// M→F //

05. 日向クンの心臓、ドキドキいってる。
ジャバウォック島の朝は、湿気が少なくカラリとしていて気持ちいい。ウサミのアナウンスが鳴る前に目を覚ました俺は、体を起こしてベッドを下りた。傍にある小さなテーブルの上には狛枝に薦められた本が何冊か置かれている。てっきり推理物ばかり好むと思っていたが、狛枝の読んでいるジャンルは多彩のようで薦められた物には科学や歴史、哲学、宗教なんかもあった。中には難しくて途中で読むのを諦めた本もある。きっとこんなのはほんの一部で狛枝はもっとたくさんの本を読んでいるんだろう。「読書は割と好きだよ」と言ってた意味が今更ながら身に染みる。彼は読書を趣味にせざるを得なかったのだ。安全だと保障されなければ迂闊な行動は出来ない。才能に阻まれ、自由を奪われた彼をとても憐れに思った。
シャワールームについている洗面台で顔を洗い、身支度を整える。良い感じに空腹だし、早くレストランに行こう。コテージのドアを勢いよく開けると、朝の爽やかな空気とサンサンと降り注ぐ暖かな太陽の熱が俺の体を刺激する。空を見上げるとキラリとした陽光に目が眩んだ。
「あっ。おはよう、日向クン。希望に満ち溢れた素晴らしい朝だね」
「狛枝! ああ、おはよ。……っ!」
レストランに向かおうとした所で、後ろから狛枝に声を掛けられた。どうやら俺と同じタイミングだったらしい。小首を傾げながらにこやかに挨拶をしてくる彼に、反射的に俺も同じように言葉を返す。ただでさえ彫刻のように整った顔立ちなのに、更に微笑まれると何だかもう胸が苦しくてやりきれなくなってしまう。やっぱり狛枝は可愛い…。何だか相手の顔を見るのが恥ずかしくなって、俺は視線を下に向ける。…しかしそれが間違いだった。
狛枝の白いTシャツの輪郭は滑らかに歪んでいた。布越しでもその質感が柔らかそうなのが分かる。いや実際、柔らかかったんだよな。触ったのは断じて俺の意思ではなく、不可抗力だった訳だが。どんな感触だったか今でも鮮明に覚えてたりする。
「………」
「………日向クンって、ボクと会うといつも胸見るよね。そんなに気になる?」
「えっ!?」
呆れているようで少し甘さを含んだ狛枝の声に、俺は上擦ったような変な声が出てしまった。気付かれた…? 内心冷や汗を掻きながらそろそろと顔を上げると、気だるげな表情をした狛枝とバッチリ目が合う。クスッと小馬鹿にしたように笑われて、俺はあたふたと身振り手振りで否定した。
「誤解だ! 今のはっ、ちょっと俯いたら視界に入ったってだけで…」
「あははっ、そんなに頑なにならなくてもいいよ。『いつも』って言ったでしょ? 結構分かるんだよ、見られてる側としてはね」
「な、な、な…っ!」
「気持ちは分かるよ。ボクも男だからさ。女性の胸って何でか分からないけど自然と見てしまうよね。でも日向クンのはちょっと露骨かな。今度から気を付けた方が良いかもね」
苦笑いを浮かべながらプールサイドを歩く狛枝に、俺も遅れてその後に続く。恥ずかし過ぎる…、バレていたなんて。俺、そんなに狛枝の胸見てたか? 全然意識してなかった…。狛枝を外で見掛けるとついつい目で追ってしまうのは自分でも分かってたけど、胸限定で注目したりした覚えはない。ああ、でも…。朝起きて男に戻ってるんじゃないかって思った時に、狛枝の男女の指標として見てたのは間違いなく胸だ。中性的で綺麗なルックスをしている狛枝は、パッと見だと男か女かの判別が付きにくいのだ。だからと言って胸を見て良い理由にはならないが。…女の子の胸ばっかり見てる俺って、ただの変態みたいだな。
「ごめんな、狛枝。その、…嫌な気分にさせたのなら謝る。俺が悪かった…」
「日向クン、そんなに落ち込まないで。ボクは別に怒ってないよ。他の女の子と話す時は注意してねってだけでさ! ボクのは全然見てもらって構わないんだ」
足を止めてしまった俺に、狛枝は振り向いて のほほんと軽く手を振った。全然構わないって…。うーん、そういうもんなのか? もしかしたら俺に気を遣って、そう言ってくれてるのかもしれないな。こいつは基本的に優しい奴だから。
「ボクのことなんて、気にしなくて良いんだよ。……何なら、触ってみる? 他の人は嫌だけど、日向クンなら触られてもいいかな」
「こ、狛枝…?」
妖艶に微笑んだ狛枝がこちらに一歩踏み出してきて、俺は思わずギクリとした。希望と絶望が渦巻いたような狛枝の灰色の瞳は恐ろしいのに何故か目を離せない。咄嗟に後ずさるも背後にはフェンスがあって、これ以上逃げられなかった。まるで獰猛な肉食獣に睨まれたような感覚だ。ガクガクと膝が笑い、崩れ落ちそうな体を支えるために俺は後ろ手にフェンスを掴む。唇を吊り上げ、不敵な笑みを浮かべた狛枝は目前に迫ってきてる。もう足の爪先が触れ合うくらいの距離だ。狛枝は微笑みを浮かべ、ツッと俺の胸に白くほっそりとした指を滑らせた。
「……ひっ」
触れられた瞬間、口から声が漏れてしまった。逃げなきゃダメだ。そう思っても金縛りにでも遭ったかのように体が動かない。狛枝は俺の反応を楽しむように、厭らしい手付きで俺の体を撫で回す。やがてピタリと止まったその手は、俺の心臓の音を確かめるように胸に押し当てられた。
「すごい……! 日向クンの心臓、ドキドキいってる。…これってボクが触ってるから?」
「あ……、っ……」
背筋がゾクゾクするような吐息混じりの囁きに、俺は引き攣ったような声しか出せない。何だろう、この感覚。さっきまで感じていた恐ろしさが掻き消えて、頭の中が真っ白になっていく。全身が燃えるように熱くて、思考回路が焼き切れる。狛枝は空いてる手で背中側にある俺の右手を取ると、きゅっと握り締めた。少し冷たいと感じるのは、俺の熱が上がってるからだろうか。見つめ合っている灰色の瞳の狂気は影を潜め、夢見心地にとろんとしている。もう、狛枝しか見えない。
「…ボクのも、確かめてみる? キミの心音とどっちが速いかな…」
僅かに口角を上げた悪戯っぽい表情。小さく呟いた狛枝はペロリと舌舐めずりをしながら、手に取った俺の右手を自分の方に近付けた。……って、え?
「っ!? ちょっ、ストップストーーップ!!! や、やめろーーーーっ!」
それ以上はいけない! 俺が絶叫すると、狛枝はパッと胸の膨らみに近付けさせようとしていた手を離す。思いのほかあっさりと。ふぅと溜息を吐いた狛枝は、必死に呼吸を整える俺を尻目に、おどけたように両腕を広げて見せた。
「ふふっ、冗談だって。ところでキミの頭のアンテナはどういう原理で動いてるの? ものすごくピンとしてたよ」
「ア、アンテナぁ…?」
「日向クンって今時珍しいくらいに擦れてないよね。バカ正直とも言うけど」
「……っ狛枝! ったく、バカ正直って…」
「褒めてるんだよ。キミのそういう所にみんな惹かれてるんだと思う。…ボクも含めて、ね」
密着していた体を離すと、狛枝は指を唇に当てて軽くウインクする。俺はもう何も言えなかった。そして何事もなかったかのように狛枝はレストランへと再び足を進める。ゴホンと咳払いしてから、俺も狛枝の後を追った。心臓を一突きされたようなダメージを受けた俺とは裏腹に、狛枝はいつもの調子でペラペラと勝手に喋っている。右から左に流すようなどうでも良い話だ。狛枝は俺をからかったんだ。反応が面白くて弄りたくなるなんてことを、随分前に楽しそうに言ってたっけ。
全く、とんでもない冗談だ。もしかしてこういうドッキリも他の奴にも仕掛けたりしないだろうか。…狛枝ならありそうだ。花村はああいうキャラだから除外するとして、左右田なんかはまんまと狛枝の策略にハマりそうだ。あいつは狛枝を不気味がっていたが、女の子となれば話は別かもしれない。狛枝が左右田を誘惑しているシーンが頭に過ぎると、真っ黒な感情が俺を染めていく。くそっ、絶対にそんなことさせたくない! 嫉妬心でジリジリと心臓が焦げ付いていく。俺は反射的に狛枝を呼び止めた。
「狛枝!!」
「何? 日向クン。そんな大声出して」
「今みたいなこと、他の奴には絶対にするなよ」
「………」
狛枝はポカンとしている。やがて目をパチパチと瞬きさせると、黙って頷いた。
「変なこと言うね、日向クン。…とりあえず、忠告として受け取っておくよ」
うっすら笑ってそう返事した後に、狛枝は顎に指を添えて考えているような挙動を見せた。狛枝は俺の真意を知らない。もしかしたら『他の奴に迷惑がかかるから』という意味で捉えられたかもな。一応そういう意味もあるけど、本当はただの嫉妬だ。好きなクセにハッキリと気持ちを伝えることが出来ない。友情を壊したくないっていうのも言い訳なんだろうか。言葉をぼかして、安全地帯を作ってる自分が情けなかった。



南国での修学旅行は平和で、ともすれば退屈でもある。ここで希望のカケラを集めるためにみんなで共同生活をする。最初にウサミからそう言われた時はパニックを起こしかけた俺だったけど、周りの助けもあって何とか順調に日付を消化していった。修学旅行メンバーの中でも狛枝とは特に親しくなって、一緒にいることが多い。優しくて少し意地悪でどこか危うい彼を、俺は段々と好きになりかけていた。友情ではなく、これは恋だ。それを自覚したのは修学旅行も折り返しを過ぎたくらいだった。
だけど俺も狛枝も男だ。告白して、拒絶されるのが…怖い。だから彼とは友達のまま、この修学旅行を終えるつもりだった。しかしその状況も一変する。つい先日平和なジャバウォック島に常識を覆す大事件が起きてしまったのだ。突然狛枝の体が女の子になったのは今から3日前のことである。原因は今のところ不明だ。一晩寝たら治ったなんて、そんな都合の良い話がある訳もなく。3日経った今も狛枝は女の子のままだ。一晩明けた際に、ウサミを問い詰めてみたものの「全力を尽くしてるんでちゅ〜」の一点張りで、どうにもならなかった。
「ウサミ、狛枝はいつ元に戻るんだ?」
「そ、それがでちゅね…、このままだと最終日まで狛枝くんは女の子のままかもしれまちぇん…」
顔を真っ青にしてビクビクと怯えるような仕草をするウサミは、俺から視線を逸らしつつ恐る恐るそう言った。俺は突き付けられた言葉に茫然とする。すぐには治らないって…、それって…。
「何だよ、それ! ウサミでも無理なのか?」
「えっとでちゅね…。強制的に直すことも出来るのでちゅが、その場合は他のデータも削除ちなければならないのでちゅ。ミナサンが今まで集めた希望のカケラも採集で出てきた素材も、リセットされてちまいまちゅ〜」
「…あのなぁ、データとかリセットとか訳分かんないこと言ってないで、真面目にやってくれよ!」
前にもバグとかアバターとか言ってたけど、ウサミの言ってることは俺には良く理解出来ない。そんな俺とは裏腹に狛枝は何かを悟ったように「そっか」と短く返事をした。
「ったく! それじゃ…、狛枝は…!!」
「日向クン、落ち着いて。ウサミは本当のことを言ってるだけだよ。ボクは納得出来た。恐らく最終日までというのは真実だ。ウサミ、それは島を出る時にはボクの体は元に戻るって意味でいいかな?」
「他に問題がなければそうでちゅね。狛枝くんの体を戻す時に、それに付随する情報が自動的になくなってちまうのでちゅ。だから変更が可能なのは、この修学旅行が終わった時なんでちゅよ」
「ごめんなちゃい」とウサミの黒豆のような目からポロポロと涙を流しているのを見ると、健気過ぎてそれ以上追及は出来なった。終始イライラしっぱなしの俺を横から狛枝が止める形で、その日は終わった。どうしよう、狛枝がこのままだったら。ウサミはああ言ったけど、島から出る時に絶対に戻る保証もない。もしこの先一生女のままだったら可哀想過ぎる。狛枝自身はこれを不幸として捉えているようで、「これからきっと幸運が来るんだよ」と笑うばかり。本当にそんな構え方で良いのかというくらい緊張感が無さ過ぎた。
狛枝が女になってから、俺の心臓はドキドキしっぱなしだった。彼が男だった時から自分の中にほのかに芽生えた恋心には気付いていたけど、女に変わった後は性的にも意識するようになってしまった。泡沫に消える想いなら、誤魔化したまま修学旅行を終えることが出来たかもしれない。でも今となってはもう手遅れだった。気付かないふりは出来ない。彼の手を取り、抱き締め、自分だけのものにしたい。そんな欲求が生まれてきていた。


……
………

レストランに入ると、俺達は花村の待つビュッフェに向かった。並べられた色とりどりの料理を見るとオーソドックスな洋風メニューの他に、ピザやパスタが並んでいた。今日はイタリアンの日らしい。案の定パンとサラダとスープしか乗せてない狛枝のトレーに、俺は黙ってマルゲリータの皿を乗せる。ジトッとした視線を送られたが、「ちゃんと食わないと倒れるぞ」と釘を刺すと、狛枝は渋々それを持ってテーブルへと行ってしまった。
「おう、日向。ここ空いてるぜ」
どこか適当な席に座ろうとフロアに視線を走らせると、中央のテーブルに座っていた九頭龍に声を掛けられる。ちょうど向かいが空いていたようなので、俺は九頭龍の前に座った。隣には左右田、その正面は田中といったメンツだ。狛枝はというと女子グループに引っ張られたらしく、ハーレム状態になっていた。困惑気味に汗を流して緊張している狛枝には同情するが、正直それはそれで羨ましい。狛枝は置いておいて、さて食べ始めようというところで隣の左右田がずいっと顔を近付けてきた。
「日向、また狛枝と一緒だったのかよ。オメーらって、マジな話…どーいう関係なワケ?」
「どういうって、普通に友達だけど…」
「嘘つけっ! オレさっき見たんだぜ〜。プールサイドで狛枝に迫られてただろ」
ギクッとして、手に持っていたフォークを取り落としそうになった。確かに2階にあるレストランからはプールが一望出来る。さっきのやりとりが見られていた可能性は十分に考えられた。よりによって目撃されていたとは…。でもここからじゃ距離はかなり離れてるし、会話内容が聞かれてたということはないだろう。
「いや。迫られてたんじゃなくて、ちょっとからかわれただけだって」
「本当かぁ? あの感じはそうじゃなかったけどなー」
良いから納得しとけよと内心思いつつ、左右田に作り笑顔を向ける。納得いかないような表情をした左右田だったが、「まーどうでもいっかー」と食事を再開した。田中の肩の上では破壊神暗黒四天王が大人しくひまわりの種をモグモグと食べている。そんなほのぼのとしたハムスター達とは反対に主人はピリッとした雰囲気を纏い、俺の方を見てきた。
「日向よ…。貴様、あの珍獣を飼いならそうとしているのか? だとしたら危険だ。いくら俺様の特異点とはいえ、まだまだ貴様は未熟だ。奴は地獄の主により呪われている身…。貴様にもいつ呪いが牙を剥くか分からんのだぞ」
「あー、飼いならすつもりはないんだけどな…。ってか『呪いが牙を剥く』って、別にアレは誰かにうつる訳じゃないからな」
田中にとって、狛枝は雑種ではなく珍獣の部類らしい。得体の知れない度では田中自身とタメ張れるぐらいだから、中々納得のいくカテゴリ分類ではある。そして狛枝だけああなってしまったが、被害が他に広がってないのは不幸中の幸いだった。他にも性別が変わってしまったメンバーがいたら、パニックで修学旅行どころの騒ぎじゃない。…今まで深く考えてなかったけど、何故狛枝なのだろうか。ただの偶然じゃなく、必然だったりするのか?
「おい日向、どうしたら元に戻るのかはまだ分からねぇのかよ」
考え込んでいた俺に九頭龍が問いかけてきた。解決方法を問われた俺は、サラダを突こうとした手を止め、無言で頭を振る。ウサミに言われたことを説明すると、九頭龍は渋い顔をして「そうかよ」と呟いた。後10日余りあるから今までと比べたら長くはないけど、早く解決するに越したことはない。
「つーかよぉ、んな深刻になんなくてもよくね? 女子が1人増えたと思えば、目の保養が出来ていーじゃねーかよ。中身はどうあれ、今の狛枝結構サマになってっし」
「…お前なぁ。仲間を助けようって気にはならないのか? 自分がああなったらどうしようとか考えないのかよ!」
左右田はメンドくさいのか、片手をパタパタしながらそうのたまった。自分勝手な物言いに俺は呆れながら、軽くテーブルを叩く。キッと左右田を睨み付けると、ビビったのか「マジになんなよ!」と頭を抱えるようにして縮こまった。
「何だよ、いーだろーが! 狛枝見てみろよ。女子に囲まれてんだぞ!? 右にソニアさん、左に七海、正面には罪木、小泉、西園寺…。ズルいだろ!! オレもハーレムされたいっつの!」
「……」
「ちっくしょー…。オレだって女になってれば、ソニアさんに優しくしてもらえたかもしれねぇのにぃ…」
左右田はグスッと鼻水を啜り上げた。可哀想な生き物がいる…。九頭龍は眉間に皺を寄せて、「馬鹿か」と左右田に吐き捨てた。左右田は九頭龍の返答にイラッとしたのか歯を食い縛る。だけどその長い舌をベロリと出して、「九頭龍があんなんなっても誰にも気付かれなさそうだよな」と楽しそうにからかった。
「んだと、コラァ!? 左右田、もう一度言ってみろよ。簀巻きにして海に沈めんぞ…」
「っうお! そんな怒ることねーだろ。冗談なんだからさ」
ガタンと席を立ち上がる九頭龍に、左右田はビクッと体を跳ねさせ、後ろにイスを滑らせる。汗ダラダラ流して言うセリフじゃないぞ、左右田。でも九頭龍がキレやすいのは分かりきったことだし、左右田も悪気があって言った訳じゃないんだろう。田中はスープを口に運びながら、「これが雑種が雑種たる所以…」とボソリと呟く。左右田は顔から色々な汁を滴らせながら田中に噛み付いた。
「うっせ、うっせ!! オメーにんなこと言われたくねーっつの。ソニアさんにちょーっと目ぇかけられてるからって調子乗りやがって!」
「…フン、メス猫に相手にされてないのを他人の所為にするとは愚かな…! 貴様のアストラルレベルが低いのは貴様自身の問題だというのに」
「ああっ、もう! 何でこんなワケ分かんねー野郎にソニアさんは構ったりするんだーっ!!」
「おい、ケンカするなって。左右田! 田中に突っかかるのはお門違いだぞ。それと田中も左右田を挑発しないでくれ」
ギャアギャアと騒がしくなり始めた俺達に、小泉から「そこ、うるさいよ!」と注意が飛ぶ。女子に囲まれた狛枝もじっと俺達の方を見ている。何か言いたげな視線が少し気になった。

朝食が終わって、食器を片付けていると、狛枝が傍に寄ってきて手伝ってくれた。「ありがとう」と礼を言うと、狛枝は表情を柔らかくする。でも少し遠い目になって、食器を持つ手を止めた。
「日向クンって左右田クンと仲が良いよね…」
「そうか? 普通だろ」
他愛もない話かと思ってそう返しても、狛枝の表情は曇ったままだ。何だか寂しそうに俯いていて、俺はどう言葉を掛けて良いのか分からなくなる。狛枝だって今日は女子メンバーと話して、仲良くなっていた。こうやって絆を深めていけば、全員と希望のカケラを集めるのも難しくはなさそうだ。狛枝と離れるのは少し心が痛んだが、みんなとの友情を育むのは決して無駄にはならない。将来に向けて、かけがえのない財産になることは明白だった。
「キミは九頭龍クンとも田中クンとも親しい。花村クンも十神クンも弐大クンも。七海さん、辺古山さん、ソニアさん、小泉さん、終里さん、罪木さん、西園寺さん、澪田さん…、ここにいる全員に好かれてるんだよ」
「狛枝、どうしたんだよ。…何だか元気ないぞ?」
「ボクもその1人なんだよね。キミのような暖かくて優しい…、希望の象徴のような人と幸運にも友達になれた。奇跡的ですごく名誉なことなのに、何故だか不安になるんだ…」
自分自身を抱き締めるように狛枝は両腕を掴んだ。長い睫毛が震えて、ゆっくりと目を閉じる。狛枝は自分でも原因を理解出来ていない様子だった。もちろん俺にも理由は分からない。だけど不安を感じるなら俺が何とかしてやりたい。ふいにポケットに入れているおでかけチケットの存在を思い出した。この間映画館に行って以来、狛枝を誘っていなかったけど、今日は一緒に過ごすべきなのかもしれない。公園でも図書館でも、狛枝の話が聞けるならどこでも良い。きっと2人で話せば解決出来る。そう思って、狛枝の名前を呼んだ時だった。
「あのね、狛枝くん。掃除が終わったらレストランに集合だって…」
横から七海が来て、狛枝にそう告げた。さっきまでの暗い表情は立ち消え、狛枝は七海に微笑む。一瞬だけ俺は嫌な気分になった。
「あ、七海さん。分かったよ。必ず行くからさ」
「集合って、何かあるのか?」
「うん。女の子全員で集まって、女子会をするんだよ。終里さんは弐大くんとトレーニングで不参加だけど、他はみんな参加するんだ」
疑問に思って聞いてみると、七海が説明してくれた。掃除の後に集まるってことは、今日は狛枝を誘えないじゃないか! 女子に狛枝を取られたような気がして、俺の心は悔しさでいっぱいになった。男にも女にも嫉妬してしまう。誰にも狛枝を取られたくない。グッと拳を握りしめていると、七海はことんと首を傾げて「日向くんも参加したいの?」と聞いてきた。
「え、あ…いや、」
「でも女子会だからなぁ。男子の日向くんじゃ、参加は出来ない…と思うよ」
「あはは…っ、ボクを女子にカウントするのもどうかと思うけど」
「朝ご飯の時にはみんな賛成してたから大丈夫だよ、多分」
なるほど。だからさっき女子が狛枝を引っ張って行ったのか。押しの強い彼女達には狛枝も強気に出られなかっただろう。誘われて、条件反射で頷いている狛枝が思わず頭に浮かんだ。食器を片付け終わったのか、小泉達が狛枝の周りを囲んでいる。
「アタシ達が少しでも狛枝の悩みを解消出来れば、と思って企画したのよ。きっと女の子になって分からないことも多いでしょうしね」
「凪斗ちゃんはオトメ初心者っすからねー。色々と唯吹達がレクチャーするって話になったんすよ! てへりん☆」
「それに狛枝さんは日向さん以外の方とあまりお話ししてらっしゃらなかったようですし、この機会に是非わたくしも狛枝さんのお話を聞いてみたかったのです」
「ぜぇーんぶ小泉おねぇのアイデアなんだよ〜! こんな細やかな心遣いはおねぇにしか出来ないよね。どっかのゲロブタクソビッチには絶対無理だし」
「ひゃああああああんっ、どっかのゲロブタクソビッチって、わ、私のことですかぁ〜っ。うううううぅ…私も頑張ってぇ、狛枝さんの力になりますぅううううっ」
狛枝の周りは一気に賑やかになる。良かったな。そういう意味を込めた視線を狛枝に送ったが、彼は未だ浮かない顔をしたままだった。そんな顔するなよ。お前が元気ないと、俺まで落ち込んでしまう。パラパラとレストランの外に出て行ってしまう女子達の中、俺は赤い髪をしたショートカットの彼女を呼び止めた。
「小泉」
「日向? 何あんた。もしかして会に参加したいの? ダメだからね、男子立ち入り厳禁だよ!」
「そうじゃない。狛枝のこと、よろしく頼む。あいつ、何だか悩んでるみたいだから」
「うん。慣れない体になったんだから、大変だよね。アタシもある日突然男になったらって思うとゾッとするよ」
「体もそうだけど、心のこととかあるかもしれないんだ。さっき友達関係に不安を感じるって言ってたから」
途中で話が切られたけど、多分間違いないと思う。狛枝は希望のカケラを集めることを心配しているんだろう。俺以外の奴とは進んで話したがらないあいつのことだ。どう接すれば良いか分からないとかそういう悩みだろう。澪田なんかは良いアドバイスが出来そうだ。小泉は「ふぅん」と一言漏らすと、思案するように俺から顔を背けた。
「なら日向が聞いてやれば良いじゃない」
「〜〜〜っ。だから今日狛枝を誘おうと思ってたんだよ!」
「そう、先に約束しちゃって悪かったわね。一応聞いておくわ」
小泉はやれやれといった感じで、片手を上げる。そして西園寺と連れ立って、レストランから出て行ってしまった。小泉は責任感が強いからきっと狛枝の悩みを解決してくれるはずだ。とりあえずはこれで一安心だろう。俺はホッと息を吐いて、割り当てられた採集場所に向かうことにした。

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06. ボクはキミの…特別?
次の日。普段と同じように起き、朝食を食べるべくレストランに向かうことにした。コテージを出た所でフラフラと歩みを進める人物を見かけ、俺は声を掛ける。
「おはよう、七海。大丈夫か? そんな眠そうにして」
「ふぁあ〜…。……あれ? 日向くん、おはよう…。………? …いつの間に現れたの?」
「いや、いつの間にじゃねぇから。今普通にコテージ出てきたから。七海は本当に朝が弱いんだな」
苦笑する俺を気にも留めず、七海は再び大きな欠伸を漏らした。ぷぅっと膨らんだ鼻ちょうちんがパチンッと弾けて、口からは涎がツーっと滴っていた。焦点が合わないのか、視線もユラユラ揺れている。大丈夫か? これ。気を抜くとふらりと右に左に傾く七海を支えながら、俺は隣を歩いた。
「そういえば昨日の女子会は楽しかったか? 結構長い間、レストランにいたよな」
昨日採集から帰って来た時に、罪木と澪田が一緒にレストランに歩いて行くのを見た。そして辺りが暗くなってもレストランの明かりが灯っていたから、恐らく夕食前までずっとあそこにいたんだろう。その推測を話すと七海はボーっとしたまま、ゆっくりと頷いた。
「うん。色々な話をしたよ。ところどころ寝てたから、全部の内容は把握してないけど…」
「寝てたのかよ。一体どんな話をしたんだ?」
「…えーっと、まずは狛枝くんが女の子になって困ったことはないか?って話かな。それと確か私の不得意分野の話もあった…と思うよ」
男の俺に話しにくい内容もあっただろう。これで狛枝の負担も大分軽くなったはずだ。安心して聞いていたが、七海の言葉の後半が気になった。確か、七海の不得意分野って…。恋愛ゲーム、だったよな。女子会というと恋の話は鉄板らしい。どういう内容が飛び交うのか、俺には想像がつかないな。狛枝がその話題についていけたかどうかはちょっと心配だったが。
「七海。その…、狛枝は元気になったか?」
「…日向くんは狛枝くんがすごく大事なんだね。あのね、私達があげられたのは『ヒント』だと思う。『答え』を導き出すのは狛枝くん自身。それには日向くんの協力が必要不可欠なんだ」
ついさっきまで眠そうにしていたのに、七海はやけにハッキリとした口調でそう言い切った。答えを出すのは狛枝自身のすること。これは分かる。でも俺の協力が必要ってどういうことだ? モヤモヤする謎かけに首を捻っていると、ホテルの方から小泉が走ってくるのが見えた。
「ちょっと! 何そんな所で油売ってるのよ。さっさと狛枝のコテージに行く!」
「えっ? いきなり何だよ。小泉…。あいつまだ寝てるのか?」
「いいから! とにかくあんたが行くの。これは命令だよ。拒否権なんてないんだからね」
「…はぁ?」
ビシッと人差し指を突き付けられ、茫然としている俺。その背後に回った小泉はくるりと俺の体を反転させて、ぐいぐいと押してくる。ウサミのアナウンスがまだ鳴ってないから、起きてない連中もいるだろう。でも遅れてる奴を起こしに行くにはまだ早い時間帯だ。七海は止めることもなく「いってらっしゃい」と手を振っている。仕方ないな、行くしかないか。俺は狛枝のコテージを目指した。


……
………

狛枝がいるであろうコテージの前に立つ。インターフォンを押そうとして、以前彼を訪ねた時のことを思い出した。風呂上がりで湯気を纏わりつかせた狛枝が部屋から顔を覗かせたんだっけ。あの時が今までで1番ドキドキした。心臓を鷲掴みにするような、艶めかしく妖しげな色香。きっとあれは狛枝にしか出せない。その時の自分は狛枝を好きな自覚はなかったけど、今思えば意識はしてたんだろうな。そんなことを考えながら、インターフォンを押すとあっさりとドアが開いて、狛枝が姿を見せた。
「あれ? 日向クン、おはよう。わざわざ呼びに来てくれたの?」
穏やかに目を細めた狛枝がそこにいる。私服姿のようだし、寝坊している訳でもなさそうだった。何故小泉は「呼びに行け」と言ったのだろう? 「おはよう、狛枝」と挨拶をした俺だったが、そこである違いに気付き、絶句してしまった。
「お、お、お、お前…、その格好…っ!」
「ああ、これ? どう、かな…。ソニアさんや小泉さんはおかしくないって言ってくれはしたんだけど…、1人で鏡の前にいると何だか違和感があってさ」
恥ずかしそうに少し頬を染めた狛枝はいつもと違う格好をしていた。深緑色のコートに白いTシャツ、ここまでは普段と変わらない。だけど今日は長いズボンではなく、短い丈のショートパンツを穿いていた。靴はふくらはぎまでの深さがあるヒールのない黒いブーツで、濃灰色の切り替えが入ったシックな物だった。肌を見せていなくても十分注目されるくらい狛枝は整っていたし、元々モデルのような体型だったのだ。裾から伸びるカモシカのように綺麗なラインの脚に俺はしばらく釘付けになっていた。
「………」
「朝誰かに見てもらおうと思ってた矢先に、日向クンが訪ねて来てくれたからちょうど良かったよ。ああっ、1番見てもらいたい人に最初に出会えるなんて、ボクは何て幸運なんだ!」
「………」
「あ……。日向クン…、ごめんね。こんな見苦しいものを見せてしまって。…そうだよね、ゴミムシであるボクにこんなの似合わないよね。すぐに穿き替えることにするよ」
「ちょっと待て!! そうじゃない。ちょっと驚いただけなんだ。穿き替えるなよ! そのままで、いいから…」
もっと見ていたい。上から下までじっくり眺めている俺に、狛枝は戸惑って瞳を揺らしている。完璧な脚線美とはこういうことを言うのか…。思わずゴクリと喉を鳴らしてしまった。ほどほどに筋肉がついていて、膝部分と足首はきゅっと細くなっている。今までとのギャップも相まって、俺には途轍もなく衝撃的だった。
触りたい、撫で回したい。そんな欲望が頭をチラリと横切ったが、下半身に熱が集まるのを感じて、慌てて頭から振り切る。
「ねぇ、これ変じゃないかな? …やっぱり気持ち悪い?」
「そ、そんなっ! 全然良いと思うぞ! ソニアも小泉も嘘はついてない。何て言うかすごく、」
可愛い。と言おうとして、少し迷った。心が男である狛枝に可愛いという言葉は傷付けてしまうかもしれない。しばらく悩んだ後「…良い感じだ」と告げると、狛枝は安心したようにニコッと顔を綻ばせた。
狛枝は機嫌が良いのか嬉しそうに身支度を整えると、「行こうか」と声を掛けてきた。もしかしなくても、このままレストランに行くのだろうか? 他の奴らには見せたくないけど、狛枝がしたいことを俺が否定する訳にもいかない。「ああ」と頷くと、弾んだような足取りで狛枝はコテージのドアを開ける。昨日の女子会が気になった俺は狛枝にそれとなく話を振った。
「なぁ、昨日の女子会ってどんなんだったんだ?」
「うーん、ボクはちょっと疲れたかな。女の子って元気だよね。目まぐるしく話題が展開するから、ついていくのに精一杯だったよ。でも色々と参考になりそうな話を聞けて、勉強になったよ。体を触られた時はちょっとビックリしたけどね…」
苦笑しながら狛枝は話す。女子に体を触られたなんて、男子からすると羨望の的だが、狛枝はそうは思ってなさそうだ。左右田辺りは泣いて発狂するだろう場面だな。
「ところで狛枝。何でショートパンツなんて穿こうと思ったんだ?」
「んー…、昨日女の子に勧められたからかな。きっとこの不幸は修学旅行最終日まで続く。それならそれで今しか出来ないことをしようって話になったんだ。女の子になるって滅多に出来ない体験でしょ? だったら吹っ切れた方が前向きに考えられそうってね」
なるほど、気持ちを切り替えることは大事だ。でもその影響で俺の心臓が危機的状況なのを狛枝は知らない。
「最終日まで続く、か。…ウサミはそう言ったけど、必ずしも戻らないとは限らないんだ。諦めるなよ、狛枝」
「良いんだよ。日向クン。努力でどうこう出来る話じゃないんだ。この世界はルールに則って動いているんだよ。その配下にいる以上、ボクらは逆らうことは不可能ってことさ…」
その口振りは諦めというより、何だか確信めいた物の言い方だった。狛枝の言っていることは俺には意味不明だ。
「ルールに則った世界って何だよ。お前、何か知ってるのか?」
「…キミが知った所でどうにもならないよ。ボクだって手も足も出ないんだから。甘んじて受け入れるしかないんだ」
狛枝に冷たく返されて、俺は追究することが出来なかった。ジャバウォック島に俺達が閉じ込められていることは、打開しようにも方法がない。それと同じ意味ってことか? 何だか腑に落ちない理屈だ。考えを巡らせる俺を余所に、狛枝は「それでね」と話題を変えた。
「女性になってしまってから、いくつか分かったことがあるんだ。ボクがこの体になったことは絶対的な不幸なんだよ」
「そんなの誰が見てもそうだろ」
「…ごめん、説明がちょっと大雑把過ぎたかな。一時的な不幸じゃなくて、継続している不幸ってことをボクは言いたいんだ。現に女性に体が変化してから、ボクは1度も不幸に見舞われていない」
「それ…、本当か?」
「あんなに毎日怪我をしたり、物を失くしたり、他人に迷惑をかけたりしていたのがパッタリと無くなったんだ。不気味な位にね…。この体が原因としか思えないよ。ボクがボクである限り、不幸と幸運を引き寄せることは…永遠に絶対的に変わらない」
深刻そうに頷く狛枝を見る限り、それは真実のようだった。あんなに狛枝を苦しめていた不幸がなくなっている。その代償として女性になってしまった訳だが、少なくとも今は狛枝の身の周りは平穏が保たれているということだ。
「幸運だけが訪れるというのも妙に落ち着かないけどね」
「皮肉なもんだな…」
狛枝はふぅと溜息を吐いて、「全くだよ」と頭を掻いた。レストランに着くと、そこにいたメンバーからは驚きの声が上がった。主に男子メンバーから。狛枝のショートパンツ姿を珍しがっているのだろう。俺の時に見せた恥ずかしがる素振りは見せずに、狛枝は堂々とした足取りでビュッフェに向かった。今日は隣同士で座れるかと期待したが、またもや澪田が狛枝に呼び掛ける。女子グループの中に納まった狛枝に、俺は熱視線を送ることしか出来なかった。


……
………

今日の採集場所は山だった。作業用に着ていたジャージは汗と泥に塗れて酷いことになったが、それ相応の見返りはあった。出る確率の低い素材が面白いように採れたのだ。一足先に戻っていいと他のメンバーに言われ、俺は大量の素材を担いで山を下りた。さすがに疲れたし、今日の自由時間は誰も誘わないで休憩を取っても良いかもしれない。そんなことを思いながら、鼻歌混じりでコテージのドアを開く。
「あ、おかえりなさい。日向クン」
「………」
俺は無言のままドアを閉めた。パタンと軽い音を立てたそれに額をつけて、しばし考える。今、俺は何かを見た。何かというか、狛枝だ。あいつは今日の作業場所もお決まりの掃除だったから、俺の部屋にいたのは狛枝だったのは間違いない。…何だか別人のように見えたけど、きっと目の錯覚だろう。よし、確かめるためにももう1度ドアを開けるか。ドキドキしながらドアノブに手を掛けると、その先にいたのは紛れもなく狛枝だった。
「ごめんね。まだ掃除が終わってなくて。もうすぐ終わるから待っててくれないかな?」
「………それ、どうしたんだ」
今日の朝、狛枝はショートパンツを穿いていた。その時の衝撃が100だとすると、今回の衝撃はその上を軽くいく。200とかそのくらいだ。コテージの入り口で固まっている俺に、狛枝は忙しなくモップで掃除をしながら「ふふっ」と笑いかける。彼はいつぞやに俺があげたエプロンドレスを身に着けていた。
肩部分が膨らんだ黒いブラウスは上質な生地を使っているのか、パリッと綺麗に仕立てられている。ブラウスと同じ生地の黒いスカートは膝上くらいの長さで、ふわりと裾に向かって広がっている上品なAライン。内側からは繊細な模様の白いフリルが幾重にも重なって覗いている。その上から小さめの白いエプロンを着用していて、首元にはビロードなのか手触りの良さそうな黒いリボンが結ばれていた。ふわふわとした白い癖っ毛に隠れて、フリルで出来たヘッドドレスが見える。スカートの下から覗く艶めかしい脚は今は黒いストッキングに包まれている。可愛い。文句なしに可愛い。体の中心が熱くなってきてるのは多分錯覚じゃない。
「………」
「…日向クン、そんなに見つめられると恥ずかしいよ」
顔を赤くして逸らす仕草が完璧なまでにあざとい。ただ狛枝がそこにいるだけで、耐えがたい誘惑に浸食されていく。肌を露出している訳でもないのに、狛枝を厭らしいと感じる俺は感覚がおかしいのだろうか?
「狛枝…、お前わざとか?」
「え」
「俺の反応を見るために、わざとそんな格好してるのか?」
俺は思ったことをつい口に出してしまった。だっておかしい。突然ショートパンツを穿いたり、エプロンドレスを着てみたり、唐突過ぎるのにも程がある。絶対何かしらの意図が隠されているに違いないと俺は直感した。俺の質問を聞いた狛枝は唇を噛みしめて、黙り込んでしまう。コテージに沈黙が落ちた。俺が言葉を重ねようとしたその時、狛枝が口を開いた。
「あはっ…! あはははははははっ!! はははっあはははははは、あははぁああぁっ」
言い淀みながらも否定するかと思っていたが、想定に反して狛枝から漏れたのは嘲りのような笑い声だった。
「…こ、狛枝? おい…」
「ふふっ、ごめんごめん。結論から言うと、大正解! 鈍感な日向クンもさすがに気付いたかな?」
「は…?」
狛枝は手にしていたモップを壁に立てかけると、恍惚とした表情を携え、俺に近付いて来た。嫌な予感がして後ずさるとすぐに背中に壁が触れた。昨日の朝の誘惑と同じ状況。狂気的な笑みに悪寒が走るが、逃げようにも狛枝に腕を掴まれ、遮られてしまう。
「昨日の女子会は本当に為になる話が多かったよ。目から鱗ってやつだね。それで思ったんだ。キミとボクは友達だけど、もっと深い関係でも良いんじゃないかな? ねぇ、日向クン…」
「ぁ……こま、えだ…」
ねっとりした狛枝の声がぞわぞわと鼓膜に響いて、ぶるりと身震いする。友達よりも深い関係…? それってもしかして恋人のこと、か? パッと思い浮かんだ単語に俺はドキドキしてきた。
狛枝と恋人になれるなら、俺には願ったり叶ったりだ。狛枝と毎日一緒にいる生活が現実になる。一緒に朝ご飯を食べたり、楽しくデートに行ったり、どうでも良い話をして笑いあって、時には昼寝をしてのんびりする。抱き締めたり、イチャイチャしたり、挙句の果てにキス…とかしたりして? そんな1日が毎日続く。それが修学旅行が終わってもずっと…。
胸が締め付けられるような甘酸っぱい想像を膨らませて、狛枝を見やると彼はとんでもないことを言い出した。
「セックスフレンドだよっ! 日向クン!」
「……え?」
「友達なのに友達以上になれるんだよ、ボクらは! 日向クンとボクが! はぁぁあっ、それって素敵だよね。希望に満ち溢れてて…、ああ、何て素晴らしいことなんだ!!」
狛枝は自身の頬を包み込むように両手を当て、口の端から涎を垂らしている。対する俺は唖然としたまま狛枝を見るしかなかった。…セックス、……フレンド? 何だそれ。どこからそんな知識を持ってきたんだ!? 俺の反応に目敏く気付いた狛枝は、いそいそとテーブルからある雑誌を持ってきた。表紙は半裸の女性モデルが挑発するようなポーズをとっていて、タイトルは『あんぁんぁあん』と書かれている。
「昨日この雑誌を小泉さんに貰ったんだ。参考にするといいよって渡されたんだけどね」
「………。それでその…、セックスフレンドってのが出てきたのかよ」
「うん。友達でありながら、セックスも出来るんだよ。もしもそうなれたら、ボクは今すぐ死んでも良いくらい幸運な訳だけど。日向クンはどう思う? ボクと…セックスフレンドに、なってくれるかい?」
照れながらそわそわと俺の表情を窺う様子はどこからどう見てもいじらしい女の子なのに、言っていることは愛の伝道師もビックリなセクハラ過激発言。何で思考回路がこんなに歪んでいるんだ…。前々から狛枝はメンドくさい奴だと思ってたけど、今のこいつは致命的にメンドくさい。キラキラと希望に満ちた灰色の瞳は俺を真っ直ぐに見つめていた。
「狛枝…。1つ聞きたいんだけど、何で俺とそうなりたいんだ?」
溜息混じりにそう告げる。まずは狛枝が何を考えているか聞き出さないことには話が始まらない。思考が突飛とはいえ、1つ1つ解いていけば何か分かるかもしれない。俺の童貞を心配するような狛枝のことだ。きっと友達にかこつけて、俺の童貞をどうにかしようと企んでいるに違いない。狛枝は顔を赤くしたまま「あのね…」と言葉を切り出した。
「ボクは友達がいなかった。日向クンはね、ボクにとってたった1人の友達なんだよ。ボクはそのことを誇りに思ってるし、幸運だって感じている。…だけどキミは違うよね」
「? 何が違うんだよ」
「日向クン、キミにはたくさんの友達がいる。この修学旅行で共に過ごした仲間達、全員がキミと友達だ。もちろん、その中にボクも含まれているけれど。…ボクはその大勢の中の1人、でしかないんだよね」
俯いた狛枝はエプロンの胸元を両手できゅっと握り締めた。長めの前髪が顔を隠して、狛枝がどんな表情をしているかも分からない。
「変な気分…なんだ。他の人と話しているキミを見る度に胸が苦しくなる…。日向クンにはボクだけ見ていてほしいのに、周りはそうさせてくれない…。当たり前だよね、みんなにとっても…キミは友達なんだから。ボクなんかが独り占め出来るなんて考え自体おこがましいんだ」
「狛枝…」
「でも昨日渡された雑誌にこんなことが書いてあったんだ。セックスフレンドって、セックスも出来る友達のことなんだよ。ボクがキミとセックスフレンドになれたら、他の人とは違うってことになる。もしそれが叶えばボクは…キミにとって、特別な存在になれるんだよね?」
「………」
狛枝に縋るような視線を向けられて、俺は声が出なかった。きっと狛枝から真意を聞かなかったら、俺は曲解したまま言葉を受け止めていた。狛枝自身も自分が俺とどうなりたいのか分かってないんだろう。
もう、ダメだ。メンドくささが限界点を突破した。こんなことを言われて、そのまま友達を続けるなんて俺には出来ない。両親を失い、周囲の人間を不幸にするからと避け続けてきた狛枝。元気な頃はそれで良いと信じていたけど、やっぱり1人は寂しい。誰かの愛が欲しい。狛枝と出掛けるようになって、ポツリポツリと零された彼の本当の思い。俺はそんな彼の支えになりたかった。ずっと傍にいたかった。
「お前って、本当メンドくさい」
「ひ、日向クン…!」
引き攣ったような狛枝の驚く声を聞いて、俺は初めて自分が狛枝を抱き締めていることに気が付いた。折れてしまいそうに細い狛枝の体。儚げで柔らかくて、ほんの少し良い香りがする。鼻腔いっぱいにそれを吸い込んでから、自分が汗まみれの臭い体でいることを申し訳なく思った。
「狛枝…」
「何かな…、日向クン」
「悪いけど、お前の言う関係にはなれない」
「うん。知ってたよ」
静かにそう言って、狛枝は体を押して俺から離れようとした。でも俺の腕が外れなくて、もぞもぞと動いている。困ったような声色で「ごめん。分かったから、離してくれないかな」と言われた。だけど俺は離さない。
「ねぇ、日向ク、」
「狛枝。俺は、お前が好きだ。…だから俺と、恋人に、なってくれないか?」
「っ!!? ひな、………え? え?」
やっと体を離して、狛枝の顔を見る。混乱しているのか、顔を耳まで真っ赤にしている狛枝がそこにいた。こんな顔するの初めて見たなと思い、笑みを零す。彼は一層混乱を極めたのか、頭を抱えるようにして瞳をぐるぐると歪ませた。
「ひ、日向、クン? 今のはボクの聞き間違い、だよね…。夢、幻、妄想…。それともドッキリかな? うん、そうだよね。ふふふっ、いくら今幸運しか訪れないと言っても、ここまで」
「聞き間違いじゃない。何度だって言ってやるからな! 俺は狛枝が好きだ。友達としてじゃなくて、1人の男として。お前のことが好き。好きだ。お前が好き…、狛枝」
「〜〜〜〜〜っ」
「それでだ、俺と付き合ってくれないか?」
「あ…あ…、あああああっ!?」
「ちょ、狛枝!?」
ふっと狛枝の体から力が抜けるのが伝わってきた。ゆらりと傾く体を慌てて支えると、狛枝の体は簡単に俺の腕に収まる。パニックが最高潮に達したのか、狛枝は失神してしまった。…え、これって俺の所為か? 何度か声を掛けても、狛枝が目覚めることはなかった。どうするか…。狛枝をベッドに寝かせて、布団を掛ける。とりあえず俺はシャワーで汗を流すことにした。


……
………

シャワーから出ても、狛枝は起きない。どこか打った訳じゃないから大丈夫だろうけど、一応罪木を呼んできた方が良いのか? でも2人きりの空間が無くなってしまうことを躊躇して、中々呼ぶことが出来ない。
狛枝の寝顔は安らかだった。悪夢に魘されているようには見えない。ふわふわとして柔らかい彼の白い髪を梳く。手触りの良さは予想以上で毛並みの良い猫を彷彿とさせた。それが病み付きになって何度も撫でていると、狛枝が気が付いたのか僅かに目を開けた。
「…ん、……あれ? 日向、クン。どうして、ボクの部屋に?」
「バカ。ここは俺の部屋だぞ」
「何で…ボク…、………っ!!!」
さっきまでのことを思い出したのか、ガバッと起き上がる狛枝。俺の顔を見た瞬間、茹でダコのように真っ赤になった。何か新鮮だな。
「日向クン…、ボクは夢を見てたみたいなんだ。すごく幸せな夢だよ。キミがボクに」
「好きだって告白したんだろ? 言っとくけど、現実だからな。夢じゃない」
「夢じゃ…、ない」
俺の言葉を反復してから、狛枝は恥ずかしくなったのか布団を被って隠れてしまった。こんなに可愛いなんて聞いてないぞ。初々しい仕草に心がときめいてしまう。初めて狛枝とジャバウォック公園に出掛けた時もそうだった。まるで友達みたいだと体を強張らせて、ものすごく緊張してた。妖艶な雰囲気で誘惑してきたあの時の狛枝と同一人物とはとても思えない。
「どうして…? どうしてキミみたいな希望が、ボクのような最低のゴミムシなんかに…」
わなわなと震えながら狛枝は布団からそっと顔を出した。自分を卑下するような単語は前に止めるように言ったのだが、簡単には直らなかった。身に染みついていて、条件反射で口にしてしまうらしい。枕詞のようなものだから気にしないでとは言われたものの、少し気になっていた。でもそんな彼のことも受け入れようと思い始めた時にはもう好きになってたな。
「優しいお前が好きだ。意地悪でちょっと冷たいお前も好き。俺を気遣う健気なお前が好き。不安定で壊れてしまいそうなお前も好き。希望が大好きで変態なお前が好き。後は、」
「も、もう良いよ! 日向クン…」
「何だよ。お前だって俺には全力で来てたじゃないか」
「それは…、そうだけど」
もごもごと口籠る狛枝の頬に手を添えて、顔をこちらに向けさせる。潤んだ灰色の瞳がゆらゆらと揺れている。
「狛枝、あの…返事を、聞きたいんだけど」
「日向クン…。な、何?」
「俺と恋人になってほしい。…って何回言わせるんだ!! このバカ」
リピートする気恥ずかしさを誤魔化すように、狛枝の頭をぐしゃぐしゃと掻き乱すと、「ぅわっ」と素っ頓狂な声を上げる。頭についていたヘッドドレスがポロリと取れた。狛枝は常人と感覚が違う。今まで俺が友達だと思って接してきても、「友達じゃない」と平然と言い放つ彼のことだ。恋人じゃなく、友達でいたい。そう言われてもおかしくはない。上目遣いで見上げてくる彼に、俺はドキドキしながら返事を待った。
「ボクはキミの…特別?」
「そうだよ。お前は俺の特別」
「ボク1人だけ? 左右田クンより九頭龍クンより田中クンより花村クンより十神クンより弐大クンより?」
「ああ」
「七海さんより辺古山さんよりソニアさんより小泉さんより終里さんより罪木さんより西園寺さんより澪田さんより?」
「ああ。ってしつこいなお前!」
「だって、だって…、ボクがキミの特別に…っ! 女の子になった不幸がこんな幸運を引き寄せたなんて。明日には昇天してしまってもおかしくないよ!! きっと目も当てられないような酷い死に様だろうね!」
「縁起でもないこと言うな! …勝手に死んでみろ。俺も後を追ってやる」
「そ、それはダメだよ。日向クン!」
「安心しろ、お前が死ななきゃ良いだけの話だろ」
「うん…」
顔を桃色に染めて頷く狛枝が可愛くて、俺はそっと抱き寄せた。背中に恐る恐る回される腕を愛おしく感じる。
「日向クン…、ボクもキミが特別だよ。キミだけが好き…っ」
最後はもう涙声だった。一生離すつもりはない。俺は強く狛枝を抱き締めた。

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