// Call of Cthulhu //

07.条件
『…小泉 真昼は、死にました』
「………」
苗木の言葉に、全員が黙り込んだ。顔に表情なんて浮かばない。ただただボーっとテーブルに置かれた自分のダイスを見つめるだけ。全身から力が抜けて、日向はぐったりとイスに背を預けた。それは七海も狛枝も同様だった。放心状態で声を出そうにも、何も喋ることが出来ない。何で、何で、何で…。そんな単語ばかりが頭の中をぐるぐると回っている。
死刑宣告を突き付けられた気分だった。助けたいと思ってた仲間を助けられなかった。ロールプレイ上のことで、実際の小泉には命の別状はないと分かっていたが、すぐに気持ちを切り替えられるほど状況は甘くなかった。
ショックを受けている3人の様子を、苗木はチラリと窺っていた。心配するような穏やかなトーンで『3人ともいいかな?』と声を掛けてくる。休憩の合図だろうか、慰めの一言だろうか。そう思いながら日向は幾分か落ち着いた気持ちになり、イスに座り直す。


【苗木 誠/GM】
『小泉 真昼の異常な死に様を見た探索者達。それは探索者達にショックを与えるには十分な出来事でした』


GMとしての状況説明、だった。苗木は飽くまでGMとして、このセッションを導こうとしている。分かっているものの、小泉が死んだ衝撃を引き摺っている今となっては、それも皮肉に聞こえた。
「ショックに決まってるでしょ…」
ボソッと狛枝が呟いた。日向は朦朧とする思考で、のろのろと目線だけを苗木へと動かす。一瞬その唇の端が、つっと吊り上がったように見えた。…いや、錯覚だ。あまりにも凄惨な事態に、自分もどうにかなってしまったのか。日向は乱暴に自分の髪を掴む。苗木は悲しみに満ちた表情を崩していなかった。だが予想に反し、そこから続く彼の言葉は容赦ないものだった。
『さぁ、SANチェックの時間だよ。キミ達は<正気度>ロールをして、「1/1D6」の正気度ポイントを失う…。<正気度>ロールはさっきの<幸運>や<聞き耳>と同じくD100ロール。成功失敗の判定は、能力値のSAN(正気)で行うんだ』
「1/1D6って…」
ざわざわと胸が騒いで、額に冷たい汗が浮かび上がる。日向は上目遣いで苗木を見やった。普段の彼から溢れ出ている明快さ、無邪気さが嘘のように鳴りを潜め、どことなく厭わしい。
『うん。これは<正気度>ロールに成功した場合と失敗した場合に、SAN(正気)を減らす値を示しているよ。「/(スラッシュ)」を挟んで左が成功時に減らす値(1)。右は失敗時に減らす値(1D6)になってる。…では、SANチェックどうぞ』
「くそ…っ」
吐き出した所で、どこにもぶつけられないのは知っているのに。日向は荒々しくダイスを握り、半ば乱暴にテーブルに放り投げる。カンカン…と高い音を奏でて、モノクロのダイスは飛び跳ねた。

<正気度>
探索者名  技能   _出目  判定
日向 創_ (85) → 63  [成功]
七海 千秋 (65) → 21  [成功]
狛枝 凪斗 (35) → 36  [失敗]

「あ…」
ギリギリ1が足りない数値に、狛枝は顔を強張らせて絶句する。さっきもそうだが、彼は超高校級の幸運のはずなのに、何で大事な所で失敗してしまうのだろうか。最初に来た幸運の反動なのか? 狛枝は縋るような視線を一瞬日向に向けてきた。眉を下げた微妙そうな表情だ。普通に可哀想だと思った。彼の迷惑さ加減を差し引いても、これは憐れ過ぎる。
『狛枝クンだけが失敗か。正気度がどの程度減るか、1D6でロールしてね』
溜息を吐いた狛枝はモノクロから紫色のダイスに持ち替えて、手の中で軽く揺らしている。やがて意を決したのか、ポンとテーブルにダイスを放った。カラカラ…と転がったそれは窓の光を反射して、キラリと煌めいた。

<正気度 失敗>
探索者名  範囲  _出目
狛枝 凪斗 (1D6) → 3 (残り32)

『3か。とりあえず5以上じゃなくて良かったね。1度のSANチェックで5以上の正気度を失うと、<アイデア>ロール次第で一時的狂気に陥るからね。ましてや狛枝クンは<アイデア>が高いし…』
顎に指を添えて、難しそうな顔で苗木は唸った。狛枝のSAN値は元々日向の半分以下の値だったのに、今回のロールで更に差が開いてしまった。七海の半分しかSAN値がない。考えろ、考えるんだ。今自分が出来ることは何だ? 意識を集中させ、日向は神経を研ぎ澄ませる。どうするべきか…。
「………」
探索者シートに素早く目を走らせた日向は、1つの単語に目が留まった。
「!! …GM、俺の<精神分析>で狛枝のSAN値を回復出来ないか!?」
『いや…、それは無理かな。残念だけど、<精神分析>は使う対象が狂気状態に陥っている時じゃないと使えないんだ』
「…そう、なのか」
遠くにチラリと見えていた希望は、蜃気楼の如く歪んで消える。日向は項垂れて、頭をガシガシと掻き毟った。このまま狛枝のSAN値が減り続け、0になったら精神病院行き…。絶望病の時のように、灰色の瞳をぐるぐるさせた狛枝がベッドに横たわって、ぼんやりしているイメージが浮かぶ。日向はすかさず頭を振った。

<正気度 現在値>
探索者名  元     現在 減少
日向 創_ 85 → 84 (-1)
七海 千秋 65 → 64 (-1)
狛枝 凪斗 35 → 32 (-3)



『…ごめんね。ちょっと休憩しようか。ロールプレイって、結構力入っちゃうよね…。あの、ボク、お茶淹れてくるね』
「苗木クン」
ギクシャクした挙動の苗木がテーブルから離れようとした所を、狛枝が静かな声で呼び止める。ピタリと動きを止めた苗木は『え?』と大きな瞳を瞬かせた。狛枝は席を立つと、絞り出すように言葉を零す。
「こういうのはどうかな? 『狛枝 凪斗』は高校の友人が凄惨にも消失するという、絶望的事件を目の当たりにし、底知れない恐怖を覚えた。真相を究明することに不安を感じた『狛枝 凪斗』は、事件から身を引く決意をする…」
『…それって、』
「日向クンも七海さんも聞いてほしい。…ボク、もうこんなの続けたくないよ」
「狛枝…」
『本当にごめんね、狛枝クン。ボクが誘った所為で嫌な気分にさせちゃったよね…。小泉さんのことは謝るよ。でもセッションの性質上、どうしても彼女はあの位置しかなかったんだ』
おろおろと困ったように苗木は声を小さくした。その後に言葉が続かず、苗木は日向に視線を投げかけた。フォローしてほしいようだ。しかし何も知らない狛枝を巻き込むことは本当に正しいのだろうか? 日向は一瞬言葉を飲み込んだ。
「無理はするな、狛枝。気分が悪いなら休んだっていい。参加しなくても、俺と七海でクリアするから平気だ」
『でも日向クン…、2人じゃさすがに難しいよ。彼の協力は必要なんだ。ねぇ、狛枝クン…どうしてもダメ、かな?』
苗木が狛枝に懇願するように訴えかける。彼―――中身はアルターエゴだが―――の言い分も分かる。このセッションには目覚めない残り9人の命が掛かっているのだ。9人のアバターは必ずシナリオに配置しなければならない。シナリオをクリアし 確実に回収するために、アルターエゴは難易度の低いシナリオを選んでくれた。その結果、当たり前だが要する時間も登場人物の数も減る。命を落とす登場人物であっても9人の内、誰かを入れなければ、全員が登場しない。
だからどんなに残酷なシナリオだろうと、どんなに絶望的なロールだろうと、日向は苦しみに耐え、我慢することが出来た。七海もきっとそうだ。でも狛枝はそうではない。9人のアバターのことは何も知らない。ただ図書館にいる3人に混じって、『普通の』クトゥルフ神話TRPGに興じただけだ。リタイアだって彼の自由で良いと日向は考えている。

「………」
狛枝は日向と苗木の顔を交互に見て、困ったように腕を組んだ。彼は基本的にお人よしだ。お願いをされて、断れるような自己を通すタイプの人間ではない。しかし固く目を瞑り、「ボクは…」と頭をゆっくり左右に振る。柔らかそうな白い髪がその動きに合わせて、ふわふわと揺れた。そして開かないはずの図書館の扉の前へと、緩慢な動きで歩を進めていく。
フラフラと歩く彼はどう見ても具合が良さそうには見えない。狛枝を1人で行かせたくなくて、日向は思わず彼の後を追った。深緑色のコートの裾を軽く引っ張ると、伏し目がちになっている切れ長の双眸とかち合った。顔色は先ほどから変わらず青白い。
「大丈夫か、狛枝…」
「うん、平気だよ。ありがとう、日向クン。でももう、見たくないんだ。希望が消えていくのを助けることも出来ずに、ただ指を咥えているだけなんて…」
そう言って、狛枝は少しだけ笑ってみせた。日向は知っている。狛枝はいつも微笑みを浮かべているけれど、それは心の底から笑っていないものだと。自分が彼の本当の笑顔を見たことは、きっとないのだろう。
「そう…だよな。俺もそうだ。こんなに呆気なく命が失われる。このゲームのこと、ちゃんと分かってなかった」
全く分かっていなかった。セッションを始める前はどこか軽い気持ちだった。ゲームだから何があっても現実ではない。だから平気だ。そう考えていた。しかしそれは間違いだった。ゲームであれ、仲間達が自分の力の及ばない所で命を絶ってしまう。その恐怖と絶望感。コロシアイ修学旅行とどこか似ていた。
日向の本音に触れて、狛枝も「そうだね」と頷く。
『狛枝クン…。希望は絶望に負けてしまうの?』
泣きそうな声で苗木が狛枝に呼び掛ける。その言葉を聞いた狛枝は唇を僅かに噛み締めた。下に向けた視線をゆらゆらと揺らして、考え込むような素振りを見せる。やがて彼は端然と口を開いた。
「…ねぇ、日向クン。……ボクが必要かい?」
狛枝の質問の意図が汲み取れず、日向は首を傾げる。自身の気分が悪いのにも関わらず、日向達の心配をしてくれているらしい。そんな彼を健気に思った。「狛枝がいなくても大丈夫」。そう告げようとして、一瞬口を開きかけたが、言葉を出すのを躊躇った。背後から苗木の視線を強く感じる。大きな茶色い瞳が自分の背中を焦がすほど凝視しているのが何となく分かった。アバター回収のために狛枝にも参加してほしい。苗木の言うことも分かる。だけど狛枝自身の意見を尊重するのが1番だ。
「狛枝、お前のことは必要だよ。他の仲間と同じように、お前のこと大事だと思ってる。でもだからこそ、無理をするようなことはしてほしくない」
「日向クン…。キミはずるい人だね。ボクにそれを選ばせるなんて」
狛枝はフッと微笑した。確かに自分はずるい。苗木にも狛枝にもどっちつかずの態度だ。しかし目覚めない他の仲間と狛枝、どちらかを選べなんてそんな選択は出来なかった。だったらせめて今ここにいる狛枝に選んでほしい。日向は狛枝を真正面から見据える。
「…じゃあ、1つだけお願いがあるんだ。それが叶ったら、ボクはセッションを続けるよ」
「!? 何だ? 俺に出来ることなら、何だってするぞ」
日向の反応を予想していたように、狛枝は目を細めて、愛おしげな表情を見せた。今まで彼はこんな顔をしたことがあっただろうか。柔らかく可愛らしい仕草に、日向の胸はカッと熱くなった。彼の唇から飛び出すであろう『お願い』を日向は固唾を飲んで待つ。
「………キス、して?」
「…は?」
「あれ、分からなかった? 日向クンにキスしてもらえたら頑張れるって言ってるんだよ」
「はぁ!?」
日向はビクリと体を狛枝から引いた。狛枝はクスクスと蠱惑的な笑いを漏らす。整った顔立ちが意地悪そうに歪み、灰色の瞳がキラリと不思議な光に揺れる。「ねぇ…」と妖しい色気を含んだ声で、狛枝は日向の頬に冷たい指を添えた。脊髄にゾクゾクと響くような感覚に日向は鳥肌が立った。さっきまでの穏やかな空気が一瞬にして吹き飛ぶ。
「キス、出来る? ふふっ、出来ないのならそれでもいいよ」
「そ、れは……」
「出来ないよね? 相手が女の子ならまだしも、ゴミムシ同然のボクなんだから。分かってるよ。ボクがキミのこと、知らない訳ないじゃないか」
苦笑を漏らしつつ、狛枝は目を細める。内容についての反論はない。日向は口を閉ざす。先ほどまで気分悪そうにしていた狛枝の顔色は、僅かながら普段の色味を取り戻していた。

出来る訳がない。狛枝の言う通りだった。彼がどんなにしつこく日向に付き纏わおうと、ノーマルな日向は男である狛枝とは恋人になれない。ただコロシアイ修学旅行では、その押しの強さに競り負けて、幾度かそういった行為に及ばざるを得なかった。コロシアイという逼迫した状況で、互いに自暴自棄になった結果なのかもしれない。最後まではいかなかったものの、抱き締められたり、キスをしたり、互いに裸になったり…。敏感な部分を弄られたりもした。つまりそれなりな関係だったのだ。
しかし今の狛枝はコロシアイではなく、アイランドでの狛枝だ。アイランドでの日向と狛枝は健全な友達関係を築いてきた。狛枝が日向に迫ることもなかったし、ごく普通に食事をしたり、どこかへ出掛けたり、何気ない話をしたりして楽しかった。
この違いは何なのか。今考えても日向には良く分からない。図書館にいるこの狛枝がアイランドの延長にいるのだとしたら、友情が転じて愛情に変わったと説明出来なくもない。
「なぁ、狛枝。つい最近まで俺とお前、友達だったよな? それが何で急に…」
「急じゃないさ。ボクは最初から日向クンのこと、そういう意味で好きだったよ。……だけどキミ鈍感でしょ? そのくせボクのこと好きだって言うから」
「だから…、それはっ、友達としてって意味だ!」
「キミにはそうでもボクにとっては違う。好意を抱いている相手に、どんなベクトルでも『好き』って言われたら、もう我慢出来なくなっちゃうよ。嫌われたくないから大人しくしてたんだけど、段々欲が出てきちゃってね」
狛枝は自嘲気味に「それが今さ」と言い放った。コロシアイにしろアイランドにしろ、狛枝自身の本質として、日向を好いていたということなのかもしれない。ストレートな告白に日向は顔をパッと朱に染めた。
「話が逸れちゃったね。要するに前からボクは日向クンが好きだよ」
「………」
「それでするの? しないの?」
そう言って小首を傾げた狛枝は、日向の唇をゆっくりと撫でる。日向はそれを反射的に振り払い、沈黙した。怖かった。コロシアイ修学旅行の彼は恐怖の象徴だった。しかし今はそう思ってはいない。傍迷惑な所もあるが、雰囲気は柔らかく優しい。何より自分を好きだと告げてくる相手を、日向は無下に扱えなかった。アバターのことだってある。日向は心を決め、顔を上げた。狛枝はどことなく力の抜けた表情をしている。
「ボクは離れた場所で本でも読んでいることにするよ。終わったら声を掛けてくれれば、っ!!?」
勝手に自分の中で結論付けて、終わらせようとしていた狛枝の言葉を遮るように、日向は彼の襟首を掴んだ。初めてでもない。コロシアイ修学旅行では何度もしたこと。これくらい朝飯前だ。そう自分に言い訳をして、狛枝の桜色の唇に自分のそれを押し付ける。ふにっとした感触。勢い余って、少し歯をぶつけた。
「んっ、……これで、いいだろ」
「……………」
「苗木、セッションを続けるぞ」
狛枝に顔を見られたくなくて、苗木の方へとサッと振り返る。苗木はそれに対し、『あ、うん』と気の抜けた返事をした。日向はチラリと背後に視線を投げる。瞳を瞬かせた狛枝はその場で立ったまま、放心状態だ。それを放っておく訳にもいかず、日向は狛枝の顔の前でパタパタと手を軽く振ってみる。
「おい、狛枝。約束は守ったんだから、ちゃんと参加しろよ?」
「……日向、クン」
震えるような声を絞り出し、狛枝は参ったとでも言うように額に手を当てる。長い前髪と手に隠れてはいたが、カーッと耳まで真っ赤になっているのはすぐに分かった。それを見て、日向は急に恥ずかしくなる。穴が開いたら入りたい。頭から飛んでいたが、ここには七海も苗木もいるのだ。アバター回収のためとはいえ、狛枝とキスをした。しかも自分からだ。唇を重ねるだけの単純なものだったが、僅かな時間でも狛枝の唇が少しカサついて柔らかかったのが認識出来た。
「………。キミは本当に、バカだね…」
「なっ!? 何でお前にそんな言い方されないといけないんだよ!」
「…ボクは『キスをして』とお願いしたけど、『唇に』とは言ってないよね」
「……あっ、」
頬を染めたまま言われた狛枝の言葉に、日向は雷に貫かれたような衝撃を覚えた。確かに彼はキスをする場所を限定していない。良く考えれば抽象的な表現を逆手にとって、相手を言いくるめることも可能だったのだ。
「頬でも額でも、手の甲であっても…ボクは別に構わなかったんだ」
「っ…だったら最初からそう言えよ!」
「セッションに託けて、日向クンがボクをどう思っているか量る目的もあったからさ。理由をつけて唇を避ける選択肢もあった。…結果は、完全に予想外だね。キミは迷った末に、ボクの唇に口付けた」
「………だって、キスって言ったら普通は」
「そうだね。すごく素直だったとも考えられる。だけどボクは愚かだから、キミにその気があるんじゃないかって思ってしまうんだ。ねぇ、…期待してもいいのかな?」
長い睫毛が揺れて、潤んだ瞳が日向を捉える。むっとするような凄まじい狛枝の色気に、日向はぐらりと床が傾くような錯覚を受けた。
「く、下らないこと言ってないで、席に戻るぞ!」
動揺しているのを悟られたくなくて、早足で自分の席に戻った。苗木は『止めてくれて、ありがとう』と顔を綻ばせる。七海はポーッと日向と狛枝を見ながら、「恋愛ゲームみたいだね」とぽつりと呟いた。自分達のやりとりを恋愛ゲームに置き換えられるのは些か遺憾である。
「あの、七海。………、止むを得ないというか、強いられたというか…。な? 分かるだろ?」
「でも狛枝くんは唇じゃなくてもいいって」
「あああああっ! もういいから、その話は忘れてくれ!!」
日向は頭を抱えて、テーブルに突っ伏した。七海に悪気はないのは分かっているが、今そこを突かれると非常に痛い。
キスをされた狛枝はというと、日向と同じく席についている。ただ普段の冷静な雰囲気とは真逆で、どこか心ここにあらずといった感じだ。時たま白い指先で感触を確かめるように、自分の唇に触れている。頬の赤みは大分引いたが、いつもより血色が良く、その色は桃色だ。
『狛枝クン、本当にありがとう。戻ってきてくれて、嬉しいな』
「どういたしまして。今までボクのダイス運が良くなかったのは、きっとこの幸運のためだったんだね…。大丈夫。日向クンとの絆を感じられた今なら、何だって出来そうだよ!」
「狛枝、頼むから無茶はするなよ…」
『それじゃ、クトゥルフ神話TRPGを再開しようか。もうそろそろセッション内の1日が終わるから、そのタイミングで休憩にしようね』
パンッと明るく手を叩いて、苗木は3人の顔をニコニコと窺った。異論はない。1番気分を悪くしていた狛枝でさえ、すごく元気なのだ。待ち切れないと言った感じで、苗木を見ている。彼が犬だったら、それこそしっぽを千切れんばかりに振っていただろう。日向は1人安堵の溜息を漏らした。

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08.調査
『小泉さんが死んで、狛枝クンが「口」に襲われた後だったね。SANチェックも終わってる。みんな用意は良いかな?』
「ああ」と日向が短く返すと、苗木はこくんとそれに答えた。あれから気分が落ち着いている。狛枝を宥めていただけなのに、不思議と日向自身の不安も薄れていた。修学旅行での出会いもそうだったと、日向はふと考える。彼と言葉を交わすだけで、先が見えない未来にも希望が見い出せた。


【苗木 誠/GM】
『探索者達は動揺しています。これからどうするべきか全く分かりません』


『ここで<幸運>ロールお願いするね』
「分かった」
1番手に馴染んだモノクロのダイスをテーブルの上に転がす。何だか腕が軽い。

<幸運>
探索者名  技能  _出目  判定
日向 創_ (85) → 11  [成功]
七海 千秋 (65) → 73  [失敗]
狛枝 凪斗 (35) → 54  [失敗]


【苗木 誠/GM】
『小泉 真昼の異常を見た探索者達の騒ぎを聞きつけて、店員がやってきます』
【澪田 唯吹/NPC】
「お客様ぁ〜。何か騒ぎがあったようですが、いかがしたんすかー! …おんやぁ? お客様は4名でしたよね?? お1人様はどうかされちゃったっすか…?」
【苗木 誠/GM】
『ピンク色のメッシュが入った猫耳のような独創的な髪型の店員です。レストランの制服を着ていますが、何だか派手な印象を受けました。4人で入店したのに、3人しか席にいない探索者を見て、彼女は首を傾げています』


レストランというからには花村が出てくるのかと思ったが、まさか澪田が登場するとは。日向は驚いた。七海にチラリと視線を向けると、彼女は無言で頷いてみせた。これで澪田のアバターをサルベージは完了だ。これで3人目。残りは7人だ。
「店員さん、どうしよっか」と七海が口元に指を当てる。クトゥルフ神話TRPGの世界は、そこに住む全員が全員、異質な存在について知っている訳ではないらしい。
「うーん、小泉さんが消えてしまったって言っても、現実的に考えて信じてもらえない…かもしれない」
「ボクもそう思うよ。一般人な訳だしね。GM、ボクの<言いくるめ>で店員を言いくるめられないかな?」
『可能だよ。じゃあ、<言いくるめ>ロールしてね』

<言いくるめ>
探索者名  技能   出目  判定
狛枝 凪斗 (90) → 28  [成功]

「まぁ、当たり前だよね…」
90も数値があれば余裕も出てくるだろう。狛枝は素っ気なく片目を瞑ってみせる。それを見た日向の心臓がドキッと大きな音を立てた。彼の美しい容姿も相まって、何気ない動作がいちいち様になっている。
『狛枝クンの<言いくるめ>は成功したよ。それで店員にどんな<言いくるめ>をしたのかな? ロールプレイしてみてね』
「ええと、小泉さんは急な仕事が入って、席を外さなければならなくなった。でも料理をあんまり食べられなくて、慌てて口に詰め込んで、その弾みでお皿をひっくり返しちゃった…って感じかな」
『OK。それでいくね』


【狛枝 凪斗/PL3】
「彼女は急な仕事が入って、席を外さなければならなくなりまして。でも料理を少ししか食べてないので、慌てて口に詰め込んで、その弾みでお皿をひっくり返してしまいました。騒いでしまって、申し訳ないです。お皿はボクらで片付けますから」
【澪田 唯吹/NPC】
「はぇ〜、そうなんすか。分かりました! 他のお客様のご迷惑になるので、静かぁーにお願いしますね。落ちたお皿はこっちで片付けときますんで、心配ご無用っすよ。てへりん♪」
【苗木 誠/GM】
『と言って、店員は下がりました』


「…ロールに成功したとはいえ、意外とあっさり納得してくれたな」
『狛枝クンのロールに付け入る隙がなかったからね。見事だったよ』
話の分かる店員で良かった。日向は大事にならなかったことにホッとした。もしかしたら警察を呼ばれて、込み入った展開になっていたかもしれない。苗木はその傍らでさりげなくダイスを振った。コロコロ…と控えめではあっただが、テーブルから小さな衝撃が響いている。素早くそれを察知した狛枝が、キリリとした表情でそれを指摘する。
「? どうかしたのかな、GM。何でここでキミがロールを?」
『ロールは探索者に限らず、GMがシナリオで起こる現象や物語の分岐を判定する時にも行うんだ。それで、今のロールについてだけど…』


【苗木 誠/GM】
『狛枝 凪斗は、いつの間にか大量の涎を垂れ流していました』
【狛枝 凪斗/PL3】
「んんっ、んく…はぁ、……え?」
【日向 創/PL1】
「どうしたんだよ、狛枝。みっともないぞ。ほら、顔貸せ。涎拭いてやるから」
【狛枝 凪斗/PL3】
「んー…」
【苗木 誠/GM】
『日向 創は狛枝 凪斗の口元から零れている涎を、自分のハンカチで拭います。しかしそれは全然止まりません』


『あ、あの、日向クン…。これは恋人ならではのロールプレイってことだよね?』
「? どこが恋人なんだよ。別に普通だろ? こいつは普段から涎垂らすことが多かったからな。それを拭くのは大体俺だったし」
『…そ、そっか。キミ達にとってはごく自然なことなんだね。…うーん、ボクは良く分からないや』
苗木は僅かに顔を赤らめ、複雑そうな表情で苦笑いをした。日向は首を傾げる。友達としても当然のことをしているのに、何故そんな顔をされなければならないのか。何となく狛枝の方を見るが、モニタを見ている彼とは視線が合わない。
「これはどういうことだろう? あんなものを見たら、普通は食欲なくなるはずだよ。ちょっと現実的じゃないね」
「今の狛枝くんはきっと…小泉さんと同じ症状なんだと思うよ」
「ああ。その意見に賛成だ!」
七海の指摘に日向は大きく頷いた。彼女の言う通りだとしたら、狛枝はその内小泉のように口だけになってしまうのか? 日向は想像をして、背筋がひやりとする。
「GM、狛枝の状態を確認したいんだけど、どの技能を使えばいいんだ?」
『七海さんの<目星>で外見を確認することが出来そうかな。狛枝クンの<目星>と<医学>は残念ながら使えないよ』
「そっか。じゃあ七海、ロール頼むな」
「分かったよ」

<目星>
探索者名  技能   出目  判定
七海 千秋 (90) → 62  [成功]


【苗木 誠/GM】
『七海 千秋は狛枝 凪斗を注意深く観察しましたが、涎を垂らしていること以外特に何も分かりませんでした。ただそれは現時点の話で、もっとしっかりした設備や道具を使って調べれば、何か分かるかもしれないという考えに至ります』
【七海 千秋/PL2】
「むぅ、外見には特に異常は見られないかな。涎以外に気になる所はない…かもしれない。念のため狛枝クンを病院に連れて行った方が良い…と思うよ」


病院か…。日向は1人ごちた。素人判断ではどうすることも出来ない。ただ病院へ行って、狛枝の症状が分かるかは微妙に思える。病気の時にお世話にはなるが、所詮病院は通常の病気しか診断出来ないのだ。超常現象染みた今回の件がこれで解決するとは思えない。だが七海の言う通り、何かしら分かるかもしれない。何もしないよりはマシだと結論付ける。
「GM、今の時間は何時だ? 病院ってまだ開いてるかな。狛枝に精密検査を受けさせたいんだけど」
『現在の時刻は夜の9時を回った所だよ。緊急搬送となれば話は別だけど、すぐに精密検査となると無理だね』
「明日に予約は入れられないかな?」
『ん〜、それなら<幸運>で振ってみてくれるかな?』

<幸運>
探索者名  技能   出目    判定
七海 千秋 (65) → 01  [クリティカル]


【苗木 誠/GM】
『七海 千秋は知り合いに医者がいました。彼は大きな病院に勤めていて、そこで精密検査が受けられそうです。電話をすると夜にも関わらず、彼は出てくれました。明日に精密検査をする約束をして電話を切ります』


「やったな、七海。クリティカルだ!」
日向が七海にサムズアップしてみせると、七海は小さくガッツポーズを決める。どやぁと満足気な表情だ。何だか微笑ましい。
「精密検査はOKだね。これで狛枝くんの詳しい症状が分かるかな」
「だな。狛枝はこれで良いとして…。肝心の小泉の方はどうするんだ?」
「事の発端はボクじゃなくて、小泉さんだもんね。何か残っていないか調査してみようか」
セッションを進めてきて、どう進めたら良いかというのが、何となくだが日向には分かってきた。七海と狛枝に<目星>を頼むと、2人は快く引き受けてくれる。
「私は刑事で、狛枝くんは探偵だもんね。謎を残した事件現場の調査は鉄板だよ」
「GM、現場に何かないか七海さんとボクが<目星>で探すよ」

<目星>
探索者名  技能   出目  判定
七海 千秋 (90) → 31  [成功]
狛枝 凪斗 (80) → 19  [成功]


【苗木 誠/GM】
『七海 千秋と狛枝 凪斗は小泉 真昼が消えた辺りのテーブルやイスを探します。彼女は衣服やポケットの中身ごとこの世から消え失せてしまいましたので、ほとんど何も残っていません。しかしテーブルの足の傍に、彼女の物と思しき手帳があるのに気が付きました。手帳には「azlxwq835」という文字と小泉 真昼がインタビューした相手の名前が書かれています』


文字列は恐らく何かの暗号か、もしくはパスワードだろう。日向はそれをメモに取り、小泉がインタビューしたらしい人物の名前に視線をやる。

『音無 涼子』『斑井 一式』『罪木 蜜柑』

誰の名前だろうか? 聞いたこともない名前だ。アバターが配置出来ないNPCというのも中にはいるのだろう。日向は顎に手を添えて、3人の名前を舌で転がす。ただ1人、罪木 蜜柑だけは見当が付いている。修学旅行で共に過ごした仲間だ。アバターを回収するには罪木に会う必要があるだろう。
「GM、私達が見つけたのは名前だけかな? 例えば他に、年齢とかどんな職業とか…」
『これ以上の情報は出せないかな。現場で見つけられた物はこれだけだね』
七海の質問に苗木は首を振った。小泉をこんなことにした元凶は、この3人の内の誰かである可能性が高かった。しかしGMである苗木が『他に何もない』と宣言する以上、ここの調査は最早無意味だ。となると他の場所の調査が必要になる。日向がその思考をしているということは、他の2人も既にそこに行きついている。今までの付き合いでそのくらいは察知していた。慎みを崩さずに狛枝が苗木に水を向ける。
「小泉さんの自宅や近況を調べたいね。それは調査可能なのかい?」
『そうだね。探索者達と小泉 真昼は高校の同級生。自宅の場所を知っていてもおかしくはないね。だから自宅の調査は可能だよ』
「ってことは善は急げだ。早速小泉の家に、」
そう捲し立てる日向を、狛枝が「日向クン」と声を掛けて止める。
「ちょっと待って。GMは夜の9時過ぎだって言ってたんだよ。今から小泉さんの自宅を訪問するのは、ちょっと無理があるんじゃないかな」
「それもあるし、狛枝くんの体のことも心配だよ。彼の症状が解決していない以上、無闇に調査を進めるのは危険…かもしれない」
2人の言うことには納得出来た。不確定要素を増やすべきではない。なるべく慎重に動こう。日向は少し考えてから、纏めた考えを口にする。
「…そういや、そうだな。じゃあ明日病院へ行って 狛枝の症状を検査してから、小泉の自宅調査って感じか。これで良いか?」
七海と狛枝に確認すると、2人から同意を貰う。早急に事を進めるのも考えものかもしれない。だが、謎めいた今の状況が怖い。早く行動して、さっさと解決したい。真相を知りたい。日向はその思いが強かった。
「…大丈夫だよ、日向くん。きっと何とかなる。3人で力を合わせて、必ず解決させよう。ね?」
「日向クン、キミがボクの不安を取り除いてくれたように、ボクらもキミを安心させたい。3人一緒にいることでそれは解決出来ないかな?」
「七海…、狛枝…。……ありがとな」
日向が礼を言うと、七海と狛枝は顔を見合わせて、ニコッと笑い合った。そう、1人じゃない。3人一緒だ…! 苗木も『その調子だよ、3人とも』と励ましの言葉を贈る。囲んだテーブルはしばし穏やかな空気に包まれた。



『3人はこれからどうするのかな?』
「時間が夜の9時だったら、それぞれの自宅に帰るのが妥当だとボクは思うね」
肩を竦めた狛枝に「俺もそう思う」と日向は返事をした。七海は少し考え込んでから、「はい」と先生に質問する生徒のように手を挙げた。
「そういえば私達ってどこに住んでるのかな?」
『全員都内に住んでるよ。日向クンはアパートで1人暮らし、七海さんは警察の寮に住んでる。狛枝クンは探偵事務所の2階を自宅として使用しているよ』
それを聞いた七海はフードを被りながら、またも思考を巡らせている。やがて真剣な顔で日向と狛枝に話し始めた。
「あのね、狛枝くんを1人にしちゃダメじゃないかなって思うんだ。症状がすぐに出るとは考えにくいから時間はあるはず。でも今夜はみんな一緒にいた方が良いかもしれない」
「ってことはどうするんだ?」
「警察の寮は多分一般人は立ち入り禁止かな。ねぇ、GM。日向くんと狛枝くんの部屋はどっちが広いの?」
『狛枝クンの方が広いだろうね。遺産があるってことを示唆していたし、かなりの広さがあると思うよ』
「それじゃあ…、みんなで狛枝くんのお家にお邪魔するのはどうかな? GM、それは問題ないよね?」
『うん、問題ないよ。狛枝クンの探偵事務所はこのレストランから1時間ほどの場所にある。3人でそこへ向かうのなら、時間を飛ばすけど』
「ちょっと待って。私は警察署と寮に寄って、荷物を持っていきたいな。それだとどのくらい時間が掛かるかな?」
「そうだね。その2ヶ所に寄り道して、探偵事務所に行くとなると2時間は掛かるかな。それでも良いかい?」
「いいよ」
七海はゲーマーだけあって、ゲームの進行は熟知しているようだ。日向は七海と苗木のやりとりを感心しながら聞いていた。

『それじゃ、全員が狛枝クンの探偵事務所に集合した所から、』
「いや、それはダメだよ…」
苗木はシナリオを進めようとしたところへ、狛枝が割って入る。ストップが掛けられた苗木は「えっ? えっ?」と混乱したように狛枝を見て、目をパチパチさせている。長い睫毛を瞬かせながら、狛枝は思案するような顔つきだ。何か重要なことでもあるのか。日向は大人しく彼の言葉を待つ。
「GM、ボクと日向クンが事務所に着いた所からにしてくれないかな?」
「? 事務所? ……おい、狛枝。お前何企んでるんだよ」
「大事なことだよ、日向クン。これはシナリオの内容と深く結び付いているからね」
鋭い灰色の瞳にスッと視線を向けられ、日向は思わず背筋を伸ばした。シナリオの内容に関わるとはどういうことだろう? 苗木は困ったように俯いたが、『狛枝クンがそこまで言うなら』と許可をする。
『じゃあ、日向クンと狛枝クンが探偵事務所に到着したところからだね。2人ともロールプレイお願いするよ。ダイスロールが必要な時は宣言してから振ってね』
そう苗木が言った途端、狛枝は先ほどと打って変わってニヤリと不敵な笑みを浮かべた。ゾクリと悪寒が全身を走る。果たして許可して大丈夫だったのか? 何だか日向は嫌な予感がした。これはロクなことにならない、と。

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