// Mirai //

32.電車の話 : 5/22
俺と狛枝のアパートはとても近く、歩いて5分も掛からない場所にある。職場はもちろん同じ高校。だけど俺達は一緒に通勤したりということは一切なかった。
俺が受け持っている陸上部は朝練が1日置きにあって、朝がとても早い。朝練がない日も自然といつもの時間で目が覚めてしまい、家でゆっくりすることなく学校に向かう。処理する仕事がなくなることはありえないからだ。反対に狛枝は社会人として常識的な時間である30分前には学校に着くものの、俺のように突飛な時間には来ない。俺なんかより時間の使い方が上手く、効率的かつ迅速に仕事を片付けているのだ。早く来る必要性はあまりない。
だから今日の出来事はとても珍しいことだった。


駅のホームで電車を待ちながら、俺は左手の腕時計をチラリと見やった。7:15を少し過ぎた辺り。しかし電車の到着を告げる電光掲示板は6:23で止まっている。3駅離れた駅で踏切の信号機に異常が見つかり、緊急で動作確認を行ったらしい。その所為で電車が遅れていた。
「朝練がない日で良かった…」
例え朝練があっても、生徒達はみんなこの線を使っているので、全員遅刻していただろう。少し前に電車が動き出したというアナウンスが流れた。隣の駅には既に到着しているようだ。周囲はサラリーマンや大学生らしき人が長蛇の列を作っている。みんなイライラしているのか、頻りに足を動かしていたり、ケータイと電光掲示板を交互に見たりと落ち着きがない。
遅れた電車、待たされる人間、ざわついた駅のホーム。いつもと違う朝だ。ただ日常の中の差異はこれだけでは終わらなかった。
「あれ? 日向クン…?」
ホームの階段側から掛かった声に、俺はバッと振り向いた。そこに立っていたのは紛れもない俺の恋人。薄灰色のスーツを着こなし、銀縁のメガネを掛けた狛枝だった。スラリと背の高い美形な男の登場に、辺りの空気が音もなく揺れる。俺の左側にいた2人組の女子大生は、ヒソヒソと興奮気味に彼を見て囁き合う。後ろ側のパンツスーツ姿の女性は顔をほんのり染めつつ、口をぽかんと開いていた。柔らかく微笑む彼に近付こうと、俺は並んでいる列を離れた。
「…狛枝!」
「日向クン、良かったの? 列から外れちゃって…」
狛枝は申し訳なさそうに、列を視線で示した。俺は黙って首を振る。折角狛枝と会えたのに、別れて電車に乗るだなんて選択肢は俺の中にはない。「お前と一緒が良い」と彼にしか聞こえない大きさの声で言うと、狛枝は恥ずかしそうに顔をピンク色にして、俺から視線を逸らすように下方に落とした。その瞬間、また背後の空気が蠢くのを感じた。分かるぞ、その気持ち…! 狛枝の美しさと可愛さは本当に罪深い。
「学校の最寄りで降りる人、多いのかな? 少し後ろの方に行く?」
「そうだな。ここじゃ後ろに並んでも電車に乗り切れない」
同意を示して、2人で場所を移動することにした。何人かの女性がさり気なく俺達の後ろを付いてきているが、気にしない。狛枝の後をフラフラついていく人間は数え切れないほどいる。今は俺も一緒にいるんだから、何かあっても守ってやればいい。
それにしてもこんな朝早くから狛枝に会えるなんて…! 思いがけない偶然に、ガッツポーズを決めてしまいたい位嬉しい。彼に会えたお陰で、今日1日仕事が頑張れそうだ。狛枝も同じように嬉しいと思ってくれてるらしく、学校では決して見せることのないような、はにかんだ可愛らしい笑顔を浮かべていた。
「お前タイミング良かったな。丁度電車が動き出した所だぞ」
「あはっ、そうみたいだね。そんなことより日向クンがホームにいた時はビックリしたよ。声掛けて良かった。電車が遅れている不運は、全てキミに会うためだったんだね!」
「お前は相変わらず大袈裟だな…」
テンション高く声を弾ませる狛枝を見て、抱き締めたい衝動に駆られる。ああ、ここが外じゃなければな。悶々とした気持ちを抑えつつ、俺達は人があまり混雑していないホーム後ろ側列に並んだ。そこにガタン…ゴトン…と電車が滑り込んでくる。窓から見える車両内部はどこも人がぎゅうぎゅうで、すし詰め状態だ。
「混んでるね…」
ドアが開いた瞬間、狛枝からポツリとそんな呟きが漏れた。確かにこれほどまでに人口密度が違うと、電車に乗るのにも勇気が要る。普段の電車は自分の周りにスペースがあって余裕だったのに。降りていく人間を見送ってから、狛枝に前を譲って後ろから力を入れずに押していく。
「…ん、狛枝……。平気、か?」
「ちょっとキツいけど、大丈夫そうだよ。…日向クンも、乗れたみたいで良かった」
車両位置をずらしたのにも関わらず、超満員だった。俺が出入り口ギリギリで立っていて、後ろにいた人達は諦めたのかすごすごと黄色い線の内側へと戻っていく。駅員が手を挙げて、ドアがスーッと閉じた。俺と狛枝の体勢はというと、狛枝の後ろに俺がピッタリとついている状態で、目の前には彼のふわふわの淡い色の髪がある。柔らかく細い髪質の毛先が顔に当たってもどかしかったけど、狛枝が使っているシャンプーの爽やかな香りが微かに匂って悪くない。寧ろ、良い。
「…日向クン、鼻息荒いよ」
「…狛枝の髪、くすぐったい」
「「………」」
やや首を捻ってこちら側を向いた狛枝から抗議の声が上がるが、俺が反論するとそれ以上は文句を言ってこなかった。身長が180cm代の俺達は乗客達よりも頭1つ分抜けていて、そのお陰か視界は広く保たれている。みんな自分のことに必死でこちらを見てる人間はいない。俺はそれとなく右手を狛枝の腰に当てた。
「っ!?」
「……大丈夫だ、狛枝。俺の手だから」
痴漢じゃない。そういう意味を込めて、狛枝に伝えると、彼は「うん…っ」と吐息混じりに返事をした。浮き出る腰骨をするりと撫でて、腹側に滑らせる。狛枝はビクンと体を震わせた。
相変わらず細いは細いが、俺がキチンと食事管理をしているお陰で大分肉付きは良くなった。狛枝の健康のためだと言いつつ、実は俺の自己満足なのかもしれない。狛枝の抱き心地を良くするために太らせたのか?と聞かれれば、NOとは言わない。狛枝を抱く度に思う。何て白くて滑らかで綺麗な体なんだろうって。どこもかしこも敏感で感じやすく、隅から隅まで俺好み。唇を噛み締め、涙を滲ませながら、快楽に追いすがる姿は最上級に厭らしい。
俺は吊り広告を読むフリをしながら、手を動かした。下腹部をゆっくりと撫でているが、肝心な所は触っていない。狛枝は必死に声を押し殺しているようで、さっきからくぐもった嗚咽が聞こえるだけだ。そうこうしている内に車内に濁声のアナウンスが流れ、電車が次の駅に到着した。俺の背中側のドアが徐々に開放される。
「…、狛枝、…1回降りるからな。足元、気をつけろ」
「え? あ、うん…」
足取りが覚束ない狛枝を軽く支えながら、一緒に駅へと降りる。人が雪崩のように車両から出て行き、また新しく乗車していく。後ろからぐいぐい押されて息が詰まりそうだ。さっきより混んできたな。今度は狛枝と向かい合うように電車に乗ることが出来た。だけど彼は俺と目を合わせることなく、何やら必死に腕を動かしている。
「どうした?」
「んぅうう…。腕が、…抜けなくて…っ」
「大丈夫か? 左手、だよな。…狛枝、腕外れたらこっち来い」
俺は埋もれた狛枝の左腕を辿り、その先に手を突っ込んだ。持っていた鞄が引っ掛かってたようだ。それを外してグッと力を入れて引っ張り、狛枝の体を乗客から守れそうなドア側に移動させる。
「ありがとう、日向クン。助かったよ」
狛枝はニッコリと笑った。カーブに差し掛かったのか電車が左に大きく揺れる。狛枝が潰れてしまわないように俺は手摺に手を突いて、押してくる人波を体で受け止めた。それでも少しは力が掛かるのか、狛枝に更に密着してしまう。
「ごめん、苦しいよな?」
「そんなことないよ。キミが守ってくれるお陰で全然辛くない。日向クンこそ、平気かい?」
「……ん、平気だ。お前がすぐ傍にいてくれるから」
「〜〜〜〜〜っ」
狛枝が顔に朱を走らせ、メガネ越しに灰色の瞳を潤ませる。その顔は…、ヤバいぞ。ドキドキと鼓動が速まり、彼の顔を正視出来ない。キスしてしまいそうなくらい近くに狛枝の顔がある。本当に目を閉じて、少し前に顔を押し出せば口付けられそうだ。でも我慢…。ここは2人きりでイチャついているアパートではなく、通勤時の電車の中なのだ。
「ねぇ、日向クン…」
「……何だよ」
「ボク、さっきみたいの、…またしてほしいな」
そんな俺の葛藤を知ってか知らずか、吐息混じりの掠れた声で狛枝が囁きかけてくる。そして体を更に俺に押し付けた。唇まで数cmもない。間近で見てもキメが細かくすべすべとした彼の白い肌。ほっそりと流れるようなラインの首筋。シトラスの甘さを含んだシャンプーの香りが色濃くなる。
「あ…っ」
「ふふっ、…ね? 分かるでしょ? キミがあんまりするから、こんなになっちゃったんだ…」
熱に浮かされた表情で、狛枝は「はぁあ…」と熱っぽく吐息を零す。押し付けた体の下の方。少しだけ膨らんで主張した彼自身が俺にグリグリと擦りつけられ、じんわりと熱が伝わってきた。狛枝が、発情している。劣情を孕んだねっとりとした視線と股間のぐにぐにとした感触に刺激され、俺の本能もむくむくと起き上がっていく。
「あ、あ、……こま、えだ…」
「…んぁ……、あ、日向クン…、ひなたクン…」
俺達は息を荒げながら、小声で名前を囁き合った。狛枝は目に涙を浮かべながら、必死にスーツの下に隠された欲望をすりすりと俺に当てている。俺も円を描くように腰を動かし、勃起しかけのそれを狛枝へと寄せる。だんだん狛枝のが硬くなっていくのが分かる。もちろん俺のも最初とは比べ物にならないほど大きく硬くなって、ジャージを押し上げていた。狛枝は生地の伸縮性のないスーツを着ているからさぞ窮屈だろう。
「んぅ……ん、ンっ、……あぁ…ひな、たクン…、あ」
「はぁ、はぁ…っ! 狛枝……、あ、くっ……」
電車の中だと分かっていても、狛枝の淫らな姿を見てしまったが最後、どうしてもその行為を止めることが出来ない。俺達は駅に着くまでの僅かな間ずっと、互いの欲望で刺激し合い、超えることの出来ない小さな気持ち良さに揺蕩っていた。


……
………

電車を降りた俺達は改札へ続く階段へは向かわず、どちらともなく人の少ない反対側のホームへと歩いて行った。俺は斜め掛けにしている肩掛けバッグを前に持ってきていて、狛枝もスタイリッシュな通勤鞄を両手で提げている。熱はすぐには治まらない。腫れてしまったそこを鎮めるにはまだ時間が必要だった。
「………」
「………」
言葉は出ずとも、何となく互いが思っていることは分かる。狛枝はもじもじとしたまま俯いていた。俺も全身が熱くて、額に汗が浮かんできている。朝っぱらからバカだとは思うけど、やっぱり好きな人と一緒だとどうにも理性が消えちまう。
「狛枝、……その、」
「あのさ、日向クン。今から学校に行くと、何時に着くかな?」
「へ? あー……、7:40くらい、だろうな」
脳裏に浮かんでいたことと全く違う質問をされて、俺はぎこちなく答えを返した。すると狛枝は顎に指を添えて、「うーん…」と思案顔をする。一体何なんだ? 俺は静かに彼から言葉が紡がれるのを待った。
「1回15〜20分と考えれば、ボクはいつもと同じ時間かな」
「? ……何の話だ?」
「ここの駅って、最近工事されたから設備が綺麗だよね。更には障害者用のトイレも設置されている…」
「おい、狛枝…?」
何をそんなに真面目に考え込んでいるのか分からない。俺が狛枝の顔を覗き込むと、彼はいつになく真剣な表情でこちらを見返した。
「日向クン、シよう…? ボク、我慢出来ない。このまま学校に行っても、まともに頭が働かないよ!」
「は? まさか、するって…」
「うん! ボクと日向クンだけでするんだ。…キミだって、治まらないでしょ?」
「こ、狛枝、俺達これから学校…」
「今すぐだよ、日向クン! ここのトイレでさ、お互いスッキリした方が良いと思うんだ」
とろんとした顔つきで、狛枝はスーツのジャケットを捲り、内ポケットから何かをチラッと見せる。パッと見は何だか分からなかったけど、その銀色のパッケージはよくよく見れば覚えがあった。俺が狛枝とする時にいつも使ってるコンドームだ。
「ダメ…? 日向クゥン」
捨てられた子犬のように狛枝は鼻を鳴らした。駅のホームは通勤・通学の人が行き交う公共の場だ。それにも関わらず、一生懸命誘ってくる彼のエロさに俺の心が粉々に打ち砕かれる。ムッとするような蠱惑的な色気を纏わせた麗人。この誘いを断れる人間は果たしてこの世に存在するのだろうか? 頭で考えるよりも先に、口が勝手に「良いぞ」と賛成していた。

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33.占いの話 : 6/3
「それじゃ失礼します」
「次は葉隠クンだから、教室にいたら呼んできてくれるかい?」
「分かりましたー」
女子生徒が軽く頭を下げながら、小会議室から出て行った。これでやっと2人目だ。緊張状態から脱したボクは体の力を抜き、ソファにグッと仰け反る。中間試験が終わった6月の初旬。一息つけるかと思えば、実はそうでもない。大学の進路や就職について、クラスの生徒1人1人と面談をして、キチンと指導しなければならないのだ。
「まだ早いかもしれないけどね」
高校2年生で将来のビジョンがしっかりと見えている子は極少数だ。大半が自分の10年後の姿を想像出来ていない。そもそも自分が何をやりたいのかさえ分かっていない子もいる。16歳かそこらじゃ、まだまだ経験も乏しく未熟だ。ボクは先ほど面談した女子生徒の志望先を記した紙に視線を落とした。模試の結果から導き出したのだろう、可もなく不可もない大学の名前が並んでいる。彼女の場合はまだ良い。こうして教師であるボクに苦労を掛けまいと、朧げながら目標を書いてくれたのだから。だけど…。
「これは、どうするべきか…」
次の面談相手である葉隠 康比呂の『志望先』を摘まみ上げ、ボクは盛大に溜息を吐いたのだった。


……
………

「よぉ、狛枝っち。俺に何か用かいな?」
ノックもせずにガチャッとドアを開いたのは、ボクのクラスに在籍している葉隠クンだ。学ランを肩に引っ掛け、おじさんのような腹巻を巻き、ブカブカのズボンをたくし上げ、足元は草履を履いている。ウニのようにドレッドにした髪を見て、相変わらず無駄にボリュームのある頭だとボクはしみじみと思った。
「……キミ、今日は進路面談だってこと忘れてた?」
「え…。いやいや、覚えてたべ! そうそう、面談な面談!」
しどろもどろに視線を泳がせた葉隠クンにボクは毒気を抜かれてしまった。これは完全に忘れてたな。まぁそこをほじくり返してどうこう言おうだなんて、ボクはするつもりはない。面倒なことはしないに限るからね。さっさと必要事項を聞き出して、早めに面談を終わらせよう。ボクは向かいのソファに腰掛けるように促すと、葉隠クンは素直にそこにどっしりと腰を落ち着けた。
「…なぁ、茶とか出ないん?」
「出ないよ」
「あー。狛枝っちと話すりゃいいんか! じゃあ、オススメのパワースポットを教えてやんべ」
「いらないから」
「遠慮すんなって。俺が研究の末に突き止めた、レムリア文明と東京タワーの驚くべき関係について、」
「ちょっと黙っててくれるかな?」
ボクがピシャリとねめつけると、彼は「あははっ」と軽く笑った。眉を僅かに吊り上げて、剣呑な目付きで睨んでみたけど、相手は飄々とした態度を崩さない。
この学校にいる生徒は個性的な子が多く、葉隠クンもまたかなり濃ゆい部類に含まれる。今までボクは彼のようなタイプの人間とは関わってきたことがなかった。日向クンにも最初は苦手意識を持っていたけど、彼はボクを気遣ってくれたり心配してくれたりと、行動の意図がすごく分かりやすい。だけど葉隠クンはどうにも良く分からない。理詰めで責めてくる霧切さんが苦手という教師は多数いるけど、ボクは非論理的である葉隠クンの方が扱いづらかった。所謂、問題児。日向クンのクラスの江ノ島 盾子と同じようなポジションだ。
「まずキミの志望先について、聞きたいんだけど。これはどういうことかな?」
ボクがローテーブルにスッと出した志望用紙には、葉隠クンの見た目からは意外なほどに達筆な字で『天竺』と書かれていた。彼はかったるそうに頭をボリボリと掻きながら、紙を覗き込んだ。
「んー? やっぱ全ての占いの原点であるインドには、1度行ってみるべきだべ?」
「あっそ。…ところでこの紙には旅行先じゃなくて、キミの高校卒業後の進路を書いてほしかったんだけど?」
「俺はそのつもりで書いたんだべ! 狛枝っちこそ真面目にやってくれよ」
「………」
何でボクが葉隠クンに文句を言われなきゃならないんだろう…。体の奥底から出てくるイライラを抑えながら、ボクは質問を続ける。
「2番目と3番目のエジプトと中国も占い関連なのかな?」
「おう! その通りさ。視野を広げるってぇ意味でも色んなもんを見んのが1番だべ。自分では思いもよらない世界がそこにあんだ」
「………へぇ」
正直驚いた。バカっぽく見えるから何も考えてないんだと決めつけていたけど、どうやらそうではなかったようだ。彼なりに自分を高めようと模索はしている。志望先に国名を書くのはあまり褒められたものではないが。
「さすがにこれを学校側に伝える訳にはいかないから、就職ってことにするけどそれで構わないかな?」
「狛枝っちの好きで良いべ。別にそんな紙に何を書こうが、俺のやることには変わりないんだしよ」
彼の発言に曇りはなかった。ボクは習字の先生のような葉隠クンの字の横に赤いペンで『就職希望』と書き込む。
占い、か。彼の噂は天文部の生徒から聞いている。葉隠クンの占いは的中率が決まっていて、何だか良く分からないけどすごいらしいと。占いの料金が驚くほど高いので誰も占ってもらったことはないようだけど。天文部に所属しているのはほとんどが女子生徒だ。女子というのは古今東西占いが好きらしい。星占い、血液型占い、動物占い、タロットや数秘術…。例を挙げればキリがないほどだ。
ボクは占いやそういった類のことが好きじゃない。『当たる』と評判のネット占いなんかは、大体が誰にでも当てはまりそうなことが並べ立ててあったりする。そんなものは占いでも何でもない。なのに出された結果を鵜呑みにし、信じている人間が結構いる。バカらしいよね。占っている人間は何を根拠に結果を口にするのだろう? 占い自体には興味はないけど、占い師には少し興味があった。
「あー、こりゃ参ったね。実際…」
「…何、突然。どうかした?」
「見えた…見えちまったんだべ…。リアルに見えちまったって話だ」
「は?」
見えたって何のこと? 神妙な顔つきで葉隠クンは無精髭を生やした顎に指を添えた。片目を瞑り、低く唸る。
「禿散らかした黒髪をツインテールにして、患者服を着たおっさんの守護霊…。お前さんの守護霊さ!」
「………」
「狛枝っち。じょ、冗談だべ。んな睨むなってー」
腕を組んで、カラカラと笑う葉隠クンにボクは危うく舌打ちしそうになった。うーん、胡散臭さが2割増しだ。どうやら彼のすごさというのは天文部の生徒の勘違いのようだ。下らない…。一瞬でも気にしたボクが愚かだったんだ。自分の情けなさに嘆息する。
「…キミの占いがデタラメなのは良く分かったよ」
「し、失礼な! デタラメなんかじゃねーべ! 正真正銘、ホンマもんの占いだ」
顔を真っ赤にして葉隠クンは憤る。エセ占い師にしては十分過ぎるプライドを持ち合わせているらしい。ボクはすぐに二の句が継げなかった。もちろん呆れ返ったからだ。
「ボク、占いって信じてないんだよね。キミの占い、本当に当たるの…?」
「当たるべ! どんなことでも20%、もしくは30%の確率でぴったり的中だべ!」
「もしくはって何。というか20%って正直微妙だよね…。だって80%の確率で外れるんでしょ?」
「むむっ! 狛枝っち、ちゃんと聞いてなかったんか? "どんなこと"でも、その確率で、"ぴったり"当たるんだぞ? 分かんねーのか? それのすごさが!」
うーん…。占う対象をピンポイントにしたり、占い結果を更に占ったりする方法をとれば、当たる確率は増すのかな? 彼の占いの原理がどういうものなのか分かりかねるので、何とも結論を出しづらい。
「俺のすごさが分からんとは…。そんな狛枝っちには朗報だ! 俺の好意で超格安に占ってやんべ!!」
「…超格安? キミ、教師からお金取るつもり?」
「2時間10万円の所を、特別価格で9万円にしてやる!」
「はぁ…。当たるかどうかも分からないキミの占いにお金を払う義理はないよ」
ありもしない物をチラつかせて、お金を取るやり方だ。これってある意味、詐欺師か宗教家に通じるんじゃないのかな。別にボクはお金には困ってないから、10万円くらいなら出そうと思えば出せる。だけど支払う対象が葉隠クンの占いっていうのはちょっと頂けない。
「よっしゃ、良いだろう! じゃあ、試しに占ってやんべ!! というか、すでに占っているぞ!!」
「…いつの間に。どうやって占ったの?」
葉隠クンの手には、一般的に占いに使うような道具は一切ない。それなのに占えるの?
「それはだな、インスピレーション占いだべ! 何がしかの力が働いて、頭の中にビビビッと来んだよ」
それってただの直感じゃないのかな。でも水晶玉やらタロットカードやら出されて占われるよりも、単純かつストレートで怪しさは緩和するような気がする。
「ふっふっふっ…驚きの未来が見えたべ…」
不敵な笑みを浮かべる葉隠クンに、ボクはニコッと笑顔で返す。別に何を言われたって平気だ。生活や仕事で悩んでいたとしても、日向クンがいてくれるだけで全てが解決する。彼こそがボクの希望なんだ。
「言ってごらん。どんな結果にせよ、…ボクは信じない」
だって怖くないもん。明日死ぬって言われても、それが的中したとしても、ボクは日向クンに愛されて死ねるから良いんだ。葉隠クンは「むむむ…」とわざとらしく唸った後、ボクにビシッと人差し指を突き付けた。
「狛枝っちは今付き合ってる人と、近い内に、…別れる!!」
「………。あは、……あはははははははっ!」
占い結果を聞いた途端、ボクは腹を抱えて、笑い出した。ふふふっ、彼は何を言ってるんだろう。ボクと日向クンが別れる、だって? あははっ、これは傑作だ。よりによって日向クンとのことを占われるなんて。ボクには分かる。この占いは何の信憑性もない。今回ばかりは外れの80%を引いたようだ。お腹の筋肉が引き攣って、上手く呼吸が出来ない。笑い過ぎて苦しいなんて、久しぶりだ。涙も出てきちゃったよ。笑い続けるボクを葉隠クンは黙って見ていた。
「はぁ〜…、面白かった。残念だけど、この占いは外れだね。まぁ、ボクに恋人がいるのは当たりだよ。それは褒めてあげる」
「信じたくないって気持ちは分かるんだけどよぉ、占いはこういうもんだからな…。諦めるべ!」
「……だから当たってないって言ってるでしょ?」
「本当に信じたくねんだな」
確かにボクと日向クンはたまにケンカもする。でも彼が悪かった時は向こうから素直に謝ってくるし、ボクも何だかんだ言ってそれをすぐに許してしまう。ボクが悪かった時もあるけど、日向クンはあんまり怒らない。「ダメだぞ」ってお母さんみたいに優しくボクを叱ってくれるんだ。それが好きで、わざと悪いことをしたこともある。結局の所、日向クンと長期間険悪になったり、別れ話が出たことは一切ない。ボクは日向クンがいないと生きていけないから、こっちから別れる気はなかった。あるとしたら日向クンからだろう。だけど葉隠クンは更にボクに追い打ちを掛けるように、衝撃の占い結果をボクに伝えた。
「サービスでもうちょっとだけ教えてやんべ。…別れを告げるのは、狛枝っちからと出てるべ」
「……は? それ本気で言ってるの…?」
表面上は平静を装ってみたけど、内心は落ち着きの欠片もないくらいボクは動揺していた。占いなんて、信じてないのに…何でこんな気分になるんだろう。膝に置いた手にぎゅっと力が入る。日向クンからじゃなく、ボクから? ありえないよ! ボクは日向クンのことを誰よりも愛してるんだよ? 離れてしまったら狂ってしまうくらい、彼を愛しているんだ。ボクの方から彼の元を去るなんて、天地が引っくり返ってもない。
動きを止めてしまったボクに葉隠クンはキリリとした表情で、楽しそうに笑った。
「現実に打ちひしがれた狛枝っちが、恋人に別れを告げるってインスピレーションだな! そんな訳で10万円の振り込みを頼むべ! 給料入った後で良いからよ!!」
軽快に言い放った葉隠クンはソファから立ち上がった。そして呑気な笑い声を響かせながら、小会議室から出て行く。ボクが、日向クンと別れる…? しかもボクから彼に別れを告げて? 嘘だ…。希望の未来に忍び寄る絶望感に、ボクはしばらくそのまま動けなかった。

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34.風呂の話 : 6/14
「久しぶりに風呂でも沸かすか。狛枝、一緒に入るか?」
「うん…」
ゴロゴロと俺のベッドに寝転がって本を読んでいる狛枝に声を掛けると、物哀しげな眼差しを返される。最近、狛枝は元気がない。「学校で何かあったのか?」と聞けば、「ちょっと生徒の進路先のことで色々とね…」とぎこちなく笑う。確かに面談は大変だ。生徒1人1人の将来を担任である俺達が見ていかないとならない。俺の方もまだ何人か面談するべき生徒は残っている。苗木だけが志望先用紙を真っ白なまま提出してきていて、ある意味江ノ島よりも不安な要素だ。
俺は風呂場に行って、浴槽をシャワーで軽く流した。常日頃からマメに掃除はしているので、あまりゴミは落ちていない。長く狛枝と一緒に浸かれるように温度を下げて、湯沸かし器のスイッチを入れる。30分もせずに入れるようになるだろう。俺は再び寝室へと足を向けた。
「狛枝…」
狛枝はさっきまで読んでいた本を閉じて、枕元に追いやっていた。瞼が半分落ちていたが、完全には眠っていないようだ。彼の肌は青白く、あまり血の気がない。ベッドの縁に腰掛けて、頬を指で撫でるとほんのりと体温が伝わってきた。狛枝は俺の指先を目で追いながら、「日向クン…」と名前を呼んだ。
「今日は金曜日だしさ、何も考えずにゆっくり休もうぜ」
「ありがとう、日向クン…」
「良かったら、話してくれないか? 俺に相談してもどうしようもないとは思うけど、話したら少しは楽になるかもしれない」
「…心配掛けて、ゴメン。キミが一緒にいてくれるのに、気分を悪くさせてしまったね」
どうやら話してはくれないらしい。無理矢理聞こうとするのも、彼には迷惑か。俺に出来ることはじっと待つことだ。狛枝が話せるようになるまで急かすことなく待ち続ける。もちろん、自己解決してくれるのが1番良いんだけどな。
「謝るなよ、…狛枝」
寄り添うように狛枝の隣に体を横たえ、軽く抱き寄せてやる。狛枝は甘えるように、俺の肩口に顔を埋めた。猫だったらきっと喉がゴロゴロ言っているはずだ。ポンポンと背中をあやすように叩くと、すりすりと彼は更に身を寄せる。
「日向クン、好き…」
「うん。俺も、お前が好きだよ」
「ふふっ、うん、うん…!」
子供のように無邪気に笑って、狛枝は俺の頬にキスをした。厭らしい感じはせず、愛しさを伝えるような優しい心地。俺は狛枝のふわふわの髪を撫でつけてから、同じように頬にキスを返した。
「日向クンは、ボクを捨てたりしないよね…?」
「何だよ、それ。当たり前のこと聞くなって。…ずっと離さないぞ」
「分かってる。ボクもね、キミを離さないよ。一緒にいたいんだ…。ずっと、ずぅっと…」
「狛枝……」
長い睫毛を瞬かせて、狛枝は切なげにそう告げる。何だかいつもと雰囲気が違う気がする。もしかして何か俺とのことで不安に感じているのだろうか? 最近大きなケンカはしてないし、不満をぶつけられたこともない。一通り考えてみてから、思い切って狛枝に聞いてみることにする。
「………。もしかして、俺が不安にさせてるのか?」
「ううん。それは違うよ、日向クン。ボクがいけないんだ。…キミは悪くない」
蚊の鳴くような声で狛枝が答えた。悩み、か。何に悩んでいるんだろう。すごく気になる。だけど…。
「俺には話せないことなんだよな…」
「ごめんね。キミのこと、愛してるよ。心配しないで。別れたいとか、全く考えてないし」
「…分かった。話せるようになったら、いつでも聞くぞ」
狛枝は返事の代わりに俺にぎゅっと抱き着いた。お前が何したって良い。俺はありのままの狛枝を受け入れたいから。目を瞑って、温かい彼の体に気持ちが凪いでいく。名は体を表すとは良く言ったものだ。狛枝を抱き締めていると、心が落ち着く。静かな彼の呼吸音に合わせて、体が自然とリラックスするんだ。言葉を交わすことなく、俺達はただ抱き合っていた。


……
………

ピーッピーッピーッ!

遠くの方で聞こえる電子音に俺はハッと目を覚ました。狛枝と抱き合ってて、いつの間にか眠ってしまったようだ。俺が体を動かしたのが伝わったのか、腕の中で「んぅ〜」と小さな唸り声を上げながら、狛枝がもぞもぞと体を揺らす。
「狛枝…?」
「ふぁあ……、ひにゃた、クン?」
「風呂、沸いたみたいだ。入れるか? それとも後にするか?」
「……はいるよ」
舌ったらずの言葉遣いが可愛くて、心臓がいちいち反応してしまう。狛枝はゆっくりと起き上がって、フラフラとベッドから降りた。おいおい、大丈夫か? すぐに手を貸してやれるような間合いを取って、後ろからついていく。洗面所には2人分の寝巻と下着が畳まれている。普段着はともかくとして、部屋着や寝巻なんかはどっちも気にせず着るから適当だ。
狛枝は着ているTシャツを脱いで、ズボンに手を掛ける。その下から見えた美しい肢体に俺は目を奪われる。染み1つない雪のような肌、胸にポツリポツリと色付く薄桃色の乳首、絶妙な細さの腰。きゅっと引き締まった尻とそこから伸びる長いカモシカのような足。まるで芸術品のような狛枝の体。どこからどう見ても完璧の一言だった。
「日向クン、脱がないの?」
「ああ、すまない。ちょっとボーっとしてた。先、入っててくれるか?」
決して性的な意味でなく、狛枝に見惚れてしまった。彼はふっと俺に微笑を向け、風呂場へのドアを開き、中へと入っていった。俺はふぅと深呼吸で心を落ち着けてから、無心で服を脱いだ。擦りガラスの向こうに狛枝のシルエットが写っている。ドキドキしながら、俺はドアをそっと開けた。
「あ、来たね。…日向クン、頭洗って?」
最初からそのつもりだったんだけど。アクリル椅子に座った狛枝の後ろに立ち、湯が出ているシャワーヘッドを手に取った。
「はいはい。頭濡らすから、目瞑ってろよ」
「うん! あ、シャンプーは右側のでお願いするよ」
狛枝の髪に湯を掛けて濡らす。ふわふわだった髪が濡れて、ぺったりとした。
彼の髪質的に男性用のシャンプーは片っぱしからダメらしい。なので狛枝は女性用を使っている。「右側」と指し示されたのがそれだ。シャボン玉を表しているのか、白地に青色の水玉模様が描かれているボトル。先週期待もせずに買ってみたら、思ったよりも地肌はスッキリするし、髪もキシキシしたりしないと狛枝は絶賛していた。ちなみにミントの香りがする。今まで使っていたシトラスと交互に使用しているのか、1日置きに狛枝の髪の匂いは違う。
ポンプを2回ほどプッシュして、シャンプーを掌に垂らす。清涼感があるのか、スッとした冷たさを感じる液体だ。それを少しだけ泡立ててから、狛枝の地肌を指の腹で揉むように洗っていく。面白いようにシャンプーが泡立つな。狛枝の頭はあっという間に真っ白な泡塗れになった。
「痒い所はありませんかー?」
「ないでーす。ん……、日向クンに洗ってもらうの、本当に気持ち良いなぁ…」
うっとりとした狛枝の声色に安心した。シャンプーが目に入らないように、顔の表面を気にしながら、頭全体を更に優しくマッサージしていく。
「洗い足りない所はないですかー?」
「ありませーん。日向クン、思いっ切りお湯掛けちゃって?」
「…じゃあ、ざばっと行くからな」
文字通りの擬音を立てて、上から派手にシャワーのお湯を掛ける。シャンプーは終わり。よし、次はトリートメントだ。俺は隣の色違いのボトルに手を伸ばした。


狛枝の頭をトリートメントして、シャワーキャップを被せた。しばらく湯船に2人でイチャイチャしながら浸かってから、狛枝の髪を洗い流す。頭の次は体だ。肌の弱い狛枝のために買った、ベビー用の甘い香りのするボディーソープで、全身を洗うはずだったんだけど。スポンジは使うことなく放置された。
「あっ、あっ……あはぁ…! んっひぅ…ッ! ひ、日向クン…!」
「狛枝…、ハァ…っ、あ、……ん、ふっ、う…! こま、えだ」
俺は狛枝を後ろから抱き締めて、体を上下に動かす。ヌルヌルとしたボディーソープが全身に絡み付いて、引っ掛かることもなく体を擦りつけることが出来た。両手は狛枝の体の前に回されている。首回りをくるりと3周し、鎖骨を入念に撫でる。それからツンと主張する2つの胸の飾りを、指で挟んでクリクリと摘まみ上げた。
「はぁあああんッ! あっ、やぁあ、…日向クン、アンッ、あん、あぁんぅ…!」
狛枝の口から発せられた嬌声が風呂場に反響する。人差し指で素早く乳首を弾くと、狛枝は体をクッと撓らせた。今、俺は狛枝の体を洗っている。俺の体を使って。片手でボディーソープをプッシュして泡を足す。あばらの浮いた腹に手を滑らせて、臍の穴も丁寧に擦った。狛枝の尻の間に挟まっている俺の欲望はさっきから限界突破をしていて、最大限に膨らんでいる。狛枝が喘ぐ度に体に力が入り、挟まれた熱が良い感じに刺激されていた。
「ひなたクン、あっ、あうっ…きもち…いぃ…! 蕩けちゃいそう…、ふぅ…、んぁあ」
「狛枝、全部洗えてないからな…っ。大事な所が、まだだ…」
「ふ、ぁあッ、だい、じな、ところ……? んっ、ンッ、あああ…、! ひゃぁああンッ!」
そっと下腹部の熱を握り込んだ途端、狛枝が悲鳴を上げてビクビクと仰け反った。大事な所だろ? ちゅくちゅくと音を立てて、輪にした指でゆっくりと擦っていく。狛枝は「ぁン、…あぁッん、」と鼻にかかったような甘い声を上げながら、快楽を主張した。つるりとした先端の割れ目から、ボディーソープとは違うぬるりとした液が湧き出てくる。
「…ん、やぁあ…、ふぁん、ア、うぁあっ…出ちゃう、ひぁたクン、…ボク、も、出ちゃうぅ…!」
「良いぞ? 出せよ…。その代わり、汚れたら俺がまた洗うからな…」
「やだぁ…! ひなた、クンが触ったらぁ、ひっ、うッ、…アン、そしたら、…またでひゃうよ」
「…そっか。ならまた洗うまでだ」
「あ、あ、やぁ…! やめて、ひ、ぁたクン…! それじゃ、ずっと…、終わんないよぉ…ァアアっ、ふ、んぁあッ!」
狛枝が一層艶めいた声を響かせた。僅かに遅れて、俺の手の中にドロリと生温かい何かが放たれる。ボディーソープと混ざってなければ舐められるんだけどな。俺は風呂の湯で狛枝の体と自分の手を洗い流す。狛枝はというと、はぁはぁと息を切らせながら、床にペタリと座り込んでしまった。
「…狛枝?」
「ひ、日向…クゥン」
「ほら、まだ残ってるだろ? ここはまた汚れちまったし、後ろだってまだだ。それから足もな」
お前がいけないんだ。小首を傾げて、「日向クンが洗って?」なんて言うから。あんなこと言われて平常心を保っていられるほど、俺は紳士じゃない。話し掛けられた狛枝は赤い顔で俺を見上げた。りんごのような美味しそうな頬の色だ。ああ、食べちまいたい。
「あ、…あら、う…? ま、まだ…終わり、じゃない?」
「そうだよ、狛枝。きれいきれいしないとな。お前は何もしなくて良いぞ。俺が全部洗ってやるから。…どこから洗ってほしい? 言ってみろよ」
狛枝は困惑しているのか、すぐに言葉が出てこないようだ。俺は狛枝に視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。うるうると濡れた灰色の瞳が俺に真っ直ぐ向けられる。
「ボ、ボク…、あ、…あぁ、ひな、たクン…」
「…決められないか。じゃあ、俺が決めるぞ? 前と後ろ、両方にしよう。な!」
「あっ、りょ、うほう…?」
座っている狛枝に口付けながら、俺はその美しく白い脚を開かせる。ピクンピクンと未だに痙攣している男の象徴とその下に見える淫猥な秘密の入り口。俺はくすんだピンク色の穴にピタピタと大きく硬くなった本能の照準を合わせた。
「行くぞ……」
「っ!? あ、ぁあああッ、あひぃぃ…! ひぃんッ、あっんぅううッ、んふっ、あ、ひぁたクンの、が…」
流し切れていなかったボディーソープの滑りを利用して、中へと押し入る。狛枝の奥深くまで熱を収めて、俺はふぅと一息ついた。相変わらず締まりが良い。柔らかくしっとりと俺を咥え込んで、絶対に離さないのだ。ガクガクと体を震わせている、腕の中の狛枝。湯に濡れているからか、白い肌がつやつやと妖しい光を反射している。
「動くからな、狛枝。…それと、前も触るぞ」
「…ひゃううッ、あっ、うはぁああんッ、あ…! やらぁ…、ひもひぃ、ンッ、はぁう…ッ!」
「はぁ…あ…、狛枝…。分かるか? 俺ので、お前の中を洗ってるんだよ…」
綺麗な狛枝を、俺の手で更に綺麗にする。そう考えるのって、何か良いよな? 奥をズクズクと突き上げながら、手で狛枝の股間をゆるゆると触る。ああ、硬くなってきた。狛枝は喘ぎ声を漏らしながら、焦点の合わない目で俺をぼんやりと見つめた。
「あっアッあぁッアああッ、ひなたクンので、ボクっ、きれいに、…あ、んぁふっ、いっイっ、あんッ」
「いい、ぞっ、狛枝…! ……あ、バカ。…んなに、締めたら…洗えない……っく、」
「……んひぃ…、やっあぁっ、日向クン、イくぅ…またよごれちゃう…! 前っ、やらぁ、後ろもやらぁ……あっあっあぁあああッ!!」
ビクンッと狛枝は大きく体を揺らし、勢いよく欲望を解放した。俺はぎゅううと締めつける狭苦しい穴から、死に物狂いでそれを引き抜き、狛枝の腹に思いっ切り白濁を散らした。ああ、また洗わなきゃな。ぜぇぜぇと肩で息を吐く狛枝と視線が合った。
「また、汚れちまったな。…洗おうか、狛枝」
嫌々と首を振る彼に俺は微笑みかける。そして狛枝の腹にドロリと纏わりつく汚れを流すために、湯を掛けるのだった。

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35.現実の話 : 6/22
「今日のはな、花村にレシピ教えてもらったんだ」
「へぇ。それは楽しみだね!」
煮物が入っていた鍋を水に浸けているボクに、日向クンはウキウキとした表情で話し掛けてくる。相当ご満悦のようだ。確かに今日の日向クンは気合いが入ってたな。ボクを気にしながらも煮物の鍋から離れなかったし、味見の時も眉間に皺寄せてずっと真剣な表情だった。いつもは男らしく豪快に調理するから、何となく珍しいなって思ってたんだ。
使った菜箸やおたまをシンクに置きながら、日向クンはボクの頬にちゅっと触れるだけのキスをする。
「狛枝、すごく手際良くなったよな。俺が見てなくても完璧じゃないか」
「……えへへ」
日向クンはそう言って、お椀に入ったお味噌汁を指差した。手放しに褒められて嬉しくなったボクは、思わず照れ笑いしてしまった。料理、苦手だったんだけどね。日向クンが食べる時のことを考えながら作ってると、何だか楽しくなってくるんだ。不思議だよねぇ。最初は失敗続きだったけど、何度も挑戦してたら、段々とコツを掴んできて。今回は引っ掛かることなく、スムーズにお味噌汁を作れた。
粗方片付けてから、2人でダイニングテーブルの上にお皿を並べる。今日のメニューは鶏肉と根野菜の煮物、ほうれん草のおひたし、冷奴、お揚げとわかめのお味噌汁、ご飯。日向クン好みの和風だ。ちなみにボクの好きな洋風と代わりばんこという暗黙の了解がある。
「「いただきます」」
テーブルに向かい合って、2人で食前のあいさつ。ボクは早速日向クンが作った煮物に箸をのばした。まずはゴボウとインゲン。
「あ……、おいしい…!」
「ホントか!?」
弾んだ声で返されて、ボクはこくこくと頷いた。箸を休めることなく、今度は鶏肉を口の中へと入れる。うん。柔らかいのに歯ごたえがあるし、味もとても繊細だ。
「うん。何だろう、味に深みがあるっていうか…。ふふふ、どんどん食べられるよ!」
「良かった。これな、隠し味に酒盗使ってるんだ」
「しゅとう?」
「…あぁ、酒盗ってのはカツオの内臓の塩辛のことだ」
日向クンはボクの作ったお味噌汁を啜って、「うん、美味い!」と微笑んだ。うわぁ、ボクが作ったお味噌汁飲んでくれてる…! お味噌汁以外のメニューも作れるようになれば、日向クンの笑顔がもっと見れるんだよね? 次は何に挑戦しようかな。ちょっと凝った物も作ってみたい。まぁ、何を作っても今みたいに「美味い」って笑ってくれるんだろうけど。
「冷奴には意外とめんつゆが合うらしいぞ」
「それも花村クンが言ってたんだね。…あれ、ショウガなかったっけ?」
「…忘れてた。ちょっと擦ってくる」
何気ない会話。何気ない日常。このままボクは幸せな未来に向かって、日向クンと一緒に歩いていくんだね。当たり前のことがすごく幸せ。心がぽかぽかと暖かくて、自然と頬が緩んでしまうような甘い甘い時間。

あまりに幸せ過ぎて、ボクは忘れていたんだ。
―――『現実に打ちひしがれた狛枝っちが、恋人に別れを告げるってインスピレーションだな!』
あんな言葉は、既に記憶の彼方に消え去っていた。


……
………

2人で過ごすいつもの週末。外は曇り。湿度が高めなのか、室内に漂う空気は少しむしっとする。
「んん……、こまえ、だ…?」
「…おはよう、日向クン」
「ん。おはよう…。…今、…何時、だ?」
ゴロンとこっちに向かって寝返りを打った日向クンは、目を閉じたままボクに抱き着いてくる。それをよしよしと撫でながら、「9時を過ぎた所かな」と教えてあげると、彼は「寝過ぎた…」と口の中でぼやいた。うーん、十分早いと思うけどね。ボクは朝が弱いから気付けば昼まで寝てたりするんだけど、朝型な日向クンは休みの日でも7時とか8時に起きる。
「もうそろそろ、起きるかい?」
「そうだな。起きるか…」
鬱蒼と体を起こす日向クン。薄暗がりでも分かる彼の男らしく逞しい体つき。ああ、キミの体は本当に綺麗。でもその背中には昨夜ボクが引っ掻いてしまった爪痕があった。ごめん、痛かったよね。心の中でそっと謝ってから、ボクもベッドを抜け出した。
さて今日は何をしよう。そんなに暑くないから外に出かけても良いし、のんびりとアパートで過ごすのも良い。朝食を食べながら、2人でああでもないこうでもないと他愛もない話をする。そんな平凡な1日のはず…だった。

ピンポーン♪

食後の後片付けも終わり、ソファに座ってイチャイチャ日向クンとくっついている時だった。インターフォンが鳴り響いて、ボクは顔を上げる。日向クンの方をチラリと見やると、彼は無視を決め込むつもりか、黙ったままボクの手をきゅっきゅと握っている。
「ねぇ、日向クン…。誰か来たみたいだよ?」
「良いよ、出なくて。どうせ新聞の勧誘か何かだろ。折角、お前と一緒にいるのに…」
ブツブツと小声で文句を言いながら、日向クンはボクの肩を抱いた。日向クンに甘えるのは気持ちが良い。誰にも邪魔されたくない。本当は良くないけど、居留守したいよね。ボクはうっとりと彼に寄り添う。新聞屋さん帰っちゃったかな? 再び訪れる安寧に心を和ませていると、しばらくしてまた『ピンポーン♪』とアパート内に音が鳴り響く。
「………」
「日向クン、1回出てちゃんと帰ってもらった方が良いかもよ?」
日向クンにボクが話し掛けている間も、しつこくインターフォンが連打されている。居留守バレてるんじゃないかな? ピクピクと頬を引き攣らせていた日向クンはとうとう折れたのか、「ちょっと出てくるな」と言い残して、ソファから立ち上がる。またすぐに戻ってくるよね? 廊下を歩いていく足音と玄関を開錠する音を聞きながら、ボクはソファに転がった。
「―――っ、―――、」
「…―――?」
「うるさい、帰れよ! お前の顔なんて、見たくないんだっ」
遠くから聞こえる日向クンの声が、段々と棘を帯びた口調になってきて、ボクは首を傾げながらも起き上がる。何だか様子が変だ。もしかして変質者とかかな? だとしたら日向クンが危ない。いつでも警察に連絡が出来るようにケータイを準備しながら、ボクはそろりと廊下に続くドアの隙間から顔を覗かせた。
「……?」
後ろ姿の日向クン。そして向かい合うように立っている誰かがいる。もう夏も目前に迫っているというのに、長袖の黒いスーツを身に纏っていた。腰を越すほどの長い艶のある黒髪。顔は日向クンに被ってて見えなかったけど、どう見ても新聞屋さんじゃない。誰なんだろう? じっと様子を窺っていると、日向クンが普段の穏やかさからは予想もつかないほど激しく声を荒げた。
「あの人達が何て言ったか知らないけど、もう2度と来るな!」
「あなたが一方的に家を出て行っただけで、こっちは何も変わってないんですよ。…彼女も、あなたの帰りを待ってます」
「だからっ! 俺はそんな気はないって何度も言ってるだろ!!」
「…その根拠が分からないですね。すごく素敵な方なのに……。おや、彼は…?」
「あっ……、」
訪ねてきたであろうその人物は体を傾け、日向クン越しにボクに視線を向ける。その顔貌を目に留めたボクは驚きを隠せなかった。彼は日向クンと瓜二つな顔をしていたのだ。でも雰囲気は全然似てない。喜怒哀楽の激しい日向クンとは反対に、その人から感情というものが一切感じられなかった。心臓が凍りつくほど不気味で無表情。真紅の瞳が茫洋とボクを見ている。
「あいつは、俺の……っ」
「…初めまして。ボクは日向クンの同僚で、狛枝と言います」
言い淀む日向クンを遮るようにして、ボクは廊下へと進み出る。どうやら2人の間には複雑な事情があるようだ。部外者であるボクは退散した方が良いだろう。そう思って、玄関まで歩いていく。
「日向クン、ごめんね。長居してしまったみたいで。ボク帰るから…」
「ダ、ダメだ!! 狛枝、…行かないで、くれ」
弱々しい声と共に、靴を履こうとするボクの服の裾を日向クンが掴む。カタカタと右手が震えていた。日向クン…?
「僕は創の弟で、神座 出流と申します。今日は彼から話を聞くために来ました。狛枝さん、でしたか。お客様とは分かっていますが、帰って頂けるのはありがたいですね」
「…俺はお前に話なんてない。早く、帰れ…」
「納得の出来る返答を貰わないと、僕も帰れないんですよ」
溜息混じりに神座クンは腕を組んだ。日向クンが服を掴んだまま離さないから、ボクは立ち往生している。玄関スペースには何とも居心地の悪い空気が流れていた。


「日向クン、ボク…コーヒー淹れてこようか?」
「お前は動かなくて良い。黙って座ってろ」
日向クンは神座クンを家に上げ、リビングへと通した。そしてボクが帰るのを許さず、自分の隣に座るように促した。ローテーブル越しに睨み合う2人を、ボクはハラハラしながら見守る。それにしても本当に顔が同じだ。弟がいるとは聞いてたけど、まさか双子だったとは…。神座クンの顔をさり気なく見ていると、ボクの視線を受けた彼は静かに唇を動かした。
「創、彼とはどういう関係ですか?」
「さっきも言ったように、ボクと彼は同じ高校で教師をしていて…」
「あなたには聞いてません。僕は創に聞いているのです」
抑制のない声なのにも関わらず、威圧感があった。ボクは思わず口を噤む。俯いてしまったボクを見て、日向クンは火のように怒った。
「そんな口の聞き方するな、出流!」
「早く答えて下さい」
「俺は…、……狛枝と…」
日向クンはそこで言葉を切ると、テーブルの下でボクの手をぎゅっと握った。ビックリして日向クンの方を見ると、彼は苦しそうな表情で唇だけを動かして何かを言った。え…。今、「ごめん」って言ったの? 日向クンはすっと大きく深呼吸をする。そして真っ直ぐに神座クンを見据えた。
「俺は狛枝と付き合ってる。…恋人同士なんだ。だから、親父に言っといてくれ。婚約は破棄だって…」
日向クンは淀みない力強い言葉で言った。大した言葉数でもないのに、衝撃的な単語が含まれていて、ボクはパニックになる。ボクと恋人同士だということ。そして…、日向クンには婚約者がいたってこと。
「なるほど。揃いの携帯ストラップを見た時に引っ掛かったのは気の所為じゃなかった。客であるにも関わらず、コーヒーの準備をしようとする挙動にも理由があったんですね」
神座クンは黒髪をさらりと揺らしながら、考え込むように目を静かに閉じた。
「失礼ですが、あなたは…男性、ですよね?」
「狛枝に勝手に話しかけるなよ!」
顔を真っ赤にして怒鳴り散らす日向クンを神座クンは歯牙にも掛けない。調子を崩すことなく、静かに言葉を紡ぎ続ける。
「……創、本気なんですか?」
「本気だぞ。嘘だと思うなら、俺が狛枝を抱いている所…見ていくか?」
地を這うような日向クンの声にぞっとする。彼の歪んで薄汚れた狂気が、内側から垣間見えた気がした。
「結構です。遊びであるなら全く構わないと思いますよ。だけど、同性同士で愛を誓うなんて…、正気の沙汰じゃありません。それに…、気持ち悪い」
吐き捨てられた最後の一言に、ボクはビクッと反応する。気持ち悪い。きもちわるい。キモチワルイ。そうだよね…。ゴミムシであるボクなんかが日向クンと恋人だなんて、許されるはずがないんだ。
「おい、狛枝、…狛枝! こいつの言うことなんて聞かなくて良いからな」
「う……うん。分かってる、よ」
肩を揺さぶられ、太陽の瞳にボクは平常心を取り戻す。同性同士で付き合うことが茨の道だってことは、百も承知だ。それでもボクは日向クンを好きで、愛している。彼の傍にいたい。2人でささやかな幸せを見つけて、一緒に育んでいきたい。そう願っていた。だけど神座クンの言葉は鮮やかにボクの胸を刺し抜く。
「分かってるんですよね? 同性同士の苦痛を。ままごと遊びの内に別れることを僕は薦めます」
「俺は狛枝と別れるつもりはない。死ぬまで一緒にいる」
「あなたに彼は相応しくありません。彼にもあなたは相応しくありません。互いを想い合うなら、相手の身に合った幸せを与えるべきです」
日向クンを想うなら、彼のために幸せを…。神座クンの言葉が頭の中でぐるぐる回る。ボクといて、キミは本当に幸せなの? 今までずっとそうだと信じてきたけど、これはボクの驕りなのかな。考えに耽るボクを余所に、2人の舌戦は尚も続く。
「口出しするな。大体、お前には関係ないだろ! 俺が誰と付き合おうが、」
「ありますよ。両親が離婚したとはいえ、血を分けた兄弟なんですよ? 兄が同性と付き合っているなんていう愚かな話を聞いて、止めない家族がいますか? マトモな人生を歩めるように正すのも家族の思いやりです」
「マトモな人生…? 俺は世間に認められたいなんて思ってないぞ。苦しくても辛くても、狛枝が傍にいてくれるだけで幸せなんだからな!」
「あなた達の友人は? 誰も止めてくれなかったんですか? …可哀想に。きっと表では歓迎していても、陰であなた達のことを馬鹿にして笑っているんでしょうね。気が狂ってるとしか思えませんから」
「あいつらはそんなことしない! そうだよな、狛枝!」
「………」
話を振られて、すぐに肯定出来なかった。ボクらが付き合ってるって左右田クン達に気付かれた時は、それはもう大混乱だったから。花村クンが興味本位で聞いて来たのを、日向クンが誤魔化せずに認めちゃって、その場にいた左右田クンが悲鳴を上げて、比較的冷静な九頭龍クンがそれを抑えた。多分これは同性愛に対する一般的な反応なんだろう。
「こ、狛枝…?」
「狛枝さん。あなたの容姿は整っていますから、女性に苦労はしないでしょう。わざわざ、創を選ぶ必要なんてないんですよ?」
「……ボクは日向クンじゃなきゃ…、嫌だよ…。キミは頭がおかしいって思うかもしれないけど、ボクは日向クンを心の底から愛している。ボクには、彼が必要なんだ」
「狛枝…!!」
喜びに満ちた声が日向クンから零れた。左隣の彼に微笑んで、ボクは頷く。大好き、日向クン。彼から愛しさの籠った眼差しを返されて、繋ぐ手に更に力が籠った。見つめ合うボクらを怪訝そうに見ていた神座クンは、はぁと溜息を吐く。
「賢く聡明なあなたになら、理解して頂けると信じていましたが、とても残念です。あなた達の言い分は伝わりました。ですが、僕にはやっぱり理解出来ません。…最後に、1つだけ聞かせて下さい」
冷えた炎のような赤い瞳がボクに向けられる。でもボクは負けない。恐怖を感じるけど、それを抑えて、神座クンの視線を受け止めた。無表情のまま彼は口を開く。
「あなたは…日向 創とこれから先一緒にいて、彼を幸せに出来ますか?」
「え………っ」
「世間から誹謗中傷を受けながら、友人に蔑まされ陰口を叩かれながら、たった2人で生きていくことが出来ますか? それは本当に創にとって幸せなんでしょうか…。年を重ねても結婚せず、子供もいない男2人は、周囲にはどう映るでしょうか? ハッキリ言って異常です。僕にはそれが幸せとはとても思えない」
正論を叩きつけられ、ボクは絶句した。客観的に見たら、ボクと日向クンはそう映るんだ。周りの目は気にしない。日向クンが一緒なら大丈夫。自分に言い聞かせてきたけど、それは本心なのだろうか。日向クンはそれで良いの?
「ボクは、日向クンを…。………、ぅ」
「俺は幸せだぞ、狛枝! お前と一緒に未来を創るんだ。俺はお前以外、他には何もいらない!」
言葉に詰まるボクを元気づけようと、必死に日向クンが声を掛けてくれる。分かってる。キミがボクを愛してくれてること、痛いほど知ってるよ。でも、でも…。
「もう1度聞きます。あなたは創を幸せに出来るんですか?」
「………っ、それ、は…」
「答えられないんですか? ………。だったら…解放してあげて下さい、創のことを」
それだけ言うと、神座クンは音もなく立ち上がった。流れるような動きで、漆黒がリビングから姿を消す。しばらくして玄関先でガチャンとドアが閉まる音が聞こえた。日向クンを、解放する…。呆然とするボクに日向クンが一心に呼び掛けているが、その声はぼんやりとしていた。

ボクはキミを幸せに出来るんでしょうか? 優しいキミを愛する資格があるんでしょうか?
その問いにボクはとうとう答えを出すことが出来なかった。

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36.幸せの話 : 6/28
「狛枝、…おい! しっかりしろ!!」
「……ひなた、クン」
狛枝の頬をぺチペチと軽く叩くと、彼は漸く俺の方を見てくれた。水晶のように透明で美しい瞳がどんよりと濁った色をしている。絶望に苛まれた灰色のそれが痛々しくて、俺は思わず狛枝を抱き締めた。まるで壊れた人形のようだった。力の入らない体がぐったりと俺に倒れ掛かってくる。
「狛枝…、狛枝…」
狛枝はピクリとも動かない。少し冷たい彼の手を握りながら、俺は何度も呼び掛ける。出流との話し合いに立ち合わせなければ、狛枝もショックを受けることはなかったんだ。出流が怖いからというエゴで、狛枝を帰さなかった。俺は、バカだ…。華奢な背中を抱きながら、俺は深く後悔した。しばらく狛枝の背中を撫でていたけど、やがて彼の柔らかい髪の毛がふわりと揺れた。
「彼…、帰ったの?」
「出流か? ああ、とっくに帰った! ごめんな、狛枝。辛い思いさせて、すまなかった…」
「…うん」
狛枝は恐る恐るといったように、俺の胸元を軽く掴んだ。そしてまた微動だにしなくなった。出流に色々と言われたけど、俺の心に迷いはない。ずっとこの先も狛枝と生きていこうって決めたんだ。ここは2人だけの世界じゃない。出流の言うように理不尽なことだってあるし、苦悩だってあるはずだ。だけど大丈夫。俺は狛枝さえ、いてくれれば…。
「狛枝……?」
「……キミって、婚約、…してたんだ」
「出流との話でも言ったけど、俺はそいつと結婚なんてする気ないから。親が勝手に決めたってだけだ。だから狛枝は何も心配しなくても良い」
「………」
体をゆっくりと離した狛枝の表情は、死人のように虚ろいでいた。カサついた唇が戦慄きの後、か細い声を発する。
「日向クン。今日はボク、帰るね…」
「!? 何でだよっ、まだ昼前だぞ?」
「…色々と、考えたいんだ」
狛枝は床に手を突き、よろりと立ち上がる。長い前髪の所為で表情が良く見えなかったが、このまま帰すのは不味いと直感が告げる。だが引き止めようと手を伸ばすも間に合わない。考えたいって、もしかして迷ってるのか? 俺とずっと一緒にいてくれるんじゃなかったのかよ。立ち上がった狛枝のふくらはぎに俺は縋った。
「い、…出流のことなんて、忘れれば良いだろ?」
「忘れろだって? 日向クン、そんな簡単に言っちゃうんだ…」
はぁと気だるげに息を吐いた狛枝は、気落ちした顔で俺を見下げてきた。別に簡単に言ってる訳じゃない。出流に関しては言葉を真に受けたらいけないって本能で分かってるだけだ。あいつは人の感情をコミュニケーションの一環としてではなく、学問として理解している。さっきの会話だってそうだ。俺が落ちないと分かると、すぐに狛枝に矛先を向けた。相手の心を確実に揺さぶる定石でもって、じわじわと追い詰めていったんだ。
「彼の言うことは、最初から最後まで正しかったよ。反論の隙もなかった。今までそこから目を背けて、日向クンばかり見てたボクがいけないんだ。現実から、目を逸らしちゃダメなんだよ」
「おい…。こま、」
「日向クン、ボクに時間をくれるかな。今はどうやっても答えが見つからないよ…」
「こま、え…」
「ボクは…、キミを、幸せにすることが出来ない…っ!」
軽く足を動かして、狛枝は俺の手を振り払う。灰色の瞳が悲しげに歪み、そして苦悩するように閉じられた。「バイバイ」と呟いた彼はソファの上にあったバッグを手に取り、リビングから出て行く。廊下の向こうへと小さくなっていく狛枝の背中。待って、行かないでくれ、狛枝…! 張り裂けんばかりの痛みを胸が訴えつつ、唇は言葉にならない吐息を吐き出すだけ。俺は玄関の閉まる音が聞こえるまで、ただ呆然とその場に座り込んでいた。


……
………

「………。は…っ」
息を吐いて体の力を抜くも、纏わりつく倦怠感が取れない。集中しようにも出来ない頭、動かしては止まる手、何度も組み替える足。俺はとうとうボールペンを机の上に放り投げた。仕事なんて全然終わってない。詰まれた未処理の書類から逃げるように俺は席を立った。もうどうにでもなってしまえ。試合放棄だ。
授業が終わったばかりで職員室は賑わっている。もちろん狛枝も席にいる。だけど彼は理知的なネフライトをパソコンに向けたまま、こちらを見ようとする素振りさえ見せない。俺は諦めて、職員室を出ることにした。

狛枝が「考えたい」と告げてから、6日ほど経った。1日1日がこんなに長いと感じるなんて、小学生以来だと思う。きっと明日には戻ってきてくれるだろう。先週末はそんな期待を胸に1人寂しく過ごした。あんなに長い間一緒にいたんだ。それこそ離れ離れでいる自分達が想像出来ないくらいに。だけどいくら待っても連絡は来なかった。
次の日も、その次の日もひたすら待った。ふと頭に浮かぶ。俺達、これで終わりなんじゃないかって。出流を前に奮い立たせたあの時の気持ちがどんどん削れてって、小さく弱くなっていく。ダメだ、悪い方に考えたら。何度も頭を振って、にじり寄る絶望を追い払う。だけど狛枝は返事をしてこない。だったら自分から話しかけてみろよってなるけど、今の俺にはそれすら出来なかった。怖いんだ。狛枝と話をして、別れを告げられたらと思うと、気が狂ってしまいそうになる。俺ってこんなに脆かったんだな。あいつが隣にいてくれたから、全然気付かなかった…。
「………」
体育の授業ばかり受け持っていたからだろうか、無意識に体育館の方へと歩いていた。学校の中だとどうしても教師は目立つ。誰にも構われずに1人になれる場所なんてほぼない。それこそトイレくらいだ。部活中なのか賑わってる第1体育館を横目に、下への階段を下りて行く。奥側にある第3体育館の扉をガラッと開くと、そこには誰もいない。何故か1つだけバスケットボールが転がっているだけだ。俺は中へと入ると後ろ手で扉を閉めて、その場にズルズルと座り込んでしまった。
「はぁ……、狛枝…」
名前を呼ぶだけで息が苦しい。今までは何とか耐えてきたけど、もう心も体も限界に近い。狛枝が傍にいるだけで何も怖くなくなる。何でも出来そうな気がするし、何にだってなれそうな気もする。それが今はこのザマだ。何て弱々しくて惨めな男なんだろう、俺は。膝を抱えて、顔を伏せる。スゥと体が沈むような感覚がして、俺は少しの間だけ目を閉じた。


……
………

『ねぇ、いい加減にしてもらえないかな?』
『え…?』
『もう15分も無駄話をしてるよ。キミってそんなに暇なの?』
不機嫌そうに狛枝に顔を顰められて、俺は咄嗟に『ごめん』と謝った。同時にビックリして、相手の顔をマジマジと見てしまう。何故驚いたかというと、彼が敬語を使わずに俺に受け答えしたのが初めてだったからだ。文句を言われたはずなのに、何だか距離が縮まった気がして、俺は自然と顔がニヤけてしまう。
『…何、笑ってるの?』
狛枝は休憩室にあるテーブルにコーヒーの紙コップをコトンと置くと、腕を組んで俺を軽く睨んできた。少し顔が赤い。もしかして照れてるのか? じっと狛枝を見てると灰色の整った形の双眸がさり気なく逸らされる。生徒が噂をするクールビューティーな数学教師のイメージとはかなりかけ離れてるな。意外と可愛い所もあるんだと思いながら、嬉しくなった俺は狛枝に笑顔を向けた。
『今みたいにさ、俺には普通に話してくれないか? 同い年で、同じ高校に通ってたんだし』
そう告げると狛枝はハッとした表情になって、ボソボソと『すみません』と謝ってきた。どうやら無意識だったようだ。今の態度が狛枝の本当の姿。割と言う時は言うんだな。何だか新鮮だ。
『…日向先生。失礼しました…』
モジモジしながら申し訳なさそうに狛枝は頭を下げた。飽くまで俺のことは同僚として見てますって言っているような反応だ。本心を中々見せてくれないし、普通に考えて理解しがたい性格だとは思った。だけどたまに見せる顔がやっぱり俺と同じ年頃の男なんだと感じさせる。狛枝とただの同僚でいたくなかった。もっと狛枝に近付きたい。もっと狛枝を知りたい。俺はこいつと友達になりたいんだ。
『休憩中なんだし、堅苦しくする必要ないと思うぞ』
『ええっと……。なら…、今だけ』
『今だけじゃなくて、俺と2人きりの時は敬語使わないでほしい』
ちょっと強引過ぎたか? 俺の言葉に狛枝は戸惑ったように視線を泳がせる。
『…キミ、もしかしてプライベートでもボクと関わるつもり?』
『あー……、嫌か? 俺はお前ともっと話したいんだけど…』
体を縮ませて、窺うように視線を送ると狛枝は『んんぅううう…』と小さく唸った。唇を噛んでから、俺に上目遣いを送ってくる。その仕草が何とも言えず愛らしくて、俺の心臓は早鐘を打つ。とにかく普段とのギャップがすごすぎた。
『……ボクみたいのに構ってたら、今みたいに時間を無駄にするよ』
『無駄なことないだろ。俺は狛枝と一緒にいて楽しいんだから』
『嘘だ。お世辞なんて言わないでくれ。本当に…ボクなんか、無理に相手にしなくたって良いんだよ?』
『俺、嘘なんて言わないぞ。なぁ、お前は? 俺のこと…今も嫌いか?』
狛枝から放たれるネガティブスパイラルを立ち切るために、ストレートに聞いてみる。邪険にあしらわれていた時もあったけど、最近は逃げられたりはしていない。それに狛枝は俺の時間を無駄にすると言っているだけで、俺が嫌いとは一言も言ってない。一縷の望みを胸にドキドキと狛枝の返答を待つと、桜色の唇が震えながら開いた。
『嫌いじゃ…ない』
『!! …ありがとう、狛枝。そう思ってくれて嬉しい』
『………』
狛枝はメガネのブリッジを中指でスッと上げた。その後もしばらく会話が続いた。敬語を止めた狛枝の口調は少しぎこちなかったけど、段々と緊張が抜けてきたのか饒舌になってきた。彼はたまに見せる薄らとした優しい微笑みに俺はドキッとする。男相手にときめいてどうするんだよと自分で自分にツッコミを入れながら、俺は狛枝と仕事の合間の楽しいひと時を過ごした。


季節は春。昼間の温かさが嘘のように、夜になるとめっきり冷える。肌を撫でる風はひんやりとしていたが、酒で火照った体にはそれが丁度いい。今日は学校で飲み会があった。4月の歓迎会だ。無事にその場は解散となり、みんな各々の帰路についている所だった。そういえば、狛枝は…? 辺りをキョロキョロと見回すと、道端に座り込みそうになっている白髪の男の姿があった。あんまり飲むなって言っておいたのに、目を離した隙にこれだ。俺は急いで狛枝の傍へと駆け寄る。
『おーい、狛枝!』
『んぅ〜……、ううぅ…』
『ほら、立てるか? く…っ』
狛枝に肩を貸してやり、少し歩いた先にある駅前公園のベンチへと座らせた。ずり下がって落ちそうになっているメガネを回収してから、自販機で水を買って、封を切ったそれを狛枝の口元に当ててやる。すると彼は両手でそれを持って、こくりこくりと飲み始めた。
『どうだ? まだ頭くらくらするか?』
『へいき……』
焦点の定まらない視線だったが、ちゃんと水は飲めるようだ。俺はホッとしながら、狛枝の隣に腰掛ける。膝の上と唇を交互に行き来するペットボトル。大人の色気を漂わせている彼の幼い挙動に俺は忍び笑いを零した。狛枝は俺が笑っているのに気付いて、こちらをチラリと見たが特に何も言わない。『辛いなら寄り掛かっても良いぞ』と自分の肩を叩くと、狛枝は黙ってぶんぶんと首を振る。そして再びペットボトルに口をつけた。
1人寂しそうにしている狛枝を構うようにして、少しずつ向こうも懐いてきた。学校だけの関係だったのが、電話やメールをするようになり、休みの日も遊びに行くことが増えた。彼の人柄が明るくなったか?と聞かれればそうではなく、俺以外の教師や生徒にはもちろん一線を引いた態度のままだ。この屈託のない無邪気な笑みは俺だけに見せているんだと思うと、変な満足感があった。
いつだっただろう、狛枝に恋をしていると気付いたのは。気付かない内に視線で追いかけて、ふと見せる彼の様々な表情に一喜一憂している俺がいた。これは友達に対する気持ちじゃない。狛枝は細身だけど、俺と体躯があまり変わらない大人の男だ。そんな彼相手に、俺は本気で惚れていた。おかしい。異常だ。どうかしている。そうは分かっていたものの、この気持ちを否定することなんて出来なかった。綺麗で優しくてカッコいい。それでいて捻くれて天邪鬼な狛枝。もう可愛くて仕方がなかった。内から込み上げてくる愛しさが自然と体を動かし、俺は彼のふわふわの頭を優しく撫でていた。
『そっか。もうしばらくここで休んでいこう。…大丈夫、お前のこと置いてったりしないから』
『っ止めてよ。これ以上ボクに、優しくしないで…』
俺の手をパシッと振り払い、狛枝は俺を見た。顔は酒の酔いで赤らみ、灰色の瞳はうるうると涙目になっている。
『狛枝…?』
『ダメなんだ。怖いよ、日向クン…』
『怖い?』
『……優しくされるの、慣れてなくて。ううん、慣れてない以前に…こんなに誰かに優しくされたのは、キミが初めてだよ』
顔を伏せた狛枝は、言葉を区切りながらたどたどしく吐露する。必死に単語を選んで話しているのが、簡単に見てとれた。
『日向クンに優しくされると、嬉しくて気持ち良くて…すごく暖かい。気付いたんだ。これが幸せなんだって』
『…幸せ?』
『そう、幸せ…。でもね、幸せってそう長くは続かないんだよ。いつか終わりが来るものさ。もし日向クンが遠くに行っちゃって、その幸せを取り上げられたら、ボクは耐えることなんて出来ない…!』
『狛枝……』
何て言ったら良いのか分からず、俺は彼の名前を呟くだけだった。ペットボトルをぎゅっと握ったまま、狛枝は顔を上げようとはしない。…もしかして俺、すごいこと言われてるのか? 衝撃的な告白にポカンとしている俺に気付いていないのか、狛枝は更に言葉を続けた。
『だからもう、優しくしないでよ。このままだとボクは…キミの優しさの中でしか生きられなくなってしまう』
『……良いじゃないか、それで』
『………。日向、クン…』
狛枝は恐る恐るこちらを向いた。切なげに細められた瞳にきゅうっと胸が締め付けられる。これが恋の痛みってやつだろうか。月明かりにキラキラと光を湛える水晶のように美しい瞳、滑らかで色白の肌は酒気を帯びて鮮やかな桃色、桜色の唇は水を飲んでいたからかしっとりと濡れている。ああ、こんなにも愛しい。狛枝が俺の傍にいてくれたら、それだけで生きていけそうな気がする。もう、限界だった。隠し通すには大き過ぎる想い。多少酒は飲んでいたけど、頭はハッキリしていた。だからこれは断じて酔いに任せたものじゃない。
『好きだ、狛枝…。……俺、お前のことが好きなんだ』
『え……?』
『ずっとずっと、優しくするから。…優しくしたいんだ、俺が、狛枝のこと。だから、怖がらないでくれ…』
狛枝の白い手にそっと自分の手を重ねる。ペットボトルに熱を奪われていたのかその手はひんやりと冷たい。彼は驚いたのか固まったままピクリとも動かなかった。ただ瞳をぐるぐると混乱させ、口をパクパクさせているだけだ。やっぱり嫌だよな。いきなり男に告られるなんて、自分だったら良い気はしない。一瞬で頭が冷えた。
『ごめん、狛枝。今の忘れてくれるか? ……その、お前にはもう近付かないから』
『…っ待ってよ、日向クン!』
離しかけた手を狛枝に掴まれた。その弾みでペットボトルは地面に落ち、パシャンと零れた水がじわじわと水たまりを広げる。
『本当なの? …ううん。キミが嘘を吐かないなんて、ボクが1番良く分かってる』
『…狛枝が、好きだよ。もちろん友達に対する気持ちとは違う』
『………。ねぇ、日向クン。その先は…言ってくれないの?』
狛枝は俺の手を掴んだまま、体を俺の方へと密着させる。間近に迫ってきた美しい面立ちに俺は呼吸を忘れそうになった。狛枝の生温かい吐息が感じられるくらい近い。とろんとした瞳は不思議な妖しさを秘めていて、俺は目を逸らすことが出来ない。
『聞かせて…。キミの口から聞きたいんだ。お願いだよ…、日向クン』
『……狛枝。どうしようもないくらい、お前が好きだ。だから、俺と…付き合ってくれ……っ!』
『うん…。うん…!』
狛枝は掴んだ手を痛いくらい強く握る。そして綺麗に笑った。下がった目尻から透明な雫がツッと落ちていく。
ざっと一陣の風が吹いた。柔らかい狛枝の髪がゆらゆらと形を変える。春の夜、ある公園の片隅のベンチで、俺と狛枝は恋人同士になった。


……
………

「ふぁ、こまえだ……っ? …あ、」
ハッと目を覚ますとそこは体育館だった。どうやら寝てしまっていたらしい。あんなに明るかった外の景色が、今では真っ黒に塗り潰されている。慌てて腕時計を確認すると、何と8時を越えていた。俺は一体何時間寝てたんだ?
帰ろうと立ち上がると、ポケットの中でケータイが震えたような気がした。探ってみるとそれはやっぱり着信を告げている。ディスプレイに表示されている名前を見て、俺は「あっ」と口の中で声を上げた。

『着信:狛枝 凪斗』

「っ!? …狛枝」
もしかして心配して掛けてくれたのだろうか? 鞄は職員室に置きっぱなしだったから、俺がまだ学校にいるのは知っていてもおかしくはない。電話は鳴り止む気配がしない。狛枝が俺に電話を掛けている。その事実にゴクリと生唾を飲み込みながら俺はゆっくりと電話に出た。
「もしもし、」
『日向クンっ? どこにいるの?』
久しぶりに聞く恋人の声に俺は安堵感で脱力してしまう。ケータイを持ってる指先にも力が入らなくて、危うく落としそうになった。
「まだ学校にいるよ。第3体育館。狛枝はもう帰ったんだろ?」
『……職員室』
「職員室って…、まさか」
『今からそっちに行くから。日向クンは動かないで…』
「ちょっ…、…狛枝!? ……切れた」
ツー、ツー、ツーと受話器の向こうから不通音が聞こえている。あんなに狛枝が慌ててるなんて珍しい。動かないでと言われたし、この場に留まることにした。何か話があるんだろうか。もしかしたら別れ話かもしれない。俺は焦燥に駆られ、頭を掻き毟った。もし別れてくれって狛枝に言われたら…。先週アパートに来た出流の言葉を思い出す。

―――『互いを想い合うなら、相手の身に合った幸せを与えるべきです』

狛枝のために別れて、別々の道を歩めと彼は言った。狛枝はそれを正論だと肯定した。じゃあ、俺は…? 俺はどうなんだ? 狛枝のために別れを選ぶ? ……そんなこと、する訳ない!! 狛枝の幸せは狛枝が決める。あいつは俺といて幸せだって言ってくれたんだ。そうだよ…、何でこんな簡単なことが分からなかったんだ。俺の幸せは俺が決める。俺は狛枝と一緒にいることが幸せだ。それを分からず屋の数学教師に伝えてやるんだ。
両開きの扉の向こうからタンタンと軽い足音がする。来た…。ガラガラと勢いよく扉が開いた先には、案の定息を切らせた狛枝が立っていた。
「狛枝!」
「日向…クン!」
革靴をポイポイと脱ぎ捨て、狛枝は足早に俺の元へとやってきた。まだ息は整っていないらしい。膝に左手を置いて浅く呼吸をしながら、彼は俺のジャージの胸元を反対の手でぎゅっと握った。
「ビックリさせないでよ…っ。キミに何かあったんじゃ、ないかって、はぁっ…ボク…心配したんだよ!?」
「…すまない。心配掛けて、」
言葉を交わしながら強く感じる。やっぱり俺は狛枝がいなきゃダメだ。胸元にある狛枝の手を両手で握る。
「っ…!?」
「好きだ。……好きだ好きだ好きだ。愛してる。絶対に別れたくない。俺は…、狛枝がいないと生きていけない。お前が隣にいて、初めて俺は幸せを感じることが出来るんだ。それ以外の道なんて、幸せでも何でもない。だから、」
「日向クン…、落ち着いて。ボクはキミと別れるつもりはないよ」
「………へ?」
狛枝は俺の両手を持ち上げ、その手の甲にキスを落とした。ちゅっちゅと何回も。俺は狛枝が何を言ってるのか分からず、呆然とする。
「あれからね、散々考えたんだよ。日向クンを幸せにする方法。神座クンが言ってることは一理あるし、キミはボクと出会わなければきっと違った人生を歩んでいた」
「それは違うぞ…!」
「うん、分かってる。日向クンの考えはさっき聞いたからね。悩んで悩んで、頭が痛くなるくらい悩んだんだ。…そしたらさ、キミを幸せにする方法を思いつく前に、ボクがダメになっちゃった」
「…狛枝」
「毎日毎日辛くて、1人ぼっちで寂しかった。どこにも幸せなんてなかった。ボクの人生から日向クンがなくなったら、何も残らないんだって思い知らされた…」
俺の手を愛おしげに頬擦りしながら、狛枝は悲しそうに微笑んだ。体育館は蛍光灯が皓々と灯っていて、狛枝の肌の白さを一層際立たせている。綺麗だ…。俺はそっと体を寄せて、狛枝を腕の中へと収めた。
「日向クンの匂いだぁ…。うん、…やっぱりボクはキミから離れられないよ」
「俺もだ。もうお前の傍でしか生きられない。…愛してる、狛枝。必ず俺がお前を幸せにする」
「ふふっ…。幸せにしてね。ボクもキミを幸せにしてあげる。日向クン、愛してるよ…」
顔を傾け、近付けた。ふんわりとした柔らかい桜色の唇にキスを落として、2人で微笑み合う。1人じゃダメでも、2人なら大丈夫。狛枝と一緒だったら、希望溢れる未来に辿り着ける。2人で幸せになろうな。そんな想いを込めて、俺はもう1度狛枝に口付けた。

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