衝撃が走る。思いもよらない力が加わり、ボクは前につんのめった。…何!? 後ろから誰かに押された? 普通に考えたら、日向クンだ。ここは彼のアパートなんだから。だけど相手の顔をハッキリと確認出来ない。え? え? え!? ボクは大した抵抗も出来ずに、目の前のベッドにボスンとダイブする。咄嗟のことに頭がついていけない。ただ得体の知れない強襲に体は拒否反応を示してか、足が自然とバタついて、何もない空を蹴る。
「ちょ…っ、何…!? はな、離せッ!」
起き上がろうにも体に力が入らない。相手が思いっ切り体重を掛けてきた所為で、体の自由は完全に奪われてしまった。
「ひ、日向クン…? ねぇ、ひなたクン……なんでしょ?」
「………」
シーツに押し付けられた顔を横にずらして、ボクは人影に話しかけた。しかし相手は黙ったままだ。静かにボクの背中に手を這わせ、厭らしい動きで撫で回してくる。そのゾクゾクする感触にボクの体はぐったりと脱力し、ほのかに熱を発し始めた。
「あ…んぅ……ッ! はぁ、はぁ……アっ、やぁ…そこ、」
背中から手が下へと下がっていき、おしりをくにくにと揉まれた。入り口近くに指が触れる度に、ボクはビクビクと体を震わせる。相手が日向クンだと分かってしまえば、何も怖くなかった。だって彼はボクの恋人なのだ。この世で1番愛しているボクの半身。日向クンになら何をされても構わない。だからいきなり襲われたとしても、ボクは素直に受け入れるんだ。
「ふふっ…、ひなたクン…。んっ、……前も、触ってよ」
「………」
「? どうして、返事してくれないの…? 日向クン?」
「………」
甘えるように呼び掛けても相手は何も答えない。ボクは段々不安になってきた。体に触れてくる手のゴツゴツとした感触と大きさ。それに微かに香る彼の肌の匂い。そこからボクは相手を日向クンだと結論付けた。だけど良く考えてみれば部屋に落ちる常闇のお陰で、本当に相手が彼だとは視認出来ていないのだ。もしかしたら今ボクを組み敷いている相手は、日向クンじゃないのかもしれない。そんな考えが頭を過ぎり、ボクは嫌悪感から身の毛がよだった。
「おね、お願い…っ、も、悪戯は、止めてよ…。日向クン、返事、して…?」
「………」
「ねぇ、日向クン! ボクやだよ、こんな…んァあッ、んっ、やだぁ…」
後ろ側から股間を揉まれ、ビクンビクンと気持ち良さに体は波打つものの、心を覆っていく灰色の恐怖に頭がどうにかなってしまいそうだ。だけどそんな気持ちとは裏腹に、ぎゅっぎゅと握られた男の象徴は完全に熱く勃ち上がり、更にはぬるぬるとした体液を滴らせていた。自分で呆れ返ってしまうほど、ボクは快楽に弱い。
「………」
「? え…、あ……、わっ……ん!」
体を引っ繰り返されて、仰向けになる。漸く相手と向き合う体勢になったけど、やっぱり顔は見えない。目で物を捉えるには、物に当たった光の反射が眼球に入らなければ無理だ。光無きこの場は不可視。目の前にいるのに、どうしても分からない。真っ黒いのっぺらぼうがボクを覗き込んできて、のっそりと首筋に顔を埋めてきた。
「ちょ…、や、めてぇ……っ、触ら、ないでよっ…。ア、ンッ、……ふ、ぅ」
はぁはぁと荒く生温かい息遣いの獣が、ボクの肌をしゃぶって味見をしている。もし『彼』が日向クンじゃなかったら…。ますます胸騒ぎを感じ、ボクの体はガクガクと小刻みに震え出した。こわい、こわいこわいこわい…! 好きでもない男に犯されて、自由にされる恐ろしさ。乱暴に突き入れられ、痛みと気持ち悪さを感じるだけの絶望的な行為。…そんなの、絶対に嫌だ!!
日向クンしか招き入れたことのない鍵の付いた小部屋の扉を、男が壊そうとガタガタと力任せに揺らしている。日向クンが一緒にいたら、男を追い返してボクを守ってくれる。でも1人ぼっちにされてしまった今、ボクは抵抗する術を持っていないも同じだ。
「やだ……、やぁ、ひなたクゥン…! 助けて、たすけてぇ…! ひゃ、あぅうッ!」
「………」
Tシャツが捲られ、乳首を噛まれる。痛みと気持ち良さの混じる刺激に、ボクは生理的な涙が出てきた。頭では嫌で嫌で堪らないのに、体は気持ち良さを貪欲に追い求めている。ツンと尖った胸の突起をきゅうきゅう抓まれて、じんじんと熱く痺れていく。逃げたくても、体に力が入らないんだ。嫌なのに、嫌なのに。日向クンじゃないのに、ボク感じてるよぉ…!
男の手がボクのスエットに掛かる。そのままパンツごと引き摺り下ろされ、勃起した欲望が相手の口内へと一気に飲み込まれた。先端が喉の奥に当たってるのが分かる。悔しいけど、すごく気持ちが良かった。じゅぶじゅぶと勢い良く頭を律動させながら、後ろに指をつぷりと突き刺してくる。
「あぁあああッ! いやぁ…、それだけは、ダメぇ…! やめてっ、やだやだ、やらぁ…!」
「………」
「ひっ、く、入れないでよぉ…。そこは、ひぁたクンだけなの、…あぁ……あ、あ、うぁあッ」
無情にもズズッと挿入される指に、ボクの目からはボロボロ涙が零れていく。日向クンだけなのに。日向クンしか知らない場所を赤の他人が汚す。体を捩ってもどうすることも出来ない。指はどんどん数を増やされ、スムーズに抜き差しが行われる。欲望を舐め回していた口を離した『彼』は、指が入っている入り口に涎を垂らした。たっぷりと湿ったそこからはぬちょぬちょと卑猥な音が漏れる。
「あんっ、あ、アアっ、ひぃ…! ううっ、ひな、クン…、ぁああッ、っ、たすけ、てよぉ…!」
「………っ! ………」
僅かに相手が身じろいだが、行為はそのまま続けられる。散々柔らかく解された入り口。そこから指が離れていき、代わりに熱く硬い何かがピタリと押し当てられた。ドクドクと脈打つその物体にボクは戦慄する。ダメだよ、入れないで! 日向クン以外の人には絶対嫌だ! ボクを好きに出来るのは日向クンだけ。ボクが1つになりたいのは彼なんだ。愛してる、愛してる。日向クンを愛してる。ボクは一生彼だけのもの。だから、止めて…。お願い、ボクの中に…入ってこないで!!
「っ、あ…あ…、ああッ! んぁあっ…アぁっひぁ、んッう、やらぁ…、ひっ、んぐ…ぁう」
「………」
メリメリと熱い塊が侵入してくて、後ろに壮絶な痛みが走る。ううっ、日向クン以外の人に入れられちゃったよぉ…。最悪、だ。ボクは嗚咽を漏らして、泣きじゃくった。
「今すぐ抜いてぇ、あぁんっ…あン! ダメ、ダメぇ…! 日向…クン、助けて…!」
「狛枝……」
突き入れられた本能の脈動に怯えていると、ふいに上から声が掛かった。聞き覚えのある優しい声。…日向クンだ!
「ふぁ…ッ? ひな、たクン…?」
「ごめん、狛枝…。怖がらせてごめん。ごめんな……」
「日向クン! ひなたクン、ひなたクン…、ん、ぁああ…!」
顔のないその男はボクをあやすように抱き締めてくれた。強く鼻腔を掠める日向クンの肌の匂い。両手で確かめるように彼の体に触れる。肩から背中に掛けて隆々とした体のライン。耳元でボクの名前を囁き続けてくれる小さな声。そして何より、天に向かって尖がったアンテナのようなクセ毛…。日向クンだ。日向クンだったんだ! 良かった…。
ぐぐっと腰を押し付けられ、日向クンに奥まで貫かれる。愛する人と1つになる幸福感と気持ち良さがボクを満たしていく。ボクも彼の動きに合わせて、激しく腰を動かし始めた。
「あっ、アッ、ひなたクン…! ボクには、キミだけだよ…っ! はぁ…他は、いらない、んっキミ、だけ…」
「俺も、狛枝だけ…く、んぁあ……! 好きだ、狛枝…。愛してるよ。…あい、してる」
「ハァ、あんっ、ボクも愛してる…! あぁあッあ、そこ、あ、きもちぃ…! も、イクぅう…っ」
ガツンと一際大きな衝撃にボクはビクビクと悶えた。真っ白い熱の解放。体に溜まっていた快楽が堰を切ったように溢れる。同時にボクの中にじんわりと日向クンの熱が広がったのを感じた。


明るくなった寝室のベッドの上で、日向クンが正座でしょんぼりしている。
「本当に、すまない。俺が心配する気持ちを、お前に分かってほしかった、んだけど…」
「そうだね。確かにこれはやり過ぎだよ。ボク、…すごく怖かったんだから」
「ごめん。狛枝、悪かったよ。ごめん、ごめん…」
むくれるボクを日向クンは恐る恐る掻き抱く。彼の言いたいことは何となく分かった。ボクの警戒心が足りなさ過ぎるから、こうして具体的に教えてくれたという訳だ。日向クン以外は考えられない。その気持ちに変わりはないけど、今までとこれからは少しその意味が違う。心の底からボクは日向クンだけを求めているんだと再確認出来た。
「狛枝…。お前が俺のこと、許せないのは分かってる」
「許さないよ、当たり前でしょ? キミには責任とってもらわないと困るね」
「………」
「今度はキミのまま、ボクを愛して? 知らない誰かじゃない、キミ自身でボクを可愛がって…」
「っ! ……狛枝、」
日向クンの首に腕を回して、ベッドへと倒れ込む。軽く触れている唇が深く合わさるのも時間の問題。キミしか知らないボクでいさせて。ボクしか知らないキミでいて。そう願いながら、ボクは愛しい恋人との情交に溺れていった。

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